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佐賀県・福岡県 2013/05/11 土曜日
2013/05/20 月曜日 十日目
6時に出発したが朝食を摂る店も無いので、コンビニの握り飯で代用する。
コンビニだけはどこにでも有ってうるさい程である。快適に走って8時過ぎに関門トンネル通過。今回の旅の九州部分はこれでお終い。
そう言えば下関側から門司側に抜ける時に下りが長く登りは短かい印象があった。逆コースを走ってみてその印象は正しいと感じた。おそらく下りとのぼりの交点は九州寄りにあって九州側の勾配がキツイのだろう。
次の目的地の呉まではかなりの距離が有ったので途中で午後になってしまった。
広島を過ぎてから道は南下してやがて海岸線に達したがさらに南下が続いて「鉄のくじら館(海上自衛隊呉資料館)」に着いた時には2時を過ぎていた。
(1)鉄のくじら館
館の前に展示して有る実物の「あきしお」は既に海自のHPで見ていたものの、その大きさにたじろいでしまう。
帝国海軍の潜水艦がドイツ海軍から潜水巡洋艦とやや嘲笑気味に呼ばれていた理由であるその大きさは、狭い大西洋で行動するドイツUボートと違って日本の潜水艦は広い太平洋を走り回らなければならないのでどうしても大きくしなければならなかったのである。
又、過密状態の大西洋ではやたらに走り回るより密かに行動する必要から潜水艦は小さくなり少人数で行動するのであった。「あきしお」の内部を見せて貰えた上に勤務経験者のガイドが付いていて質問に応じてくれた事で多くの疑問が氷解した。
(2)大和ミュージアム
大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館・戦艦大和記念館)。本来ここには興味は無く、むしろ反発を覚える施設ではあるが「鉄のくじら」を出て顔をあげると目の前にあったので仕方なく訪問した。反発の理由は戦艦大和そのものではなく、間違った時期にこのような船を作ってばかげた資源浪費をしたあの大本営の愚かさにある。
(3)巨大な、戦艦大和模型
第二次大戦の初期までは艦対艦の砲撃戦が海戦の主流であったのだが、ドイツが大量のUボート船隊を送り出して通商破壊作戦の有効性を示し、日本が真珠湾で航空決戦の劇的効果を示した結果海戦は大きく様変わりした。
だから、その後現在に至るまで海戦旅団は空母を中心にして駆逐艦、潜水艦、掃海艇、輸送船の構成に成っていてもはや戦艦と言う機能に出番はないが、当時の日本の大本営は自分の編み出した航空決戦戦術を全く認めなくて艦対艦の砲撃戦に固執した結果がこの巨大で役立たずな戦艦なのだ。
(4)零戦
内陸国であるドイツにとって航空兵団は空母をあまり必要としないが、海洋国である日本においては空母なしには航空兵団は機能できないのでその空母を守る意味でも潜水艦は必須であった。
それなのに日本海軍は姿を隠して行動する潜水艦に好意を持たず又軍を実質的に牛耳っていたのが陸軍の歩兵出身者達だったために、見栄えの良い大艦巨砲主義に凝り固まって自軍の艦船兵員を消耗するだけの愚かな作戦を続けて自滅してしまったのである。
潜水艦を軽視するあまりアメリカ潜水艦の攻撃をも軽視して必要な備えも怠った結果日本側の船舶を片端から沈められるに至ったにも係わらず、何の対応も思いつかないと言う無能さはその悲惨な結果に何の対処もせずに放置したあげく、かっこよく腹を切る事で責任を取ったつもりになって立ち去ってしまうと言う安易さと合わせて憎んでも憎みきれないものが有る。
もう一つ必ず指摘しておかなければならないのは、あの戦争のそもそもの発端は自衛戦だった事と植民地化の最終段階に差し掛かったアジアの開放だった点である。我々戦後の日本人が戦争を忌み嫌い戦争に係わる全てを否定したがるのは、戦争末期の愚かさと惨めさの賜物である事を考えると、本来の目的を見失ってもそれを全く考慮せずに、惰性ででもあるかのように全国民を引きずり込んだあの大本営と言う無責任で愚かな集団はいくら罵っても罵り足りないと思う。
広島市北部のネットカフェでしばらくネット仕事をこなした後で戸河内(とごうち)に移動して「戸河内 道の駅」で車中泊した。中国道戸河内インターの直ぐ近くだが静かな田舎であって心地よく眠れた。
2013/05/21 火曜日 十一日目
54号線経由で出雲のネットカフェに移動してネット仕事をした。
出雲蕎麦の割子(わりご)を食べたくなったのが理由で、店が開くまでの時間調整を長距離を走りネット仕事をすることに使ったのである。
松江市の竪町にある田村が筆者のひいきの店で、ここのだし汁が特に美味いと思う。普通に割子を注文すると三段重ねで出てくるが、割子四枚と言う裏技も有る。三段の場合は三種類の薬味(のり、刻みネギ、大根おろし)が付いて来るが四段になればこれに鰹節が加わる。薬味については店によって違うかもしれないが四段食べて蕎麦湯を飲めばかなり満腹する。
帝釈峡は三段峡と共に広島県を代表する景勝地として知られ、国内有数の峡谷でもあるそうだが、筆者にとってここは景勝地としてよりも特異な縄文遺跡として重要な場所である。
広島県神石郡神石高原町
広島大学 大学院文学研究科・文学部のHPに次のように記載されている。
「帝釈峡遺跡群の洞窟、岩陰遺跡では、縄文時代を中心に旧石器時代から古代以降にまでおよぶ各時代・各時期の遺物包含層(文化層)が整然と連続して堆積しており石器時代の変遷を復元する際の基準となってきました。
さらに、石灰岩地帯に立地していることから通常石器時代のような古い遺跡では残りにくい人骨、動物骨、貝類の遺存に恵まれ考古学のみならず人類学、古生物学、地質学などの分野からも注目を集め特色ある学際的な研究が進められています。」
(1)時悠館
(2)
帝釈峡時悠館は要領よく整理された博物館でここ帝釈峡が中石器から弥生までの通史で岩陰遺跡の多い特徴が良く判った。(3)

