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役の行者 2013/04/25 木曜日
2013/04/26 金曜日 二日目
(1)翌26日の 四天王寺
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(6)四天王寺古書市
(7)広い四天王寺境内のかなりの面積を使って毎年この時期に古書市が開かれます。
8月には京都の下鴨神社でさらに大規模な古書市が開かれますが時々びっくりするような貴重品に出会う事があるのです。金額的な値打ちではなく重要な資料としての値打ちです。
又、日本の書籍出版は世界の中でもかなり多い方である事と地方の出版物情報は中々伝わってこないのでこういう機会はとても貴重です。
毎回参加しては、うれしい出会いを求めて、足を棒にしています。
弥勒登山108回目 時計回り 2013/05/01 水曜日 「朴の木」の花発見
(1)岩山小屋で出会ったかなへびの成体
(2)全長約15Cm
(3)「朴の木」の花
岩山小屋から遊歩道に下りて大理石方向に少し歩いたところで見つけた。かなり高い木の上の方にあったので今まで気付かなかったが朴の木は沢山あるので次回は注意してみよう。
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佐賀県・福岡県 2013/05/11 土曜日
出雲に所用があって出かけるついでに足を伸ばして九州北部の福岡、佐賀両県を見てきた。目的は両県と中国地方のまだ見ていない主な遺跡、埋蔵文化財センター、博物館を見る事。
目覚めたのが2:30ではいささか早すぎたが、起きてしまったものは仕方がない。二度寝をしたら今度は遅くなってしまうのでそのまま出発した。途中は断続的に雨が降って速度は出せなかったがその他には特に難もなく順調に走れたので鳥取県米子市近くにある妻木晩田(むきばんだ)遺跡に着いたのは昼を少し回った頃だった。
(1)伯耆大山を北東側から見る。
妻木晩田遺跡は伯耆大山1,729mの北西にある孝霊山751.4mのさらに北西側山すその台地に広がっている弥生中期の遺跡である。
(2)遺跡から西遠景、米子市と弓ヶ浜
遺跡のある台地の北側は100m程下って当時は既に陸地となっており、農耕痕跡があるのにもかかわらず当時の人々はこの台地の上に住居、墓地を構築している。これは当時のほとんどの弥生遺跡に共通したあり方であり、防御のためとも水害を恐れたためとも言われているが定説はまだない。
縄文海膨で海面が高くなった時代に高台に避難した人々が生活場所はそのままで、海が引いてできた低地に農耕を始めたとすれば、縄文人がそのまま弥生人になったことになってしまって矛盾するのだ。
随分と不便だっただろうと思うが止む終えない何かの理由が在ったのだろう。
(3)四隅突出型墳丘墓に付けられた説明板
(4)小型方形墳丘墓の説明板
(5)洞の原墳墓群
墓石群が四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)と呼ばれている型であるのもこの地方の特色であるが、当然ながらこの型の墓もこの遺跡も古墳時代より古い。
日本史では墳丘を持つ墓は全て墳丘墓と呼んでいるが、この内の3世紀後半から7世紀前半までに築造されたものを特に「古墳」と呼んで区別している。この時代を古墳時代というのだが、「前方後円墳の築造が卓越した時代」との定義も有る。
つまり、前方後円墳を作り始めた時代を古墳時代と言い、作らなくなったら古墳時代は終わったとされるのだ。それは、社会に階級構造がはっきりしてきた時期を持って始まりとし、大和王権が確定した(つまり飛鳥時代が始まった)時期を古墳時代の終焉とすると言うことでもある。
(6)洞の原
しかし意外なことに日本の古墳所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基にのぼるのだ。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基と続いて、奈良県はさらに後になる。日本の原点が奈良県の大和であると言う従来の主張はかなり怪しいと言えるのだ。
関心の中心を縄文時代に持つ私はこの遺跡が弥生時代のものなのでずっと無視していたが、縄文時代と古墳時代の間に始まりしかもこの土地のこの場所にあることの意味を考えて、一度見ておく必要があると思ったので今回の旅に加えた。
この土地が重要なのは背景に大山を控えて山岳系の民族を考慮できることと大和勢力と出雲勢力の接点になり得る事、海上交通あるいは民族移動の焦点となり得る島根半島を見渡す後背地であること。だからつまり諸民族が平和で且つ人口の少なかった縄文時代から、階級差と権力機構が形を整えて来た古墳時代への移行期間である弥生時代を理解するのに役立つだろう事である。
(7)洞の原から大山方向
180万年前に活動を開始した伯耆大山の最後の噴火は約1万年前なので、縄文人達が噴火を見た可能性は大きく大山の東側に西日本最大の縄文遺跡と言われる智頭枕田遺跡(ちづまくらだ)があることも考慮した方が良いのかもしれない。
但し、弥生時代と古墳時代における大和と出雲の交通を考えるにあたっては基本的には南下して岡山あたりで瀬戸内海地方に出るルートが主に想定されている。山陰路を通って丹波経由となる道がいつごろから加わってきたのかはまだ定かにはなっていない。
(8)復元された住居
(9)復元された集落
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(11)遺構展示館内の遺構
(12)近頃日本海海岸にはおびただしいほどの風力発電設備が作られている。
環境問題を考えれば大変結構であり協力したいところであるが風景は台無しであるなあ!
アジア博物館・井上靖記念館に来た。筆者の郷里へ帰る道途中の弓ヶ浜にあるのだから20数年前からその存在は知っていて一度は訪ねたいと思いながら毎回時間がなくて素通りしていたのだが、今回やっと念願がかなった。
(13)アジア博物館正門
井上靖記念館、ペルシャ錦館、染織工房館、かすり館、モンゴル館、山陰料理物産館の全てを収納してアジア博物館となっているのだ。但し山陰料理物産館は閉館中であって今回は見られなかった。
(14)モンゴル館
民営でありながらこれだけのコレクションを揃えてしかも、大人一人¥500はすばらしい。が、博物館としての価値の他に敷地の中の造作が又すばらしい。
