今回の元ネタはこちら。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3124
どうも現代うつの対処についての特集で、結論が
「若者がしかられ慣れていなくて、未成熟だから扱いにくい」だったそうです。
さて、この文章は日本語として正しいのですが、やや短いので色々要素を足せないか考えてみます。
とりあえず、前半は受身形の文です。
だから、まず「誰が」あまり叱らずにやってきたかが足せます。byですね。
次に、その「誰か」が「なぜ」叱らなくなったのかとかもあったら役に立ちそうです。
次の世代で同じことを繰り返さないためには、そのときそのときの企業が対症療法考えていくより、原因断つ方法考えた方が効率がいいと思うんですが。
whyで文章をつないで補足することでさらに伸ばせそうです。
どう扱いにくいか、Howは心が痛くなるので勘弁してください……。
ところで、どうしてこんなこと言い出したかって言うと、英会話をやろうと思って(来年の夏に院試なのです)調べていたら、
日本語は目的語や補語から述べて、主語や述語が後回し、という日本語特有の考え方がある、というような文にぶつかりました。
で、先ほどのNHKの特集の結論(上)を見て、アレ? これって日本語的文章じゃない?って思い当たったので、いじってみました。中身まで見たら、結論とか違うのかもしれません。
正直、この辺は自分も地雷ゾーンど真ん中なので華麗にスルーしたいのです。
だから、以下では具体的にこの5W1Hをうめていく路線ではなくて、若者云々じゃないお話しをします。
現代鬱に関して少し思ったのは、「ゆとり世代」「現代うつ」という言葉を使って否定的な見方をする人間の近くに寄れば元気が出ないのは現代型うつ云々以前に人間として正常動作の範囲内かと思われます。主語が逆なだけで同じことを思っている若者も、年長者の方からしたら失礼で不快かと思われます。お互い、病名とか考える前に鏡で自分の顔を見て笑った方がいいんじゃありませんか?
多分、否定的な見方をされるだけではない、頑張ったら認めてもらえるっていう感覚、待っていたら何とかなる感覚を与え合うことのほうが、病名をつけるよりは平和的に解決すると思います。
病気や現象に対処するんじゃなくて、人間として対面して欲しいなぁ。
さて本題。
この番組とか、その他の議論をたどっていて気になるのは、思い切り他人事(自分に責任がないこと)として問題を語り対処法を考えることです。
たとえば、夏休みが始まる前に学校の先生が「楽しい夏休みにする前に宿題は早めにやっておきましょう」といいます。
先生としたらこれくらいの量なんだからさっさと終わらせてしまえると思っていますが、子供たちからしたら夏休みの宿題は一大イベントです。ハードルが高いのです。
そして、先生の言葉は役に立たずに子供たちの夏休みの思い出として
最終日あたりに大量の宿題に追われた、あるいは出来なくて平謝りしたという一コマが追加されることになります。
おそらく登校日当たりに1/3くらい提出させた方が現実的です。私の高校ではそうでした。
賢くなりましたね。(先生が)
こんな感じに自分が取り組まない問題に解決方法を与えると、えてしてその方法は問題を解決しません。
問題を解決する方法には、
実現可能性(そもそも出来るか)、継続可能性(続けられるか)、実効性(意味があることか)、
とか色んな要素があると思うのですが、他人事に対して語るときは得てして継続可能性や実現可能性が軽んじられます。
宿題くらいの、個人的なことなら笑い話でよいのですが、日本という国はなんでもこんな感じの話し合いをしてしまう国に感じてしまいます。
たとえば、会社のルールを新しくしようと思って、参考に若い者を呼ぶ。
この場合、呼んだ側より長くルールを使っていく若者は継続可能性や、実現可能性に着目し、呼んだ側はもっと会社のことを分かっているので実効性に重きをおいて話し合えばいいはずですが、
全部一緒くたに同じ土俵で話すので、もちろん立場が下の方が遠慮して結局呼んでも呼ばなくても一緒、決まったことは実現不能で会議分の人件費の無駄みたいな。