(4)白雲洞
(5)
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(7)雄橋(おんばし)
鍾乳洞である白雲洞の観光客が入れる場所は狭いがこの地域の地下は石灰岩台地になっているので古代遺物、特に骨類がとても良く保存される。(8)
雄橋も石灰岩質の岩の下部が長年にわたる水流で溶かし去られた自然の巨大な石橋で、単純に見て楽しめるものだった。
(8)
結論としてここ帝釈峡は、数日以上宿泊して丹念に見て廻るべき興味の尽きない遺跡である事が判った。いつか必ず再訪しようと思う。
米子に移動して岡成池展望駐車場車中泊。
最初と最後の車中泊を同じ場所にしたのは、それだけ居心地の良い場所だったから!
2013/05/22 水曜日 十二日目
すきやで朝食の後ネットカフェでネット仕事を済ませると後は帰路になる。
9号線はバイパスが延びて来たために、注意しないとしばしば海岸線から離れてしまう。
せっかく日本海沿岸を走るのだから、出来る限り海の見える道を走りたいと思う。
(1)9号線の海岸よりに農道が走っていて時々古い集落に遭遇する。
写真の左手の海岸林の先は砂浜になっている。(2)
鳥取砂丘の西側では農道と9号線の間が畑になっていて、砂丘ラッキョウと長芋が特産物になっている。特に長芋は砂地に塩ビの筒を埋め込んでその中で栽培するものだから、真っ直ぐで大きな芋になるようだ。
(3)
(4)
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(6)風力発電
日本海沿いの海岸線を旅すると風力発電設備がうるさいほど目に付く。自然保護の営みとも言えるし、これ自体が景観汚染とも言える。しかも近くに寄ると結構うるさいのである。
どこの設備を見てもほぼ同じ構造をしているが、耐久性から言うと設備の上部と下部の風から受ける圧力が大きく違う為に常に応力歪を受け続けていて長持ちできそうにはない形である。風が弱過ぎる時も強過ぎる時も発電出来ない効率の悪い構造でもある。
この構造が価値を持つのは常に一定の方向から、一定の強さの風を受け続ける場所に設置した場合であってそのような場所は極めて少ない。世界的に見て成功しているのはデンマークとカリフォルニアくらいしかないのではないだろうか?
17時半高蔵寺到着。今回の全走行距離は3370.3Kmだった。
弥勒登山111回目、反時計回り 2013/05/31 金曜日
(1)青大将
(2)
梅林の上の竹橋を渡った所と、もっと登って中電の25番鉄柱の黄色い標識の近くで二度青大将に遭遇した。どちらも2m近い大物だった。
弥勒登山113回目 反時計回り 2013/06/14 金曜日
(1)青大将の木登りを初めて見た。34番標識から廿原方面の下り。
鱗に引っ掛けるのかどうかよく分からないがスルスルと登って行って見えなくなった。
(2)