さすがに詩人でもある井上氏を記念するだけの事はある。
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(18)岡成池
鳥取県米子市岡成 本日は大山ふもとの岡成池展望駐車場で車中泊。
この池は江戸期の農民が自力で作った農業ため池で、その改修工事を記念して作られた公園の駐車場がトイレ施設完備な上に幹線道路沿いではなくて静かなのだ。
2013/05/12 日曜日 二日目
昨夜は19時に眠ったので3時に目覚めた。
このまま米子市内のネットカフェへ移動して情報収集。
7時頃「八雲立つ風土記の丘」に向った。時間が早すぎて展示施設は開いていなかったが岡田山古墳の外観は時間をかけて観察することができた。長さ約24mの前方後方墳である1号古墳は発掘済みであって樹木が取り払われているのでその石組みの組み方も観察できる。周りはかなり深い樹林帯に覆われていて最寄の集落や耕地からは距離がある。実際ここに古墳があることによくぞ気がついたものだと思った。
未発掘のまま残してある2号古墳は樹木や竹に覆われていて、ここに古墳があることを知っていて見に来たのでなければこれが古墳である事にも気付けないのだ。
そしてこの前方後方型古墳というものの成立時期も問題になるのである。前方後方墳の祖形である前方後方形墳丘墓が造られ始めたのは主に弥生時代後期末からであり古墳時代前期前半の東日本(中部・関東地方)に前方後方墳が多く存在する。
西日本の前方後円墳の世界に対し東日本は前方後方墳の世界であったと言われている。
又、100メートルを超える規模の大きな前方後方墳5基が大和に集中し、後は下野に2基、上野・越中・美濃・駿河に1基ずつ存在することからも、大和を東日本に入れるならば、前方後方墳は東日本のものと言える。
そう言いながら、中国・四国地方にも前方後方墳は多く存在し、中でも出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて築かれ続けていたのだから東日本の前方後方墳が次第に西下して中国・四国地方にも造られるようになったとの解釈が出来てしまう。
縄文時代であれば文化・人口の中心地域が東日本と西日本で度々入れ替わっているので何も不思議はないのだが、弥生時代以降となると東日本中心かそれとも西日本中心かで大きく意味が違ってくるのである。
又、この岡田山古墳が見つけ難い、あるいは造り難い場所にある古墳である事とすぐ近くの別の山裾に出雲大社の前身である神魂(かもす)大社が在る事との間に何らかの意味が有るのか無いのかも考えてみたいことである。
出雲の平成温泉で入浴してスポーツ公園の駐車場で車中泊。適当に暗く誰も来ない最適の停泊地だった。
2013/05/13 月曜日 三日目
4時に起床、既に明るくなりつつある公園のトイレで歯磨きをして出発。
一旦神戸川を出雲側に渡って出雲大社近くで海岸へ向かい、海沿いの道を海を見ながら走る。
(1)薗の長浜(そののながはま)から続く海岸道路は立派に舗装された快適な道であり、海を見ながら走るのはとても楽しいものである。
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(4)途中何度か絶景を見て、設備の整った休憩所を経て道の駅「きらら」に至った。
この後はしばらく9号線を走っては脇道に入り、名も知らない村を通って海岸沿いの道を楽しんでは再び9号線に合流することを繰り返しながら益田手前の遠田に至った。
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遠田から9号線を離れて最後の海岸線に入った。このあたりは道が砂浜沿いから高台へ行きつ戻りつ移動しながらも海岸から離れずに走る。 そしてついに益田川を渡った。
筆者が中学・高校時代を過ごした益田市は益田川と高津川二つの川に拠って埋め立てられた沖積平野である。
(10)益田川と高津川の間の砂浜
かって中学生の頃ここで度々キス釣りを楽しんだものである。ここのキスは身が柔らかくて天麩羅にすると絶品だった。記憶に残るここの砂浜は細かい砂に覆われていて、もっと奥行きがあって砂利などはなかった。
他の地方でも砂浜が痩せて来たという嘆きを耳にしている。砂の供給元である河川が改修されて砂を流さなくなってきたのが原因らしい。河川氾濫よりはましなのだろうが僅か40数年前がはるかな大昔のように遠く感じてしまう。
(11)高津川右岸の最先端を臨む
先にも書いたが益田の町は高津川と益田川の二つが作った沖積平野なのだ。砂質で澄んだ高津川は鮎が豊富であり、土質で濁っている益田川は鯉・鮒が豊富だった。
この後、蟠竜湖周辺、石見空港北方の地形・地質を見て周りこの周辺全てが砂の堆積した海岸砂丘による高原状雑木林であることを確認した。
列島日本海側大部分が砂浜であることからも日本海が過去に何度も陸封海没を繰り返した事が想像できる。ちなみに日本海の砂は鉱物系の砂であり、さんご礁の北限を超えているから石灰質の砂は少ない。
(12)県立益田工業高校跡地
(13)訪ねようとした母校の位置が解らずに1時間ほど行きつ戻りつして、ついに発見したその場所は更地となっていて碑が残っていた。5年前に廃校となっていたのだ。
かって住んでいた頃の自分の足跡を訪ねて市の中心部を散策してみたが見覚えの有る建物は全くなかった。思えばわが父は50年前にこの後背地に恵まれた益田の将来性を信じて家族共々店を移したのだ。
50年経って今は駅前のメインストリートにも空き地が目立つ。町を歩く人もまばらで郊外の草地を歩いているような気分にしてくれる。幸か不幸かかってのスラム地区はなくなっていた。
かっては貧民の集まる木製の迷路のようなアパートがあった。まるで高度成長期以前の学生の集まる安アパートのような一室に家族で住でいる人達が大勢いた。山裾には豚飼いが集落をなして周囲に強烈な悪臭を放っていた。
飲み屋街は完全に迷路と化して酔っ払いのいない昼間には子供だった筆者の探検場所だった。これらもひとつの繁栄と言うならば筆者の立ち去った後にそれを一掃したらしい洪水が街にとどめを刺したとも言える。
父は18年間頑張って諦めた。街は発展せず子供たちは巣立ってしまい大家には立ち退きを迫られていた。地元のスーパーに地所を買い取られようとしていたのである。幸いにも父には空き家にしてあった実家に戻るという選択肢があった。