学級会とかも基本的にこの構造でした……。
真剣に計画に実現性や継続性を与えようと思ったら、現実を見て、良くない結果も自分のこととして引き受ける覚悟が必要だと思うのですが、
報道陣っていつも「報道陣」っていう別枠にいるから、そもそもテレビに期待しても仕方ないような気もします。
第三者報道機関は情報のベースとして必要であることは事実です。
せいぜい自分の現状くらいは目をそらさないでいられますように。
xxxxxxxxxx
自分が破綻する計画としてよくあるのが生活費管理です。
ついつい美味しそうなニオイに釣られて、ちょっと食べに行ってしまうのです。エンゲル係数が高いのです。
ある日決定的な管理方法を思いつきました。
母に、月々の生活費の一部を天引きしてもらうという方法です。
こう、自分の意志とは関係なしにお金が残っていいです。
今書いてて、ポケモンの主人公(10才程度)と同じことをやっていると気づきましたが、はい。
xxxxxxxxxx
~ものです、とか、~~なんですね、とかみの○んた先生みたいだったので訂正。
重力加速度はこれぐらいのものです、みたいな自然科学的で簡単なことを報告するならまだしも。
何か自分ごときが使うと、たいしたものでもないのに
あなたは知らないでしょうけどね
ってニュアンスが加わってしまうみたい。上から目線になってしまって大変良くない感じですよ。
たびたび訂正するのは、一回言ったら取り消せないリアルコミュニケーションの練習場として考えたら
よくない気もしましたが、
上手い言い方を覚える練習も兼ねているので勘弁してください。
普通に断言形になっているところを、自分の主観なら感じた、思う、と付け足したり
○○だが、って形で終わるのを普通に○○で終わらせたり。
動詞の補語や目的語の対応もまだまだおかしいのですが、それはまた次回以降の課題です。
さらにニュアンスもいじりました。もう原型残ってないorz
結論は変わっていないつもりですが、印象は変わったはず。いま下書き機能に気づいたので次回は書いたら2,3日置こう……。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3124
どうも現代うつの対処についての特集で、結論が
「若者がしかられ慣れていなくて、未成熟だから扱いにくい」だったそうです。
さて、この文章は日本語として正しいのですが、やや短いので色々要素を足せないか考えてみます。
とりあえず、前半は受身形の文です。
だから、まず「誰が」あまり叱らずにやってきたかが足せます。byですね。
次に、その「誰か」が「なぜ」叱らなくなったのかとかもあったら役に立ちそうです。
次の世代で同じことを繰り返さないためには、そのときそのときの企業が対症療法考えていくより、原因断つ方法考えた方が効率がいいと思うんですが。
whyで文章をつないで補足することでさらに伸ばせそうです。
どう扱いにくいか、Howは心が痛くなるので勘弁してください……。
ところで、どうしてこんなこと言い出したかって言うと、英会話をやろうと思って(来年の夏に院試なのです)調べていたら、
日本語は目的語や補語から述べて、主語や述語が後回し、という日本語特有の考え方がある、というような文にぶつかりました。
で、先ほどのNHKの特集の結論(上)を見て、アレ? これって日本語的文章じゃない?って思い当たったので、いじってみました。中身まで見たら、結論とか違うのかもしれません。
正直、この辺は自分も地雷ゾーンど真ん中なので華麗にスルーしたいのです。
だから、以下では具体的にこの5W1Hをうめていく路線ではなくて、若者云々じゃないお話しをします。
現代鬱に関して少し思ったのは、「ゆとり世代」「現代うつ」という言葉を使って否定的な見方をする人間の近くに寄れば元気が出ないのは現代型うつ云々以前に人間として正常動作の範囲内かと思われます。主語が逆なだけで同じことを思っている若者も、年長者の方からしたら失礼で不快かと思われます。お互い、病名とか考える前に鏡で自分の顔を見て笑った方がいいんじゃありませんか?