耐震博覧会in名古屋メッセ 2013/06/22 土曜日
主催者が木材市場業界の「8089すてきナイス」グループなので基本的に住宅と木材の展示会でありテーマとしての耐震には見るべきものは少なかったが名大の川崎浩司准教授の「巨大地震・津波とその対応」講演は面白かった。
東京国際展示場 2013/07/05 金曜日 ブックファア訪問
呉善花(オ ソンファ) 2013/07/10 水曜日
この済州島出身の朝鮮族女性が出した本の既読2冊にはあまりインパクトを感じなかったが、3冊目の「日本オリジナルへの旅」を読んで別人かと驚いた。
前2冊は女性の感性が前面に出過ぎていて論理性や実証性が希薄に感じられていたが、今回読んだものは違った。女性の感性が強いのは変らないがその主張に十分な論理性があり、論理には豊富な裏づけ情報がつけられている。
もともと大学教授なのだから論理構築力が有るのは当然なので、日本語能力の向上と日本文化の背景情報がしっかりと蓄積されて効果を発揮したのではないだろうか。
第二章第三章でやや突っ込んで解説される日本的オリジナりティの捉え方にも鋭いものが有る。私の考える日本的オリジナルティの典型は左右非対称の美、自然との共生観、物心両面での直接を嫌う感性であり、呉善花の発言にそれの含まれていることが嬉しい。
木曽御岳山 2013/07/12 金曜日
御岳山には足しげく通っているので今更とは思うが、自分の最も好きなルートを紹介して置くのも悪くはないと思うので写真を撮って来た。
朝5時頃に起床して直ぐに車を走らせて中津川までは中央高速を走り、中津川からは国道19号線をひたすら走って木曽福島で元橋を渡るともう御岳山裾野の領域になる。
王滝川に沿って御岳湖の北側を走れば王滝村に着く。その先はもう山岳道路となって田の原高原までえんえんと登り続けることになる。が、しかし今回は牧野ダムの手前で道路が封鎖されており左側つまり御岳湖の南側を通るように指示されていた。
何か理由が書いてあるようだったが急ぎたいので読む事をせずに指示に従って左折した。
御岳湖南岸の道は若干遠くなるので通った事はなかったが初めて走ってみると、意外に広くて良い道なのに気付いた。この辺りに来る時は早く山を拝みたい気持ちに急かされるので知らない道があっても試してみる心の余裕もない場合が多く今回は実に幸運だったと言える。
南岸を走る道も北岸を走る道も結局は王滝村で合流するのである。
(1)王滝中学校の上で道はTの字になっており、右折すると八海山を通って田の原に至る。
左折するとやがて砂利道になり、道を間違えたかと不安になるほど寂しい林道を5Km近く走って王滝温泉に至る。
八海山の少し手前で猪一家に遭遇した。アスファルトの上に母猪と7匹の瓜坊がウロウロとしていたのだ。食料を探していたのかも知れないが、慌てて車を止めカメラを取り出す間に気付いた母猪を先頭に猛ダッシュして藪の中へ消えていった。大きめの猫のような瓜坊が一列になって母猪の後を追いかける姿はとても可愛かった。
田の原に着いたのはほぼ8時であり既に日は高いがここはもう7合目であり、標高2180mに位置するのでそれ程暑くはなくこの先登るに従ってさらに涼しくなるのが嬉しい。
(2)見上げれば谷筋には若干の雪も残っている。
正式には「田の原天然自然公園」と称していて大型バス数十台とは別に普通車百台以上の駐車が可能なこの場所は、山には登らないが景色を楽しみ高原の湿地帯を散策する人達が大勢やって来る場所でもある。
(3)珍しく王滝頂上とその右奥の最高峰「剣が峰」がそろって見えている。
(4)王滝頂上の左下には昭和59年(1984)9月に発生した長野県西部地震(M6.8)によって発生した「御岳崩れ」と呼ばれる大規模な山体崩壊の跡が見える。
この崩壊が直下の濁川温泉を襲い15人の犠牲者が出ている。
あの崩壊から既に29年が経っているのに、抉り取られた山肌はまだむき出しのままで痛々しい傷口のように見えている。
田の原から登るルートの良い点は少し登ると直ぐに樹林から抜けてそれ以降は頂上に至るまで広々とした視界を楽しみながら歩ける所に有る。それは他のどのルートよりも優れているので、他のルートにはあまり行かなくなってしまった程である。
(5)最初のチェックポイントは通称「ハゲ」又は「あかっぱげ」
その名の通り覆土が流出しつつあって山肌がむき出しに成っている場所である。
(6)ここを過ぎれば直ぐに森林限界に達してその先にはハイマツ以上の樹木はなくなる
このハイマツの低い藪の中に雷鳥が住んでいて初夏から梅雨までは雷鳥の雛が走り回っている。ここの雷鳥は人を怖がらないのでしばしばその姿を見せてくれるのだ。
(7)二つ目のチェックポイントは金剛童子 森林限界を越えてから最初の日陰のある場所なのでここで水を飲み、景色を見渡して小休止する。
(8)登山道を外れればハイマツの原生林が広がっている
。
(9)八合目石室
(10)振り返ると田の原が見える。
(11)二つ目の避難小屋を過ぎれば九合目で王滝頂上が間近に迫ってくる
(12)王滝頂上の御嶽神社
(13)「八丁弛み(はっちょうだるみ)」の向うに剣が峰が見える
(14)八丁弛みの左下は大きな谷になっていて「地獄谷」の名がついているが、今も水蒸気の噴出孔が生きていて蒸気と共にジェット機のような音と硫黄の臭気を吹き出している。
この地獄谷は南を向いているので冬の快晴の日には遠く名古屋からも見る事ができる。
中区丸の内の12階のオフィスで働いていた頃の私の席からは、冬の天気の良い日には御岳山と伊吹山の両方を見る事ができたものである。水蒸気の噴出までは見えなかったが!
(15)「八丁弛み」はむき出しの斜面で広々としている上に両側が谷になっているのでとても風が強く時には歩き辛い事も有る。
(16)今年の梅雨は雨が少なかったので北側の谷には雪渓が残っていた
(17)御岳山は神様の山であり山岳宗教特有の奇妙な神像があって、毎年この神像の周りで火を焚いて儀式が執り行われる。これらの神像は銅製でありかっては黒かこげ茶色で艶光していたものである。その頃は私も御岳山が火山であるとは思いもしなかった。
少なくとも5千年間は活動しなかった山で有るが1979年(昭和54年)10月に水蒸気爆発を起こして火山である事を自らが証明してしまった。この噴火がきっかけとなりそれまでの火山分類である死火山、休火山、活火山という定義が見直されて、現在では活火山以外の言葉は使れなくなってしまった。
神像が硫黄錆で黒っぽい紫に変色し一部が崩れ落ちてしまったのはそれからである。なんとも不気味な色で気持ちが悪い。
(18)剣が峰山荘に到着
(19)振り替えれば王滝頂上もかなり下に見下ろす位置である
(20)最後の登りは階段であり、その上は天になる
(21)階段を登りきった所に「御嶽神社奥社本宮」がありその右手が展望台になっていてここの眺望には息を呑む美しさが有る。
(22)
頂上展望台で食事中に愛媛から来たと言う男性が話しかけて来て、近くに座った西東京市から来た若い夫婦も混じってしばらく雑談した。夫婦は百名山を目指していると言う。
(23)社務所の左脇はそこが道であると知っていなければ誰も通ろうとは思わないだろうが一の池、二の池を廻るコースの入り口である。
(24)社務所を過ぎればガレ場になりその向うに干上がった一の池が見える
(25)一の池の南側を通るルートは外輪山のようである
(26)一の池を半周した場所で、一の池をはさんで剣が峰を北側から見るとこのまま直登出来そうななだらかな斜面に見えてしまう
ここで愛媛の男性が追いついて来た。彼はロープウエイで上がって来たそうなので二の池小屋まで同行してそこで分かれることになった。
(27)
(28)一の池周囲をほぼ三分の二廻ったところで道は二の池側に移り、今度は二の池の外周を歩く事になる
(29)二の池には十分な水があり斜面には雪も残っている。
(30)二の池東側の稜線から北を見ると三の池の一部が見える。
ここからは南側の斜面を通って八丁弛みの途中に合流するトラバース路がある。
(31)トラバース路の途中から剣が峰を見上げる。
(32)路はわずかに上下しながら王滝頂上に向う。
(33)例年になく大きな雪渓が残っていた。これを渡るのには細心の注意が必要である。
(34)神像の後方で八丁弛みに合流すれば周遊完了であり、この後は来た道を帰る事になる。
(35)「一口水」の少し上でピンクの可憐な花を見つけた。
「コイワカガミ」だった。登る時には余裕がなくて細かいものにはあまり目が届かないのだ。
(36)下っている集団の先頭が急に立ち止まって動かなくなったので声を掛けたら、少し先を指差し雷鳥がいると言った。見ると雷鳥の成鳥が一羽、登山道に座り込んでいる。
いくら人を恐れない御岳山の雷鳥でもこれはやり過ぎである。近づいていくと動き出した。
(37)
(38)見たところ怪我をしている風ではなく座っていた場所にも異常は見当たらないので、単にのんきな個体だっただけなのかもしれない。
(39)ハイマツの実が鮮やかな色で目立っている。これも雷鳥の食料である。
(40)王滝村まで下ってから王滝温泉に向った。
(41)初めはちゃんと舗装された道路であるがしばらく走ると砂利道に替わる。
(42)この道でよかったのだろうかと不安に成る頃に看板が有る。
(43)砂利道はスピードが出ないからよけいに遠く感じてしまう。
(44)たどり着いてみれば普通のロッジと言ってもいい小さな温泉だが周囲に民家はなく車の通る道も自分が通って来た道しかなく、エンジンを切れば人工的な音の全くない山奥である。
若干熱く硫黄臭の有る湯は永くは入っていられないが、肌がスベスベになる癒効果のありそうな名湯である。
名古屋吹上ホール 2013/07/19 金曜日 IRエキスポ参加
瑞浪市化石博物館 2013/07/30 火曜日
Wild Goose号 2013/08/06 火曜日
友人が所有し自ら船長でもある私用ヨットに招待されて、三河湾内を少しだけ航海した。
(1)Wild Goose号
(2)
(3)ヨットもまた大変魅力的であるがその資格の取得、船の所有と維持管理を考えると大変なものがあり、登山/ダイビング/縄文趣味に加えて筆者が持ちうる趣味ではなさそうだ。
(4)
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南八ヶ岳縦走 2013/08/26 月曜日
八ヶ岳南部の赤岳、横岳、硫黄岳を縦走と言うか「美濃戸山荘」を起点とした周回をした。