その父も既に亡くなった。筆者にとって小学、中学、高校の8年を過ごした街は今では見知らぬ街になってしまった。
なまじ思い出が有るために筆者の益田は異界となってしまったらしい。
益田駅前ビジネスホテルに宿泊
島根県益田市駅前町26-2 電話: 0856-23-1337
3,500円 コインランドリー 駐車場無料
2013/05/14 火曜日 四日目
4時起床。ホテルの部屋でネット仕事を片付けて、6時半に出発。
順調に走って津和野を抜け、小郡を抜け、国道2号線に入る。 途中の吉野家で朝定食を摂りひたすら西を目指したら自然に関門トンネル入り口に達した。150円払ってトンネルに入ると道はかなりの傾斜で下って行く。かなり下ってわずかな水平部分の後で上り始めるとたちまちトンネルを抜けた。
北九州側は山口側より低いのか? いやそんな筈は無い。 気のせいなのだろうと思う。
九州側は至る所が高架の立体道路になっていて走り難い事おびただしい。北九州市が大工業地帯であったことの証なのだろう。
一方通行も多くて、かなり迷った挙句の昼前には「いのちのたび博物館」に到着した。かなり広くて、豊富な展示物には感心したが、館内は小学・中学の遠足だか学習イベントだかに支配されているらしく、筆者のいる間だけでも小学生の団体を三つ、中学生の団体を一つ見かけた。
それぞれが統一された服装なので区別できるのだが、時間差攻撃をかけているらしく団体が重なることはなかった。小学生にとっては勉強と遊びの区別が無いので大変に賑やかで前を見ずに走り出すためにしばしば体当たりしてくるのがとても可愛くて楽しめた。
小学生が多いせいなのかどうかは解らないが展示物の説明にいろいろ書いてある割にはだからどうなのだという結論が抜けていることが多く、説明を読んだ後には疑問が増えてしまう。
恐竜とか哺乳類のレプリカはたくさんあり植物標本も多くジオラマもしっかりしている。エンバイラマ館という動くレプリカと映像で組んだ展示の中生代の恐竜達がいる北九州は実にリアルで楽しかったがこの施設の展示を通じて考えさせられたこともある。
博物学的にあれもあるこれもあるそんなものもあると、たくさん見せてくれるだけで分類上の違いを教えてくれる訳でもなく分化の原因を教えてくれる訳でもなく、なぜ?と問いかけてくれる訳でもない事に不満を感じた。
この施設を出たときには3時になっていたのでかなり長居をしたことになる。
次に「夜宮公園」の珪化木を見に行った。わが国最大といわれる最大径2m全長40mで4000万年前の広葉樹との事であるが、金網で囲ってあり詳しくは見えなかった。
北九州市立埋蔵文化財センターへ行ったが展示部分は小さな博物館といった感じで、旧石器から戦後までの大まかな展示でありどこに特徴があるのか見出せなかった。ここでは話を聞ける学芸員にも会えなかった。
本日は3号線の岡垣パーキングで車中泊。
広い駐車場に広くて明るいトイレ。難点はひとつだけ、街灯が明る過ぎて眠り難いのだ。
遠賀郡岡垣町大字山田527番地3
2013/05/15 水曜日 五日目
4時過ぎに起床、ネットカフェに移動してネット仕事。
吉野家にて朝食の後「奴国の丘歴史資料館」に向った。街の中をぐるぐると廻らされて、こんな街の中に遺跡があるのだろうかと不安になった頃にナビの指示で左折したら途端に急な登り坂になって丘の上の資料館に着いた。
着いてみれば、先程まで街中にいたのが嘘のように広々と見渡せる丘だった。
(1)奴国の丘歴史資料館
館内展示品にはめぼしいものは無かったが、遺跡のある丘はよく保存されていた。平野の中央にぽっかり浮かんだ船のように北東から南西にやや縦長の丘があり、丘の上一杯に弥生時代の遺跡が残っていてここは「奴国の丘」と自称している。
(2)須玖岡本遺跡の説明
須玖岡本遺跡、須玖坂本遺跡、須玖永田遺跡、岡本ノ辻遺跡など、この「奴国の丘」を含む春日丘陵(標高36.3m)上には古墳期の遺跡が密集している。
魏志倭人伝に記載されている奴国がこの地であったとは確認された事実ではないのだが、未だどことも特定されていないのだから言うのは自由なのだろう。それにこの辺りは弥生時代・古墳時代の遺物が大量に有るのでまんざらデタラメでもない。
当時丘の周辺一帯が低湿地だったのか、其れとも支配グループが丘の上にいて民衆は丘の下だったのだろうか? 或いは丘の上の施設は全て祭祀用だったのだろうか? 答えは今のところまだ無い。
(3)丘の上の説明板
(4)甕棺墓遺構展示施設
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「福岡市埋蔵文化財センター」は博物館ではないために遺物の展示はあまり豊かではなかった。
各地に同様の施設はあるが、研究施設であるか教育啓蒙の施設であるかどちらに重点を置くかは各々であるらしい。福岡では遺物そのものの展示よりも遺物の保存処理を強調した教育施設であるようだ。
時間が余ったので「宗像大社神宝館」に廻ってみた。思いのほか遠かったが思っていたよりも大きな神社で驚いた。当然ながら展示品は宗像三神の関連に限られる。
(7)宗像大社辺津宮(へつみや)
沖ノ島にある沖津宮(おきつみや)、筑前大島にある中津宮(なかつみや)、とこの辺津宮を総称して宗像大社と言い、夫々に姫神を配して宗像三女神と言う。
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本殿の千木は外削ぎ(尖った先端が上を向いている)になっていてこれは出雲系の神社では男神を表すことになっているが、宗像神社は女神だから出雲系とは違うことがここからも判る。
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(15)宗像大社神宝館
博多駅近くのアコードホテルにチェックインして旧友黒木氏と宴会した。イカがすばらしく旨かった。
福岡県福岡市博多区博多駅前3丁目11-20 092-434-1850
2013/05/16 木曜日 六日目
(1)福岡市博物館
すばらしく見栄えのする建物で玄関も大きくて期待の持てる博物館だった。が、実際に博物館として機能しているのはその一部に過ぎず、建物の大きさからすると悲しいほど少ない展示物だった。
次に向った「西南学院大学博物館」は下調査が不十分で筆者の目的とは会わない施設だった。この大学の性格に気づいていれば筆者が来る筈の無いキリスト教一辺倒の施設だったのである。が、しかしどこにでも意外な収穫はあるもので、この大学の1号館に元寇防塁の一部が保存されていると言う。早速お願いして拝見した。