多分、否定的な見方をされるだけではない、頑張ったら認めてもらえるっていう感覚、待っていたら何とかなる感覚を与え合うことのほうが、病名をつけるよりは平和的に解決すると思います。
病気や現象に対処するんじゃなくて、人間として対面して欲しいなぁ。
さて本題。
この番組とか、その他の議論をたどっていて気になるのは、思い切り他人事(自分に責任がないこと)として問題を語り対処法を考えることです。
たとえば、夏休みが始まる前に学校の先生が「楽しい夏休みにする前に宿題は早めにやっておきましょう」といいます。
先生としたらこれくらいの量なんだからさっさと終わらせてしまえると思っていますが、子供たちからしたら夏休みの宿題は一大イベントです。ハードルが高いのです。
そして、先生の言葉は役に立たずに子供たちの夏休みの思い出として
最終日あたりに大量の宿題に追われた、あるいは出来なくて平謝りしたという一コマが追加されることになります。
おそらく登校日当たりに1/3くらい提出させた方が現実的です。私の高校ではそうでした。
賢くなりましたね。(先生が)
こんな感じに自分が取り組まない問題に解決方法を与えると、えてしてその方法は問題を解決しません。
問題を解決する方法には、
実現可能性(そもそも出来るか)、継続可能性(続けられるか)、実効性(意味があることか)、
とか色んな要素があると思うのですが、他人事に対して語るときは得てして継続可能性や実現可能性が軽んじられます。
宿題くらいの、個人的なことなら笑い話でよいのですが、日本という国はなんでもこんな感じの話し合いをしてしまう国に感じてしまいます。
たとえば、会社のルールを新しくしようと思って、参考に若い者を呼ぶ。
この場合、呼んだ側より長くルールを使っていく若者は継続可能性や、実現可能性に着目し、呼んだ側はもっと会社のことを分かっているので実効性に重きをおいて話し合えばいいはずですが、
全部一緒くたに同じ土俵で話すので、もちろん立場が下の方が遠慮して結局呼んでも呼ばなくても一緒、決まったことは実現不能で会議分の人件費の無駄みたいな。
学級会とかも基本的にこの構造でした……。
真剣に計画に実現性や継続性を与えようと思ったら、現実を見て、良くない結果も自分のこととして引き受ける覚悟が必要だと思うのですが、
報道陣っていつも「報道陣」っていう別枠にいるから、そもそもテレビに期待しても仕方ないような気もします。
第三者報道機関は情報のベースとして必要であることは事実です。
せいぜい自分の現状くらいは目をそらさないでいられますように。
xxxxxxxxxx
自分が破綻する計画としてよくあるのが生活費管理です。
ついつい美味しそうなニオイに釣られて、ちょっと食べに行ってしまうのです。エンゲル係数が高いのです。
ある日決定的な管理方法を思いつきました。
母に、月々の生活費の一部を天引きしてもらうという方法です。
こう、自分の意志とは関係なしにお金が残っていいです。
今書いてて、ポケモンの主人公(10才程度)と同じことをやっていると気づきましたが、はい。
xxxxxxxxxx
~ものです、とか、~~なんですね、とかみの○んた先生みたいだったので訂正。
重力加速度はこれぐらいのものです、みたいな自然科学的で簡単なことを報告するならまだしも。
何か自分ごときが使うと、たいしたものでもないのに
あなたは知らないでしょうけどね
ってニュアンスが加わってしまうみたい。上から目線になってしまって大変良くない感じですよ。
たびたび訂正するのは、一回言ったら取り消せないリアルコミュニケーションの練習場として考えたら
よくない気もしましたが、
上手い言い方を覚える練習も兼ねているので勘弁してください。
普通に断言形になっているところを、自分の主観なら感じた、思う、と付け足したり
○○だが、って形で終わるのを普通に○○で終わらせたり。
動詞の補語や目的語の対応もまだまだおかしいのですが、それはまた次回以降の課題です。
さらにニュアンスもいじりました。もう原型残ってないorz
結論は変わっていないつもりですが、印象は変わったはず。いま下書き機能に気づいたので次回は書いたら2,3日置こう……。