5時頃起床して軽のタントに乗って直ぐに出発。中央高速を茅野で降りて茅野市内を抜けて大泉山経由で美濃戸口に至る。美濃戸口からは軽のエンジンの悲鳴を聞きながら狭くて急なデコボコ道を延々と走って8時半に 「美濃戸やまのこ村」 に到着。
このあたりでは無料の駐車場がなく1日1000円(1泊すれば2日になる)を徴収される。
(1)美濃戸山荘の直ぐ上に道の分岐表示がある。 今回の行きは右の南沢経由で行者小屋に出て、帰りは赤岳鉱泉経由北沢を降りて来て左の道に至る予定。
(2)道はデコボコで歩き難いが、しっかりしていて迷う事はない。
(3)
(4)沢を何度も渡りながら行くが、昔のように川に足を踏み入れて渡ることもなく濡れずに済むのは有難い。
(5)
(6)行者小屋まで約2時間の道だが意外に歩き難い上に初日は体が慣れないので余分に時間が掛かってしまう。
(7)行者小屋に近づくと真上に横岳の尾根が見えて、尾根の右の方に赤岳展望荘の一部が見える。
(8)文三郎尾根のジグザグ道が赤岳の中腹に向っているのが見える。ガスが濃くなって来た。
(9)行者小屋では大勢が休んでいた。いきなり「ラーメンの人、ラーメンの人」と叫ぶ声がする。小屋のスタッフらしい若者がラーメンのドンブリを抱えて呼ばわっているのだ。
離れたベンチから「ハーイ」と返事があって立ち上がった女性がいた。ここではああして昼食を食べる事が出来るのだ。
湯気の立ったラーメンはうらやましかったが筆者の昼食はカレーリゾットを用意して有る。そして食欲よりも眠気の方が強いのでベンチに座ってしばらくうたた寝をした。
時々陽はさすが空気は涼しく周りのザワザワも耳に心地よい。30分ほど眠った後に出発した。
ここで食事をしても良いのだが料理する時間がもったいないのでカレーリゾットに水を入れて封をしてから歩き出したのである。近頃の山食はよく出来ていて熱湯を入れたら15分。水を入れても60分で食べ頃になる。歩いている内に料理が出来るのである。
(10)阿弥陀岳の標識先に向かい中岳のコルで稜線に出る予定。
(11)キャーン、キャーンと何か獣の鳴き声がする。かなり近くで大きな声なのだ。
見回すと10mくらい先の樹林の中にロバ程の大きさの鹿が居た。急いでカメラを取り出したがあっという間に走り去ってしまった。
(12)道は荒れている。雨に削られ、えぐられている。流れ易い土壌のようだ。
(13)
(14)山が急峻な上に土壌が水に弱いのであれば、この山はいずれ崩壊してしまうのだろうか?
まあ一般的に全ての山は削られていく過程にあると言う事はできるのだが!
(15)行者小屋が遠くなってきた。硫黄岳には陽が射している。
(16)稜線が近づいて来た。時々青空ものぞくが雲は次第に厚くなって来るようだ。
(17)遂に稜線に出た。西側正面には阿弥陀岳。
下界も見えるし空には青空の部分も有るがここではポツポツと雨が降り出した。直ぐに止むような気もするが、もっと激しく降るような気もする。
予定では阿弥陀岳を往復してから赤岳に登り頂上小屋に宿泊するのだが、赤岳のこちら側はきつい岩稜なので岩が濡れてきたらとても危ない。そう思い至ったら阿弥陀岳に登る気力を失ってしまった。要するに臆病風に吹かれてしまったのだが、腰が引けた状態で山に登ってみても仕方がないのだ。
(18)
(19)赤岳の登り。岩峰の手前を右に回り込んで登って行く。
(20)ガレ場やクサリ場をもっと写すべきなのだが、こういう登りはすばらしく面白い上にかなり緊張するのでカメラを持っている事をめったに思い出さない。
(21)赤岳頂上
(22)
(23)赤岳頂上山荘
時折ポツポツと降るだけだったので阿弥陀岳を登らなかった事をものすごく損したように思ったが夜中に本格的に降り、夜明け後しばらくの間も降っていたので判断は間違ってはいなかったようだ。
(24)赤岳頂上山荘の夕食
このおかずでどんぶり飯3杯は食べられる。(下界では普通の茶碗1杯が限度なのだが)
(25)赤岳展望荘を見下ろす。
(26)横岳、硫黄岳
(27)阿弥陀岳 下界も見えて、天気はすっかり回復したように見える。
2013/08/27 火曜日
(1)赤岳頂上山荘の朝食
(2)赤岳展望荘の向うに赤岳 天気はすっかり回復した。
(3)写真右の方にブロッケンが写っている。
(4)鮮明には写せなかったがブロッケンの真ん中に筆者の影が有る。
(5)行者小屋に重なるブロッケン。
(6)「二十三夜峰」 付け根の鉄梯子から横岳が始まると言ったら言い過ぎだろうか?
(7)
(8)
(9)
(10)真上から撮ったので分かり辛いが、稜線の西側から東側に跨ぎこしている所。
(11)硫黄岳頂上
(12)硫黄岳は西側から見ると山容がやわらかくて丸っこい優しい山に見えるが実は南北に爆裂火口跡があり、特に北側のそれは皿に載せたプリンをスプーンでサクッと削り取ったような痛痛しいほどの傷跡になっている。しかしこの爆裂口がいつどうして出来たのかについては定説がないらしいので爆裂口という名前も怪しくなって来る。
歴史時代に八ヶ岳の確実な噴火記録はなく、辛うじて関係有るかもしれない記述が二つだけ残っている。
『類聚三代格』の仁和四年五月八日(西暦888年6月20日)に信濃の国で山が崩れ洪水が起こったとの記述がある。
『扶桑略記』の仁和三年七月三十日(西暦887年8月22日)にほぼ同じ記事がある。
又、信州大学教育学部教授の河内晋平さんのレポートによると、約1000年前に八ヶ岳で大崩壊があって松原湖がそのときできたという事実を,野外地質調査と放射性炭素年代学によって彼自身が発見したそうで彼はこの堆積物を大月川岩屑なだれと名付けている。
山が崩れる原因は噴火か地震か又は極端に激しい豪雨しか考えられないが、豪雨ならばその災害の及ぶ範囲は山岳に留まらず、海に至るまでの大変に広い地域となり、記録に残らないはずはないので考えられるのは噴火又は地震ということに成る。
888年又は887年に八ヶ岳で大きな地変があった事は大月川岩屑なだれという堆積物が存在することによって確かめられている、がしかし「火山噴火予知連」はそれは噴火によるものではないとする立場をとり「地震学界」はそれが地震によるものではないという立場をとっているようにみえるのが現状らしい。ならば何だったというのだろうか? いやはや、なんとも!
(13)赤岩の頭に向けて下り始めた。
左側の稜線がむき出しになっている所が「赤岩の頭」 で右に下ればオーレン小屋、左に下れば赤岳鉱泉に着く。
(14)「赤岩の頭」越に左から横岳、赤岳、中岳、阿弥陀岳
(15)赤岳鉱泉
ここから1時間30分歩けば車に戻れるが、ここでお湯に入れるのは大変に魅力的である。
しかもここの夕食には大変美味いステーキが付くのでその魅力には逆らえない。
2013/08/28 水曜日
美濃戸の分岐表示 南沢を登って北沢から降りてきた。
このコースは周回旅としては実に理想的である。
弥勒山日記 (12)に続く
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佐賀県・福岡県 2013/05/11 土曜日
2013/05/20 月曜日 十日目
6時に出発したが朝食を摂る店も無いので、コンビニの握り飯で代用する。
コンビニだけはどこにでも有ってうるさい程である。快適に走って8時過ぎに関門トンネル通過。今回の旅の九州部分はこれでお終い。
そう言えば下関側から門司側に抜ける時に下りが長く登りは短かい印象があった。逆コースを走ってみてその印象は正しいと感じた。おそらく下りとのぼりの交点は九州寄りにあって九州側の勾配がキツイのだろう。
次の目的地の呉まではかなりの距離が有ったので途中で午後になってしまった。
広島を過ぎてから道は南下してやがて海岸線に達したがさらに南下が続いて「鉄のくじら館(海上自衛隊呉資料館)」に着いた時には2時を過ぎていた。
(1)鉄のくじら館