大勢の若い学生達が行き来する大学構内というものは、どこの大学であっても場違いの思いが強くて居心地はあまりよろしくなかった。
一号館の内庭に移築保存された防塁は高さ1.3mほどの石組みと粘土を積み上げた二列の構成であり、馬で飛び越えて来る敵を防ぐ事を想定した防塁である事が判る。
これが九州北部一帯の海岸線に造られたのだった。現代の公共工事だったとしても財政が破綻しそうな大工事である。
元寇(げんこう)は文永の役(ぶんえい・1274年)と弘安の役(こうあん・1281年)の二回有って、どちらも防塁で防いでいる間に起こった暴風雨で救われたのだった。
この土地にはもう一つ西暦664年に造られた防塁である水城跡も残っている。こちらは白村江の敗戦後に唐軍の侵攻を想定して、博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である。その土塁は、高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルの巨大な物だった。
元寇の時には武士という者がいて組織的に動く事ができたし、日本刀を鍛える伝統が既にあったので鉄器も豊富だったと思えるが水城が造られた中大兄皇子の時代にはどうだったのだろうか。大変な事業だっただろうと思う。
(2)伊都国歴史博物館
ここでも魏志倭人伝記載の国名をこの場所だったと勝手に断定しているが、地方の市立博物館にしてはかなり力が入っており展示物も潤沢だった。ここで地図を貰い糸島半島の志登支石墓群(しとしせきぼぐん)と元寇防塁跡を訪問した。
(3)志登支石墓群
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弥生時代前期から中期に掛けての10基の支石墓が集まっており、周りの水田面から1m程度高くなっている。墓誌が有る訳ではないからどこの誰が埋葬されていたかは判らないしこの人たちの住んでいた場所がどこだったかも判らないが、ここは糸島半島南の平野のほぼ中央でありこの辺りの水田が標高6m位だそうなので早くから農耕社会を形成していた人たちなのかも知れない。
(6)元寇防塁
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ほとんどが撤去されたり砂に埋もれたりしていて、たまに石組みの上端だけが砂上に顔をのぞかせている所もある。見えている部分だけでも大変な量の石である。
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防塁から海岸までは30~40m位だろうか、普通の砂浜であり防風の木垣が立派なのでこちらの方が防塁ではないかと錯覚してしまいそうだ。
(10)復元された防塁
(11)しかし1っ箇所だけ周りの砂を取り払って復元されているところがあった。
人の背丈ほどもあって、上陸してきた元兵が馬を走らせて飛び越えようとしても難しそうである。元兵は本来騎馬民族であるから騎乗していただろうが、連れて来られた高麗兵や江南兵は歩兵だっただろうから弓で援護されながら防塁に近づいて今度は防塁を盾にして弓合戦をすることが出来ただろうと思う。防塁が在るから楽な防衛戦になると言う訳には行かなかったのではあるまいか?
その後半島を一周してみた。あちらこちらに「牧のうどん」の看板があるのでその内の2件で食してみた。実にシンプルな、うどん本来の食べ方と言ってもよさそうなうどんで腰があると言えばあるような無いと言えばないような、中途半端とも、ほどほどであるとも言える。決定的な評価には至らなかったがどちらかといえば筆者はこのうどんが好きである。
二丈パーキングエリアを探して道を誤り、半島東まで戻ってたどり直してそれでも見つからずに、あきらめて先へ進むことにしたら見つかった。地図上の尺度を誤って実際よりかなり近くをイメージしてしまっていたようだ。海岸道路沿いのパーキングに駐車したのは私の車だけだったが波音を聞きながら車中泊した。
2013/05/17 金曜日 七日目
日付が変わった頃に爆音で目が覚めた。
暴走族がやってきたのだ。耳を澄まして寝ていると何事も無く立ち去ったがその後で時間を置いてさらに三つのグループが通り過ぎていった。その後しばらく静かだったので再び眠っていると車の窓をコンコンとノックする音がして目が覚めた。
音の主は二人ずれの警官だった。暴走族ですらそこまではしない、迷惑な福岡県警である。
一人なのか、どこへ行くのか、免許証は? とその職務を実行する彼らにここいらは暴走族が多いのかと問うと、この道をよく走っているらしいと他人事のように言うので「福岡では暴走族は放任されているのですか?」と聞くといやな顔をした。
次に目が覚めたら明るくなっていたので唐津市内のネットカフェに移動した。ネットカフェからあまり遠くない所にある本日最初の訪問地「末慮館」には古代水田跡を谷筋に保存してある。
(1)末慮館
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(3)古代水田跡
但し、2600年前に半島から初めて稲が伝わった土地という既に正しくないと判っている情報を未だに主張していることには問題がある。
発掘が進むにつれ研究が進むにつれて歴史は書き換えられていかねばならない。その度にというのでは大変だろうが、今なされているよりはもっと速やかに書き換えられなければウソを教えることになり教育施設としてはむしろ害になるのではないかと危惧する。
事実よりもプロパガンダが優先するようなどこかの国とは違うのだから!
岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から陸稲(熱帯ジャポニカ種)のプラントオパールが見つかっている。 又、末慮館の近くにある菜畑遺跡(なばたけ)が板付遺跡(いたづけ)と共に日本最古の水稲耕作跡であり、水田の遺構が確認されたのが縄文時代晩期後半の12層からで,2500年から2600年前ぐらいとされているのは事実ではあるが、朝鮮半島で水田が確認される時期は日本のそれよりも遅いのだ。
稲が日本原産の植物ではない事は確認されているが、その伝播が朝鮮半島経由でないことは最早確実なのである。中国南部の原産地から陸続きで朝鮮半島へ行くためには黄河を越えてかなり北上しなければならないが、黄河流域も朝鮮北部も稲作不適地域なので水田耕作が始まったのは近代になってからであることからも伝播経路にはなりえないのだ。たとえ黄海を船で渡って伝わったとしても、朝鮮半島には日本より新しい水田跡しかないのだから説明にならない。
