80k700m タイトルはまだ考えてない(旧 安全靴をはいたタヌキのホームペヱジ)

自称“流川市民”の、鉄道橋梁&トンネルと北海道の国鉄(JR)廃線跡が好きな人間がブログに挑む。(最近は迷走の日々…)

鉄道跡地の思い出・深名線編

2011年05月18日 | 鉄道―函館本線(砂川~旭川)周辺廃線調査
 この路線は、バス転換となったローカル線で唯一乗車した路線である。(私が乗車したローカル線がこれ以上廃止となってもらいたくない)
 目を閉じると、車体を大きく揺すりながら小刻みにレールの音を拾って走っていた深名線の車窓を思い出すが、今でも、10mレールの上を走行する気動車の「ガタン,ガタン,ガタン…」という音が聞こえてくるようだ。
 多度志の水田地帯を走る光景や、そば畑の白い花の中を走る光景、政和付近の雨竜川沿いの渓谷「ポンカムイコタン」の、崖と雨竜川に挟まれた険しい地形を縫いながら雨竜川を渡るスリリングな光景、朱鞠内湖を奥に見ながら、木の根元だけが残る湿地帯を進む幻想的な光景…、いずれも脳裏に深く焼き付いているが、思い入れが深いこの深名線で、特に思い入れが深いのが、朱鞠内駅から湖畔駅の区間である。

 実は、初めて乗車したのは、旅行の計画中に廃止が決定した平成07年02月であり、列車の乗り心地の悪さ(失礼!)にしびれてしまった私は、08月11日と12日に再び乗車する事にした。
 11日の晩は湖畔駅の待合室で泊まったのだが、駅の正面に住む民家の人が、気を利かせて毛布を持って来て下さり、その日の湖畔駅の待合室は、旅行者数人で一杯となった。
 夜通し、照明もない暗い待合室で、旅行者同士でたわいもない話に熱中したひとときが忘れられない。
 翌日、湖畔駅から朱鞠内駅までの1.89kmの区間を歩く事にして、朱鞠内川に架かる朱鞠内川橋梁を渡り、朱鞠内の旧市街地の脇を抜けると、そば畑が視界に飛び込んできた。
 そばは小さな白い花を沢山つけて、あたかも白い絨毯の中を浮遊しているかのような錯覚に襲われた。
 そばの花を愛でながら雨竜川に架かる第7・第6雨竜川橋梁をゆっくりと渡ったが、今歩いているこの区間が、もうすぐ線路が剥がされて原野に帰るのかと思うと、たまらなくいとおしくなった。



 次に歩いたのが、廃止後の09月05日だった。天気がころころと変わる初秋の暑い日であった事を覚えている。
 この時には、名寄市立短期大学の生徒であったHさんとのデートのおまけとして、映画「スタンド・バイ・ミー」を気取って歩いてみた。
 湖畔駅にたどりついた時に、朱鞠内駅へ出発する準備をしていた某国公立大学のサークルのメンバーに写真を撮ってもらった。
 彼らがいなくなった待合室で湖畔駅で寝泊りした時の事を思い出していると、彼女が待合室の片隅に落書きを始めた。おそらく、ここに来た思い出を残したかったのだろう…。



 待合室でしばらくくつろいだので、先に朱鞠内駅に向かった彼らの後を追うように出発した。
 夏に白い花をつけていたそばは、実をつけて茶色くなっており、そば畑でしばらくたわむれた後で、彼女の手を引きながら橋梁を渡った。
 たかだか手を握っているだけなのに、とてもどきどきした。高いところを渡る恐怖感とはまた違ったスリルを味わった。
 駅まであと少しというところで、先に出発したサークルのメンバーと再会したが、彼らの手には、駅で使われていたポイントのカンテラ(正確には、転轍標識灯)があり、このカンテラについて尋ねてみたところ、町役場の人間からもらったと話してくれた。
 慌てて駅に駆けつけると、幌加内町役場の人達が駅構内のあらゆる部品に札をくくりつけて運ぶ準備をしていた。
 そのかたわらで、一人の初老の男が、背中を幾分か丸めながら書類を燃やしていた。初老の男は朱鞠内駅長の佐々木氏で、駅の残務整理の為、しばらくはここにいるとの事であったが、紅蓮の炎に包まれている書類を眺めていた駅長の後姿は、とても淋しそうであった。
 駅の終焉を告げる炎を眺めながら、初秋の暖かな日差しが差し込む誰もいない待合室で、2人きりで遅い昼食をとる事にした。数日前には、待合室にあふれんばかりの人達がいたのが、うそのように思えた…。

 …それから2年後、就職活動をしていた私は、某大学の某サークルの部屋で朱鞠内駅のカンテラと再会を果たした。
 しかし、彼女とは、あの日以来、会う事が出来ない遠い存在になってしまった。正確には、自らの過ちで遠い存在にしてしまった、というべきだろう…。







 さて、私はこの路線が廃止になってからも何度か訪れて、私が幌加内町を訪れる度に、色々な人と知り合う機会を得て、大変お世話になった。
 字沼牛の阿部氏,字幌加内の高橋氏と大石氏,字大曲の米田氏,字朱鞠内の大西氏を始めとする幌加内町の方々や、江別の乾氏,札幌の木和田氏と頭川氏,室蘭の野本氏…皆様の暖かな心遣いのおかげで跡地の調査が出来て、非常に感謝しております。

 私が深名線の跡地にこだわる理由は、自分がまだ青かった頃の思い出がそこに眠っており、また、幌加内町が好きになったからである。
 2人で歩いた1.89kmの区間からは、鉄道の痕跡はなくなってしまい、わずか数年で草に埋もれて無残な姿に変わり果ててしまったが、あの時に抱いていた彼女への思いは今でも変わっておらず、目を閉じると、2人で歩いた頃の光景が鮮やかによみがえる。
 たとえ、跡地がどんなに姿を変えて、印画紙に焼き付けられたあの時の風景が色褪せたとしても、私の心象風景はいつまでもあの日のままであろう…。平成10年11月に彼女の落書きと淋しい再開を果たした私はそのように思いながら、深名線第4次調査を終了した。

 私はその時以来、湖畔駅の待合室の姿を再び見る事はなかった。最後の姿を見た翌年に解体された事を知ったのは、それから数年後の事であった…。



 この10余年程、思い出さないようにしていた彼女の事だが、東北地方太平洋沖地震で、仙台市に実家がある彼女の事が脳裏によぎった時に、無事でいてほしいと願わずにはいられなかった。


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