帝国海軍の潜水艦がドイツ海軍から潜水巡洋艦とやや嘲笑気味に呼ばれていた理由であるその大きさは、狭い大西洋で行動するドイツUボートと違って日本の潜水艦は広い太平洋を走り回らなければならないのでどうしても大きくしなければならなかったのである。
又、過密状態の大西洋ではやたらに走り回るより密かに行動する必要から潜水艦は小さくなり少人数で行動するのであった。「あきしお」の内部を見せて貰えた上に勤務経験者のガイドが付いていて質問に応じてくれた事で多くの疑問が氷解した。
(2)大和ミュージアム

(3)巨大な、戦艦大和模型

だから、その後現在に至るまで海戦旅団は空母を中心にして駆逐艦、潜水艦、掃海艇、輸送船の構成に成っていてもはや戦艦と言う機能に出番はないが、当時の日本の大本営は自分の編み出した航空決戦戦術を全く認めなくて艦対艦の砲撃戦に固執した結果がこの巨大で役立たずな戦艦なのだ。
(4)零戦

それなのに日本海軍は姿を隠して行動する潜水艦に好意を持たず又軍を実質的に牛耳っていたのが陸軍の歩兵出身者達だったために、見栄えの良い大艦巨砲主義に凝り固まって自軍の艦船兵員を消耗するだけの愚かな作戦を続けて自滅してしまったのである。
潜水艦を軽視するあまりアメリカ潜水艦の攻撃をも軽視して必要な備えも怠った結果日本側の船舶を片端から沈められるに至ったにも係わらず、何の対応も思いつかないと言う無能さはその悲惨な結果に何の対処もせずに放置したあげく、かっこよく腹を切る事で責任を取ったつもりになって立ち去ってしまうと言う安易さと合わせて憎んでも憎みきれないものが有る。
もう一つ必ず指摘しておかなければならないのは、あの戦争のそもそもの発端は自衛戦だった事と植民地化の最終段階に差し掛かったアジアの開放だった点である。我々戦後の日本人が戦争を忌み嫌い戦争に係わる全てを否定したがるのは、戦争末期の愚かさと惨めさの賜物である事を考えると、本来の目的を見失ってもそれを全く考慮せずに、惰性ででもあるかのように全国民を引きずり込んだあの大本営と言う無責任で愚かな集団はいくら罵っても罵り足りないと思う。
広島市北部のネットカフェでしばらくネット仕事をこなした後で戸河内(とごうち)に移動して「戸河内 道の駅」で車中泊した。中国道戸河内インターの直ぐ近くだが静かな田舎であって心地よく眠れた。
2013/05/21 火曜日 十一日目
54号線経由で出雲のネットカフェに移動してネット仕事をした。
出雲蕎麦の割子(わりご)を食べたくなったのが理由で、店が開くまでの時間調整を長距離を走りネット仕事をすることに使ったのである。
松江市の竪町にある田村が筆者のひいきの店で、ここのだし汁が特に美味いと思う。普通に割子を注文すると三段重ねで出てくるが、割子四枚と言う裏技も有る。三段の場合は三種類の薬味(のり、刻みネギ、大根おろし)が付いて来るが四段になればこれに鰹節が加わる。薬味については店によって違うかもしれないが四段食べて蕎麦湯を飲めばかなり満腹する。
帝釈峡は三段峡と共に広島県を代表する景勝地として知られ、国内有数の峡谷でもあるそうだが、筆者にとってここは景勝地としてよりも特異な縄文遺跡として重要な場所である。
広島県神石郡神石高原町
広島大学 大学院文学研究科・文学部のHPに次のように記載されている。
「帝釈峡遺跡群の洞窟、岩陰遺跡では、縄文時代を中心に旧石器時代から古代以降にまでおよぶ各時代・各時期の遺物包含層(文化層)が整然と連続して堆積しており石器時代の変遷を復元する際の基準となってきました。
さらに、石灰岩地帯に立地していることから通常石器時代のような古い遺跡では残りにくい人骨、動物骨、貝類の遺存に恵まれ考古学のみならず人類学、古生物学、地質学などの分野からも注目を集め特色ある学際的な研究が進められています。」
(1)時悠館