何でもかんでも朝鮮半島経由と言うのは、秦の始皇帝も論語の孔子も朝鮮人だったと言い張る朝鮮族特有のホラ話に過ぎない。
頂いた資料の中の福岡県ミュウジアムガイドで九州歴史資料館の存在を知った。場所は大宰府の近くであり大宰府には二日後に行く予定なのだが、その日はあまり時間が無さそうなのと本日の予定が少ない事から急遽予定を変更してそちらに向った。
かなりの遠回りには成ったが行った事は正解だった。今回見てきた中ではもっとも充実した施設だったのだ。そして発見もあった。
(4)九州歴史資料館
(5)筆者はかねがね、大宰府の発祥に興味を持っていた。
「筑紫の宮家」の大宰(おほみこともち)という官職がある事は前から知っていたのだが、それが大宰の府「大宰府」になることがよく分からなかったのである
白村江の敗戦で唐の進駐を恐れて南部に移動したその移動先が大宰府であり、その結果「筑紫の宮家」の記事が途絶えた流れが、この資料館の説明を手繰りながら知識を整理することで納得できた。
(6)九州歴史資料館内部の休憩所
(7)九州歴史資料館中庭
遠回りして時間が遅くなっってしまったので本日の宿泊場所である諫早市まで長崎自動車道を使って急いだ。緑が多く車も少ない快適な道だった。
諫早第一ホテルに宿泊した。田舎のあまり成功していないホテルの典型らしく高校生のスポーツ合宿に活路を求めているらしいが、学生の集団行動は一般客と相容れないので一般客はさらに減っていくのではないかと危惧する。
設備にもほころびが多く、好人物である管理人の奮闘も及んでいないように見受けられる。
夕食を兼ねて土地の酒を飲む為に諫早駅前まで歩いて行った。予想外に賑やかな街であったが街の範囲はとても狭い。適当に入った海鮮料理の居酒屋で諫早の地酒ではなく山口の日本酒「獺祭(だっさい)」を見つけた。この酒は酒造量が少ないので中々手に入らないがかなり美味い酒である。
金曜日であるせいか店が繁盛しすぎていて落ち着かないので早々に退散した。
2013/05/18 土曜日 八日目
朝6時過ぎに出発して有明海西側を北上した。
有明海は入海なのに水平線が見えて、思いの他大きい海であることを実感した。
焼牡蠣の看板が多かったのは産地なのだろう。食べ放題の看板に食欲をそそられたが、早朝なので開いている店は無い。
佐賀県立博物館に到着したのは8時頃だった。ここの開館は9時30分なので1時間半もあるが、吉野ヶ里歴史公園の開館は9時なのでそちらへ移動する。
北に山を持ち10Kmほど南に有明海のある平野中の南北に細長い台地上にこの遺跡がある。この点は時代は違うものの、青森の三内丸山縄文遺跡が良く似ていて方角だけが逆である。
北数キロに陸奥湾を持ち、南に八甲田山を持つ南北に細長い三内丸山の場合もたぶん海山の産物を得る地の利によって繁栄しただろう事は想像に難くない。
吉野ヶ里の場合も始まりは地の利による人口増だったのだろうが、時代が弥生期であったために政治的な地の利も効いて古墳時代につながって来たものと思われる。
(1)歴史公園センター(東口)
料金所を抜けると「天の浮橋」と名付けられた陸橋を渡って遺跡公園に入っていく。
(2)「天の浮橋」の右手(北側)
(3)「天の浮橋」の左手(南側)
(4)「南の村」では観光用気球が営業していた。
10数m上がって下るだけで時間も短いのだが子供連れ家族が長蛇の列を作っていた。
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(6)最初の環濠を抜けて右へ曲がったところに展示室が有る。
小ぶりの博物館のようで、うまく整理された展示物が理解を助ける。
吉野ヶ里遺跡で疑問に思うことのひとつは弥生期の巨大集落(あるいは文化集団)が玄界灘沿いではなく、有明海沿いにあるのはなぜかと言うことである。
弥生文化の出現は多くの仮説で大陸の影響を取りざたされていて、大陸の影響ならば半島により近い玄界灘沿いに集中するのが有利であるのに、同じく弥生期にできたこの施設がなぜここ有明海沿いにあるのかがとても気になるが土曜日には学芸員は不在なので意見を聞くこともできない。展示室にはガイド役の女性が3名待機していたが、学芸員ではないので筆者の質問には答えられなかった。
しかし替わりに教えてくれたのは、この地方には弥生期だけではなく縄文期の巨大集落遺跡もあったという情報だった。高速道路の工事現場で発見された巨大な遺跡だそうである。
それが事実なら大陸の影響で弥生文化ができたのではなく、縄文文化の中から弥生文化が発生した可能性が現実味を帯びてくる。
しかしながらその縄文遺跡は、高速道路の建設を優先された為にもはや見る事は出来ないと言う。情報に裏付けがないので何とも判断できないがそれが事実なら犯罪行為と言わなければならない。
(7)南内郭
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(9)ところによっては三重の環濠が廻らされているこの遺跡はとにかく巨大で広い。
弥生期に在ってはこの遺跡だけで一つの国家を形成していたと言われても納得できてしまうほど広い遺跡である。
(10)北内郭
(11)北墳丘墓
(12)そしてこの遺跡の面白い点は権力者の墳墓域の北側に一般の墳墓域があることなのだ。
普通なら権力者の住居や墳墓は北側ないしはより高いところにあって、南を向くかあるいは下方を見下ろす形で構築されるのだ。
ここの場合は南側にも一般の墳墓域があるので、北側のそれは後の時代に増築されたものなのかもしれない。
(13)佐賀県立博物館
(14)かなりの規模を持つ施設であるが、無料であるだけでなく受け付けも無い。
普通これ位の規模の施設であれば何種類ものパンフレットが用意されているものだが、県立美術館と兼用のものが一つ有るだけで、ここの人たちにはやる気が無いのでは? と思わないでもないが博物館としての展示物はそう悪くはない。
虚飾を排するという意味で、むしろ好ましく感じた。
(15)久留米市埋蔵文化財センター
うっかりと土曜日休館を見落としていた。残念!
少しだけ時間が余ったのでこの時間を使って「ひがしせぶり温泉」へ行った。山茶花(さざんか)温泉とも書いてある、吉野ヶ里の北方で佐賀県と福岡県を分ている背ぶり山脈のふもとにある単純温泉である。
お茶風呂といって、大量のお茶を入れた枕ほどもある袋が浸してある薬湯があってとても香りのよい風呂だった。