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(4)白雲洞

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(7)雄橋(おんばし)

鍾乳洞である白雲洞の観光客が入れる場所は狭いがこの地域の地下は石灰岩台地になっているので古代遺物、特に骨類がとても良く保存される。(8)

(8)

結論としてここ帝釈峡は、数日以上宿泊して丹念に見て廻るべき興味の尽きない遺跡である事が判った。いつか必ず再訪しようと思う。
米子に移動して岡成池展望駐車場車中泊。
最初と最後の車中泊を同じ場所にしたのは、それだけ居心地の良い場所だったから!
2013/05/22 水曜日 十二日目
すきやで朝食の後ネットカフェでネット仕事を済ませると後は帰路になる。
9号線はバイパスが延びて来たために、注意しないとしばしば海岸線から離れてしまう。
せっかく日本海沿岸を走るのだから、出来る限り海の見える道を走りたいと思う。
(1)9号線の海岸よりに農道が走っていて時々古い集落に遭遇する。


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(6)風力発電

日本海沿いの海岸線を旅すると風力発電設備がうるさいほど目に付く。自然保護の営みとも言えるし、これ自体が景観汚染とも言える。しかも近くに寄ると結構うるさいのである。
どこの設備を見てもほぼ同じ構造をしているが、耐久性から言うと設備の上部と下部の風から受ける圧力が大きく違う為に常に応力歪を受け続けていて長持ちできそうにはない形である。風が弱過ぎる時も強過ぎる時も発電出来ない効率の悪い構造でもある。
この構造が価値を持つのは常に一定の方向から、一定の強さの風を受け続ける場所に設置した場合であってそのような場所は極めて少ない。世界的に見て成功しているのはデンマークとカリフォルニアくらいしかないのではないだろうか?
17時半高蔵寺到着。今回の全走行距離は3370.3Kmだった。
弥勒登山111回目、反時計回り 2013/05/31 金曜日
(1)青大将

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弥勒登山113回目 反時計回り 2013/06/14 金曜日
(1)青大将の木登りを初めて見た。34番標識から廿原方面の下り。

(2)

耐震博覧会in名古屋メッセ 2013/06/22 土曜日
主催者が木材市場業界の「8089すてきナイス」グループなので基本的に住宅と木材の展示会でありテーマとしての耐震には見るべきものは少なかったが名大の川崎浩司准教授の「巨大地震・津波とその対応」講演は面白かった。
東京国際展示場 2013/07/05 金曜日 ブックファア訪問
呉善花(オ ソンファ) 2013/07/10 水曜日
この済州島出身の朝鮮族女性が出した本の既読2冊にはあまりインパクトを感じなかったが、3冊目の「日本オリジナルへの旅」を読んで別人かと驚いた。
前2冊は女性の感性が前面に出過ぎていて論理性や実証性が希薄に感じられていたが、今回読んだものは違った。女性の感性が強いのは変らないがその主張に十分な論理性があり、論理には豊富な裏づけ情報がつけられている。
もともと大学教授なのだから論理構築力が有るのは当然なので、日本語能力の向上と日本文化の背景情報がしっかりと蓄積されて効果を発揮したのではないだろうか。
第二章第三章でやや突っ込んで解説される日本的オリジナりティの捉え方にも鋭いものが有る。私の考える日本的オリジナルティの典型は左右非対称の美、自然との共生観、物心両面での直接を嫌う感性であり、呉善花の発言にそれの含まれていることが嬉しい。
木曽御岳山 2013/07/12 金曜日
御岳山には足しげく通っているので今更とは思うが、自分の最も好きなルートを紹介して置くのも悪くはないと思うので写真を撮って来た。
朝5時頃に起床して直ぐに車を走らせて中津川までは中央高速を走り、中津川からは国道19号線をひたすら走って木曽福島で元橋を渡るともう御岳山裾野の領域になる。
王滝川に沿って御岳湖の北側を走れば王滝村に着く。その先はもう山岳道路となって田の原高原までえんえんと登り続けることになる。が、しかし今回は牧野ダムの手前で道路が封鎖されており左側つまり御岳湖の南側を通るように指示されていた。
何か理由が書いてあるようだったが急ぎたいので読む事をせずに指示に従って左折した。
御岳湖南岸の道は若干遠くなるので通った事はなかったが初めて走ってみると、意外に広くて良い道なのに気付いた。この辺りに来る時は早く山を拝みたい気持ちに急かされるので知らない道があっても試してみる心の余裕もない場合が多く今回は実に幸運だったと言える。
南岸を走る道も北岸を走る道も結局は王滝村で合流するのである。
(1)王滝中学校の上で道はTの字になっており、右折すると八海山を通って田の原に至る。

八海山の少し手前で猪一家に遭遇した。アスファルトの上に母猪と7匹の瓜坊がウロウロとしていたのだ。食料を探していたのかも知れないが、慌てて車を止めカメラを取り出す間に気付いた母猪を先頭に猛ダッシュして藪の中へ消えていった。大きめの猫のような瓜坊が一列になって母猪の後を追いかける姿はとても可愛かった。
田の原に着いたのはほぼ8時であり既に日は高いがここはもう7合目であり、標高2180mに位置するのでそれ程暑くはなくこの先登るに従ってさらに涼しくなるのが嬉しい。
(2)見上げれば谷筋には若干の雪も残っている。

正式には「田の原天然自然公園」と称していて大型バス数十台とは別に普通車百台以上の駐車が可能なこの場所は、山には登らないが景色を楽しみ高原の湿地帯を散策する人達が大勢やって来る場所でもある。
(3)珍しく王滝頂上とその右奥の最高峰「剣が峰」がそろって見えている。

(4)王滝頂上の左下には昭和59年(1984)9月に発生した長野県西部地震(M6.8)によって発生した「御岳崩れ」と呼ばれる大規模な山体崩壊の跡が見える。

あの崩壊から既に29年が経っているのに、抉り取られた山肌はまだむき出しのままで痛々しい傷口のように見えている。
田の原から登るルートの良い点は少し登ると直ぐに樹林から抜けてそれ以降は頂上に至るまで広々とした視界を楽しみながら歩ける所に有る。それは他のどのルートよりも優れているので、他のルートにはあまり行かなくなってしまった程である。
(5)最初のチェックポイントは通称「ハゲ」又は「あかっぱげ」
その名の通り覆土が流出しつつあって山肌がむき出しに成っている場所である。

(6)ここを過ぎれば直ぐに森林限界に達してその先にはハイマツ以上の樹木はなくなる
このハイマツの低い藪の中に雷鳥が住んでいて初夏から梅雨までは雷鳥の雛が走り回っている。ここの雷鳥は人を怖がらないのでしばしばその姿を見せてくれるのだ。

(7)二つ目のチェックポイントは金剛童子 森林限界を越えてから最初の日陰のある場所なのでここで水を飲み、景色を見渡して小休止する。

(8)登山道を外れればハイマツの原生林が広がっている

(9)八合目石室

(10)振り返ると田の原が見える。

(11)二つ目の避難小屋を過ぎれば九合目で王滝頂上が間近に迫ってくる

(12)王滝頂上の御嶽神社

(13)「八丁弛み(はっちょうだるみ)」の向うに剣が峰が見える

(14)八丁弛みの左下は大きな谷になっていて「地獄谷」の名がついているが、今も水蒸気の噴出孔が生きていて蒸気と共にジェット機のような音と硫黄の臭気を吹き出している。
この地獄谷は南を向いているので冬の快晴の日には遠く名古屋からも見る事ができる。

中区丸の内の12階のオフィスで働いていた頃の私の席からは、冬の天気の良い日には御岳山と伊吹山の両方を見る事ができたものである。水蒸気の噴出までは見えなかったが!
(15)「八丁弛み」はむき出しの斜面で広々としている上に両側が谷になっているのでとても風が強く時には歩き辛い事も有る。

(16)今年の梅雨は雨が少なかったので北側の谷には雪渓が残っていた

(17)御岳山は神様の山であり山岳宗教特有の奇妙な神像があって、毎年この神像の周りで火を焚いて儀式が執り行われる。これらの神像は銅製でありかっては黒かこげ茶色で艶光していたものである。その頃は私も御岳山が火山であるとは思いもしなかった。

少なくとも5千年間は活動しなかった山で有るが1979年(昭和54年)10月に水蒸気爆発を起こして火山である事を自らが証明してしまった。この噴火がきっかけとなりそれまでの火山分類である死火山、休火山、活火山という定義が見直されて、現在では活火山以外の言葉は使れなくなってしまった。
神像が硫黄錆で黒っぽい紫に変色し一部が崩れ落ちてしまったのはそれからである。なんとも不気味な色で気持ちが悪い。
(18)剣が峰山荘に到着

(19)振り替えれば王滝頂上もかなり下に見下ろす位置である

(20)最後の登りは階段であり、その上は天になる

(21)階段を登りきった所に「御嶽神社奥社本宮」がありその右手が展望台になっていてここの眺望には息を呑む美しさが有る。

(22)

頂上展望台で食事中に愛媛から来たと言う男性が話しかけて来て、近くに座った西東京市から来た若い夫婦も混じってしばらく雑談した。夫婦は百名山を目指していると言う。
(23)社務所の左脇はそこが道であると知っていなければ誰も通ろうとは思わないだろうが一の池、二の池を廻るコースの入り口である。

(24)社務所を過ぎればガレ場になりその向うに干上がった一の池が見える

(25)一の池の南側を通るルートは外輪山のようである

(26)一の池を半周した場所で、一の池をはさんで剣が峰を北側から見るとこのまま直登出来そうななだらかな斜面に見えてしまう

(27)

(28)一の池周囲をほぼ三分の二廻ったところで道は二の池側に移り、今度は二の池の外周を歩く事になる

(29)二の池には十分な水があり斜面には雪も残っている。

(30)二の池東側の稜線から北を見ると三の池の一部が見える。

(31)トラバース路の途中から剣が峰を見上げる。

(32)路はわずかに上下しながら王滝頂上に向う。

(33)例年になく大きな雪渓が残っていた。これを渡るのには細心の注意が必要である。

(34)神像の後方で八丁弛みに合流すれば周遊完了であり、この後は来た道を帰る事になる。

(35)「一口水」の少し上でピンクの可憐な花を見つけた。
「コイワカガミ」だった。登る時には余裕がなくて細かいものにはあまり目が届かないのだ。

(36)下っている集団の先頭が急に立ち止まって動かなくなったので声を掛けたら、少し先を指差し雷鳥がいると言った。見ると雷鳥の成鳥が一羽、登山道に座り込んでいる。
いくら人を恐れない御岳山の雷鳥でもこれはやり過ぎである。近づいていくと動き出した。

(37)

(38)見たところ怪我をしている風ではなく座っていた場所にも異常は見当たらないので、単にのんきな個体だっただけなのかもしれない。

(39)ハイマツの実が鮮やかな色で目立っている。これも雷鳥の食料である。

(40)王滝村まで下ってから王滝温泉に向った。

(41)初めはちゃんと舗装された道路であるがしばらく走ると砂利道に替わる。

(42)この道でよかったのだろうかと不安に成る頃に看板が有る。

(43)砂利道はスピードが出ないからよけいに遠く感じてしまう。

(44)たどり着いてみれば普通のロッジと言ってもいい小さな温泉だが周囲に民家はなく車の通る道も自分が通って来た道しかなく、エンジンを切れば人工的な音の全くない山奥である。

若干熱く硫黄臭の有る湯は永くは入っていられないが、肌がスベスベになる癒効果のありそうな名湯である。
名古屋吹上ホール 2013/07/19 金曜日 IRエキスポ参加
瑞浪市化石博物館 2013/07/30 火曜日
Wild Goose号 2013/08/06 火曜日
友人が所有し自ら船長でもある私用ヨットに招待されて、三河湾内を少しだけ航海した。
(1)Wild Goose号

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(3)ヨットもまた大変魅力的であるがその資格の取得、船の所有と維持管理を考えると大変なものがあり、登山/ダイビング/縄文趣味に加えて筆者が持ちうる趣味ではなさそうだ。

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南八ヶ岳縦走 2013/08/26 月曜日
八ヶ岳南部の赤岳、横岳、硫黄岳を縦走と言うか「美濃戸山荘」を起点とした周回をした。

5時頃起床して軽のタントに乗って直ぐに出発。中央高速を茅野で降りて茅野市内を抜けて大泉山経由で美濃戸口に至る。美濃戸口からは軽のエンジンの悲鳴を聞きながら狭くて急なデコボコ道を延々と走って8時半に 「美濃戸やまのこ村」 に到着。
このあたりでは無料の駐車場がなく1日1000円(1泊すれば2日になる)を徴収される。
(1)美濃戸山荘の直ぐ上に道の分岐表示がある。 今回の行きは右の南沢経由で行者小屋に出て、帰りは赤岳鉱泉経由北沢を降りて来て左の道に至る予定。