本日は道の駅「くるめ」の駐車場で車中泊。
広い駐車場に10台近くの車が散らばって停泊していた。
2013/05/19 日曜日 九日目
早朝から断続的に雨が降っていた。
太宰府展示館の隣の駐車場に車を入れて資料の整理をしながら開館時間を待っていると続々と車がやってくる。
車を降りる人たちは雨具を身にまとい傘を差して太宰府政庁跡の広い芝生に入っていく。入り口には雨に濡れて、スマイルウオーキングと書いたオレンジ色の旗が立っている。この雨の中を大変にご苦労様と思う。
(1)大宰府政庁跡
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(5)政庁礎石
展示館はこじんまりとした施設で発掘品の一部と写真、それに地形模型、遺跡の復元模型、地図が揃えてあった。ガイドのおじさんに話しかけられて、うっかりと質問を返してしまったので長々と説明を受ける羽目になったがおかげで太宰府のイメージがかなり詳細になってきた。
地形模型を見て直ぐに気が付いたのは藤原京との類似である。内裏の北に耳成山、東に天香具山、西に畝傍山の大和三山を配した藤原京に対して大宰府も名も知らない小さな山ではあるが北、東、西に山を配している。どう言う地形が安心できるか、或いは立派に見えるかについて共通する感性を持った人が場所を選び或いは企画しただろうことが想像できる。
大宰府は7世紀後半から8世紀初頭の創建と推定されており、藤原京は690年に着工され694年に飛鳥浄御原宮から遷都した。確かにどちらも7世紀後半である。
白村江の戦いで大敗したのは663年であり、天皇の在位期間が 天智天皇668年から672年、天武天皇673年から686年、持統天皇690年から697年である。天武が天智の弟であることにはまだ疑問を呈する学者も有るが、持統が天智の娘であり天武の皇后であった事に疑問はなさそうだから、白村江の敗戦からの混乱期に対応して乗り切ったこの三人の内の誰かが首謀者であると見ていいだろうと思う。
(6)九州国立博物館はさすがに国立である。
掛けた金額が違うのだと言ってもいいのかも知れないが、内容は素晴らしく豊富でありテーマの選び方も奥が深い。自分の知っていることと結びつけながらあるいは比較しながら見て歩き、見ていく途中で既に通り過ぎた展示物との関連に気づいてはもう一度引き返して確認する。一通り見終わるのに4時間かかってしまって昼食を逃してしまった。
あえて難点を言えばここの展示は南九州が手薄である。
九州の海人族には北部の宗像系と南部の隼人系が有り、宗像系が玄界灘を活動域としている為に朝鮮半島と多くの関係を持つのに対して、隼人系は九州南部つまり黒潮流域を活動域としていた為に宗像系よりも広い海域に係わってきた可能性が有る。
黒潮つながりで大隅半島、足摺岬、室戸岬、潮岬、御前崎、房総との間に類似性はないのか気になる所である。又、以前から言われているスンダーランド仮説が正しいとすれば、隼人はスンダーランドから黒潮に乗ってやって来た可能性も真実味を帯びてくる。筆者は南九州がとても気になるのである。
(7)入り口付近
国立博物館は東京、京都、奈良、九州にあり、その他に国立科学博物館(東京、上野)や国立民族学博物館(大阪府吹田市)、国立歴史民俗博物館( 千葉県佐倉市)が筆者にとって重要な施設なのだが、東京国立博物館と国立科学博物館、国立歴史民俗博物館は既に見ている。今回九州国立博物館を見たので残りは3件になった。
大宰府天満宮には本来は関心が無いのだが、国立博物館のすぐ隣であってこれだけ名が通っているのに無視して通過するのは気が引けるので挨拶位はして置こうと思ったが、驚いたことに博物館からは「動く歩道」が山の中を抜けて隣の天満宮まで通じていてあまり歩かずに天満宮に至った。
(8)参道
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それにしても菅原道真個人を祭る施設がいったいどうしてこれだけ巨大なものになったのだろう。
そして全国に数え切れないほどの分社があるのはなぜだろう。
道真の死後、道真を左遷した醍醐天皇の周辺で死者が相次いだことと清涼殿に落雷があった事で元々臆病な朝廷が震え上がってしまったにしても、それ以降百年ほども災害が起きるたびに道真の祟りとして大騒ぎをしたのには理解し難いものがある。
(10)本殿
天満神社(てんまん)、菅原神社(すがわら)、天神社(てん)等も同じ系列だが、始まりは恐怖の為で、後には「学問の神様」としての利益ねらいでこれだけ多数の神社が出来たと言う捉え方で正しいのだろうか?。
次に向かったのは田川市石炭・歴史博物館、名前の通り石炭の町の石炭の博物館だが、その関心は石炭産業であって石炭そのものではなく石炭の持つ文化的意味でもないようだ。
炭鉱の内部でいかに石炭を掘ったか、いかに運び出して出荷したか、鉱夫の生活はどうだったか、石炭産業の企業はどう移って行ったか等の展示物は豊富であるが石炭そのものには焦点が合っていない。
筆者としてはここの石炭が何を材料にしてどんな過程で石炭になったのかを知りたい。また石炭ができつつある時代のこの地方はどんな風であったのかを知りたいと思うが産業として石炭と付き合ってきたこの街にそれを要求するのは無理だったのかもしれない。
三つある展示室の三番目が歴史博物館としてのそれだった。展示物は少なくその解説はかなり古い解釈だったがそれでも施設の三分の一を当ててくれたことに感謝しておきたい。彦山川沿いに新石器遺跡から古墳時代遺跡まで細々ではあるが人の痕跡がある。そしてその足下に分厚い石炭の層がある。
石炭紀には分厚い植生に覆われた沼地だったのだろうか、其れとも泥炭が堆積する冷涼なツンドラだったのだろうか、其れとも石炭の生成するまったく未知の環境があったのだろうかと、知りたい欲求に責められる。
本日は田川第一ホテル泊だが、田川市は祭り日だった為に宿に近づけない。かなり大きな祭りで川沿いに長く出店が連なっている。交通規制されているので最寄のコンビニの駐車場で資料整理しながら待って19時に交通規制が解除されてから宿に入った。
祭りの余波で夕食を摂る店も無い。大混雑の中に入っていくのが嫌なのであきらめた。
弥勒山日記 (11)に続く
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役の行者 2013/04/25 木曜日
2013/04/26 金曜日 二日目
(1)翌26日の 四天王寺