(2)道はデコボコで歩き難いが、しっかりしていて迷う事はない。

(3)

(4)沢を何度も渡りながら行くが、昔のように川に足を踏み入れて渡ることもなく濡れずに済むのは有難い。

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(6)行者小屋まで約2時間の道だが意外に歩き難い上に初日は体が慣れないので余分に時間が掛かってしまう。

(7)行者小屋に近づくと真上に横岳の尾根が見えて、尾根の右の方に赤岳展望荘の一部が見える。

(8)文三郎尾根のジグザグ道が赤岳の中腹に向っているのが見える。ガスが濃くなって来た。

(9)行者小屋では大勢が休んでいた。いきなり「ラーメンの人、ラーメンの人」と叫ぶ声がする。小屋のスタッフらしい若者がラーメンのドンブリを抱えて呼ばわっているのだ。
離れたベンチから「ハーイ」と返事があって立ち上がった女性がいた。ここではああして昼食を食べる事が出来るのだ。
湯気の立ったラーメンはうらやましかったが筆者の昼食はカレーリゾットを用意して有る。そして食欲よりも眠気の方が強いのでベンチに座ってしばらくうたた寝をした。

ここで食事をしても良いのだが料理する時間がもったいないのでカレーリゾットに水を入れて封をしてから歩き出したのである。近頃の山食はよく出来ていて熱湯を入れたら15分。水を入れても60分で食べ頃になる。歩いている内に料理が出来るのである。
(10)阿弥陀岳の標識先に向かい中岳のコルで稜線に出る予定。

(11)キャーン、キャーンと何か獣の鳴き声がする。かなり近くで大きな声なのだ。

(12)道は荒れている。雨に削られ、えぐられている。流れ易い土壌のようだ。

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(14)山が急峻な上に土壌が水に弱いのであれば、この山はいずれ崩壊してしまうのだろうか?

まあ一般的に全ての山は削られていく過程にあると言う事はできるのだが!
(15)行者小屋が遠くなってきた。硫黄岳には陽が射している。

(16)稜線が近づいて来た。時々青空ものぞくが雲は次第に厚くなって来るようだ。

(17)遂に稜線に出た。西側正面には阿弥陀岳。

予定では阿弥陀岳を往復してから赤岳に登り頂上小屋に宿泊するのだが、赤岳のこちら側はきつい岩稜なので岩が濡れてきたらとても危ない。そう思い至ったら阿弥陀岳に登る気力を失ってしまった。要するに臆病風に吹かれてしまったのだが、腰が引けた状態で山に登ってみても仕方がないのだ。
(18)

(19)赤岳の登り。岩峰の手前を右に回り込んで登って行く。

(20)ガレ場やクサリ場をもっと写すべきなのだが、こういう登りはすばらしく面白い上にかなり緊張するのでカメラを持っている事をめったに思い出さない。

(21)赤岳頂上

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(23)赤岳頂上山荘

時折ポツポツと降るだけだったので阿弥陀岳を登らなかった事をものすごく損したように思ったが夜中に本格的に降り、夜明け後しばらくの間も降っていたので判断は間違ってはいなかったようだ。
(24)赤岳頂上山荘の夕食

(25)赤岳展望荘を見下ろす。

(26)横岳、硫黄岳

(27)阿弥陀岳 下界も見えて、天気はすっかり回復したように見える。

2013/08/27 火曜日
(1)赤岳頂上山荘の朝食

(2)赤岳展望荘の向うに赤岳 天気はすっかり回復した。

(3)写真右の方にブロッケンが写っている。

(4)鮮明には写せなかったがブロッケンの真ん中に筆者の影が有る。

(5)行者小屋に重なるブロッケン。

(6)「二十三夜峰」 付け根の鉄梯子から横岳が始まると言ったら言い過ぎだろうか?

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(10)真上から撮ったので分かり辛いが、稜線の西側から東側に跨ぎこしている所。

(11)硫黄岳頂上

(12)硫黄岳は西側から見ると山容がやわらかくて丸っこい優しい山に見えるが実は南北に爆裂火口跡があり、特に北側のそれは皿に載せたプリンをスプーンでサクッと削り取ったような痛痛しいほどの傷跡になっている。しかしこの爆裂口がいつどうして出来たのかについては定説がないらしいので爆裂口という名前も怪しくなって来る。

歴史時代に八ヶ岳の確実な噴火記録はなく、辛うじて関係有るかもしれない記述が二つだけ残っている。
『類聚三代格』の仁和四年五月八日(西暦888年6月20日)に信濃の国で山が崩れ洪水が起こったとの記述がある。
『扶桑略記』の仁和三年七月三十日(西暦887年8月22日)にほぼ同じ記事がある。
又、信州大学教育学部教授の河内晋平さんのレポートによると、約1000年前に八ヶ岳で大崩壊があって松原湖がそのときできたという事実を,野外地質調査と放射性炭素年代学によって彼自身が発見したそうで彼はこの堆積物を大月川岩屑なだれと名付けている。
山が崩れる原因は噴火か地震か又は極端に激しい豪雨しか考えられないが、豪雨ならばその災害の及ぶ範囲は山岳に留まらず、海に至るまでの大変に広い地域となり、記録に残らないはずはないので考えられるのは噴火又は地震ということに成る。
888年又は887年に八ヶ岳で大きな地変があった事は大月川岩屑なだれという堆積物が存在することによって確かめられている、がしかし「火山噴火予知連」はそれは噴火によるものではないとする立場をとり「地震学界」はそれが地震によるものではないという立場をとっているようにみえるのが現状らしい。ならば何だったというのだろうか? いやはや、なんとも!
(13)赤岩の頭に向けて下り始めた。

(14)「赤岩の頭」越に左から横岳、赤岳、中岳、阿弥陀岳

(15)赤岳鉱泉

ここから1時間30分歩けば車に戻れるが、ここでお湯に入れるのは大変に魅力的である。
しかもここの夕食には大変美味いステーキが付くのでその魅力には逆らえない。
2013/08/28 水曜日
美濃戸の分岐表示 南沢を登って北沢から降りてきた。

弥勒山日記 (12)に続く
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ダイビング楽しそうですね。
エジプトのダハブで安くライセンスが取れるそうで、日本人にもとても人気があるので少し悩むところです。でも私はあまり泳げないので、多分しないと思いますが。体験ダイビングくらいはしてみたいなと思っています。