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(6)四天王寺古書市

(7)広い四天王寺境内のかなりの面積を使って毎年この時期に古書市が開かれます。

又、日本の書籍出版は世界の中でもかなり多い方である事と地方の出版物情報は中々伝わってこないのでこういう機会はとても貴重です。
毎回参加しては、うれしい出会いを求めて、足を棒にしています。
弥勒登山108回目 時計回り 2013/05/01 水曜日 「朴の木」の花発見
(1)岩山小屋で出会ったかなへびの成体

(2)全長約15Cm

(3)「朴の木」の花

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佐賀県・福岡県 2013/05/11 土曜日
出雲に所用があって出かけるついでに足を伸ばして九州北部の福岡、佐賀両県を見てきた。目的は両県と中国地方のまだ見ていない主な遺跡、埋蔵文化財センター、博物館を見る事。
目覚めたのが2:30ではいささか早すぎたが、起きてしまったものは仕方がない。二度寝をしたら今度は遅くなってしまうのでそのまま出発した。途中は断続的に雨が降って速度は出せなかったがその他には特に難もなく順調に走れたので鳥取県米子市近くにある妻木晩田(むきばんだ)遺跡に着いたのは昼を少し回った頃だった。
(1)伯耆大山を北東側から見る。

妻木晩田遺跡は伯耆大山1,729mの北西にある孝霊山751.4mのさらに北西側山すその台地に広がっている弥生中期の遺跡である。
(2)遺跡から西遠景、米子市と弓ヶ浜

縄文海膨で海面が高くなった時代に高台に避難した人々が生活場所はそのままで、海が引いてできた低地に農耕を始めたとすれば、縄文人がそのまま弥生人になったことになってしまって矛盾するのだ。
随分と不便だっただろうと思うが止む終えない何かの理由が在ったのだろう。
(3)四隅突出型墳丘墓に付けられた説明板

(4)小型方形墳丘墓の説明板

(5)洞の原墳墓群

日本史では墳丘を持つ墓は全て墳丘墓と呼んでいるが、この内の3世紀後半から7世紀前半までに築造されたものを特に「古墳」と呼んで区別している。この時代を古墳時代というのだが、「前方後円墳の築造が卓越した時代」との定義も有る。
つまり、前方後円墳を作り始めた時代を古墳時代と言い、作らなくなったら古墳時代は終わったとされるのだ。それは、社会に階級構造がはっきりしてきた時期を持って始まりとし、大和王権が確定した(つまり飛鳥時代が始まった)時期を古墳時代の終焉とすると言うことでもある。
(6)洞の原

関心の中心を縄文時代に持つ私はこの遺跡が弥生時代のものなのでずっと無視していたが、縄文時代と古墳時代の間に始まりしかもこの土地のこの場所にあることの意味を考えて、一度見ておく必要があると思ったので今回の旅に加えた。
この土地が重要なのは背景に大山を控えて山岳系の民族を考慮できることと大和勢力と出雲勢力の接点になり得る事、海上交通あるいは民族移動の焦点となり得る島根半島を見渡す後背地であること。だからつまり諸民族が平和で且つ人口の少なかった縄文時代から、階級差と権力機構が形を整えて来た古墳時代への移行期間である弥生時代を理解するのに役立つだろう事である。
(7)洞の原から大山方向

但し、弥生時代と古墳時代における大和と出雲の交通を考えるにあたっては基本的には南下して岡山あたりで瀬戸内海地方に出るルートが主に想定されている。山陰路を通って丹波経由となる道がいつごろから加わってきたのかはまだ定かにはなっていない。
(8)復元された住居

(9)復元された集落

(10)

(11)遺構展示館内の遺構

(12)近頃日本海海岸にはおびただしいほどの風力発電設備が作られている。

アジア博物館・井上靖記念館に来た。筆者の郷里へ帰る道途中の弓ヶ浜にあるのだから20数年前からその存在は知っていて一度は訪ねたいと思いながら毎回時間がなくて素通りしていたのだが、今回やっと念願がかなった。
(13)アジア博物館正門

(14)モンゴル館

さすがに詩人でもある井上氏を記念するだけの事はある。
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(18)岡成池

この池は江戸期の農民が自力で作った農業ため池で、その改修工事を記念して作られた公園の駐車場がトイレ施設完備な上に幹線道路沿いではなくて静かなのだ。
2013/05/12 日曜日 二日目
昨夜は19時に眠ったので3時に目覚めた。
このまま米子市内のネットカフェへ移動して情報収集。
7時頃「八雲立つ風土記の丘」に向った。時間が早すぎて展示施設は開いていなかったが岡田山古墳の外観は時間をかけて観察することができた。長さ約24mの前方後方墳である1号古墳は発掘済みであって樹木が取り払われているのでその石組みの組み方も観察できる。周りはかなり深い樹林帯に覆われていて最寄の集落や耕地からは距離がある。実際ここに古墳があることによくぞ気がついたものだと思った。
未発掘のまま残してある2号古墳は樹木や竹に覆われていて、ここに古墳があることを知っていて見に来たのでなければこれが古墳である事にも気付けないのだ。
そしてこの前方後方型古墳というものの成立時期も問題になるのである。前方後方墳の祖形である前方後方形墳丘墓が造られ始めたのは主に弥生時代後期末からであり古墳時代前期前半の東日本(中部・関東地方)に前方後方墳が多く存在する。
西日本の前方後円墳の世界に対し東日本は前方後方墳の世界であったと言われている。
又、100メートルを超える規模の大きな前方後方墳5基が大和に集中し、後は下野に2基、上野・越中・美濃・駿河に1基ずつ存在することからも、大和を東日本に入れるならば、前方後方墳は東日本のものと言える。
そう言いながら、中国・四国地方にも前方後方墳は多く存在し、中でも出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて築かれ続けていたのだから東日本の前方後方墳が次第に西下して中国・四国地方にも造られるようになったとの解釈が出来てしまう。
縄文時代であれば文化・人口の中心地域が東日本と西日本で度々入れ替わっているので何も不思議はないのだが、弥生時代以降となると東日本中心かそれとも西日本中心かで大きく意味が違ってくるのである。
又、この岡田山古墳が見つけ難い、あるいは造り難い場所にある古墳である事とすぐ近くの別の山裾に出雲大社の前身である神魂(かもす)大社が在る事との間に何らかの意味が有るのか無いのかも考えてみたいことである。
出雲の平成温泉で入浴してスポーツ公園の駐車場で車中泊。適当に暗く誰も来ない最適の停泊地だった。
2013/05/13 月曜日 三日目
4時に起床、既に明るくなりつつある公園のトイレで歯磨きをして出発。
一旦神戸川を出雲側に渡って出雲大社近くで海岸へ向かい、海沿いの道を海を見ながら走る。
(1)薗の長浜(そののながはま)から続く海岸道路は立派に舗装された快適な道であり、海を見ながら走るのはとても楽しいものである。




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遠田から9号線を離れて最後の海岸線に入った。このあたりは道が砂浜沿いから高台へ行きつ戻りつ移動しながらも海岸から離れずに走る。 そしてついに益田川を渡った。
筆者が中学・高校時代を過ごした益田市は益田川と高津川二つの川に拠って埋め立てられた沖積平野である。
(10)益田川と高津川の間の砂浜

他の地方でも砂浜が痩せて来たという嘆きを耳にしている。砂の供給元である河川が改修されて砂を流さなくなってきたのが原因らしい。河川氾濫よりはましなのだろうが僅か40数年前がはるかな大昔のように遠く感じてしまう。
(11)高津川右岸の最先端を臨む

この後、蟠竜湖周辺、石見空港北方の地形・地質を見て周りこの周辺全てが砂の堆積した海岸砂丘による高原状雑木林であることを確認した。
列島日本海側大部分が砂浜であることからも日本海が過去に何度も陸封海没を繰り返した事が想像できる。ちなみに日本海の砂は鉱物系の砂であり、さんご礁の北限を超えているから石灰質の砂は少ない。
(12)県立益田工業高校跡地


かって住んでいた頃の自分の足跡を訪ねて市の中心部を散策してみたが見覚えの有る建物は全くなかった。思えばわが父は50年前にこの後背地に恵まれた益田の将来性を信じて家族共々店を移したのだ。
50年経って今は駅前のメインストリートにも空き地が目立つ。町を歩く人もまばらで郊外の草地を歩いているような気分にしてくれる。幸か不幸かかってのスラム地区はなくなっていた。
かっては貧民の集まる木製の迷路のようなアパートがあった。まるで高度成長期以前の学生の集まる安アパートのような一室に家族で住でいる人達が大勢いた。山裾には豚飼いが集落をなして周囲に強烈な悪臭を放っていた。
飲み屋街は完全に迷路と化して酔っ払いのいない昼間には子供だった筆者の探検場所だった。これらもひとつの繁栄と言うならば筆者の立ち去った後にそれを一掃したらしい洪水が街にとどめを刺したとも言える。
父は18年間頑張って諦めた。街は発展せず子供たちは巣立ってしまい大家には立ち退きを迫られていた。地元のスーパーに地所を買い取られようとしていたのである。幸いにも父には空き家にしてあった実家に戻るという選択肢があった。
その父も既に亡くなった。筆者にとって小学、中学、高校の8年を過ごした街は今では見知らぬ街になってしまった。
なまじ思い出が有るために筆者の益田は異界となってしまったらしい。
益田駅前ビジネスホテルに宿泊
島根県益田市駅前町26-2 電話: 0856-23-1337
3,500円 コインランドリー 駐車場無料
2013/05/14 火曜日 四日目
4時起床。ホテルの部屋でネット仕事を片付けて、6時半に出発。
順調に走って津和野を抜け、小郡を抜け、国道2号線に入る。 途中の吉野家で朝定食を摂りひたすら西を目指したら自然に関門トンネル入り口に達した。150円払ってトンネルに入ると道はかなりの傾斜で下って行く。かなり下ってわずかな水平部分の後で上り始めるとたちまちトンネルを抜けた。
北九州側は山口側より低いのか? いやそんな筈は無い。 気のせいなのだろうと思う。
九州側は至る所が高架の立体道路になっていて走り難い事おびただしい。北九州市が大工業地帯であったことの証なのだろう。
一方通行も多くて、かなり迷った挙句の昼前には「いのちのたび博物館」に到着した。かなり広くて、豊富な展示物には感心したが、館内は小学・中学の遠足だか学習イベントだかに支配されているらしく、筆者のいる間だけでも小学生の団体を三つ、中学生の団体を一つ見かけた。
それぞれが統一された服装なので区別できるのだが、時間差攻撃をかけているらしく団体が重なることはなかった。小学生にとっては勉強と遊びの区別が無いので大変に賑やかで前を見ずに走り出すためにしばしば体当たりしてくるのがとても可愛くて楽しめた。
小学生が多いせいなのかどうかは解らないが展示物の説明にいろいろ書いてある割にはだからどうなのだという結論が抜けていることが多く、説明を読んだ後には疑問が増えてしまう。
恐竜とか哺乳類のレプリカはたくさんあり植物標本も多くジオラマもしっかりしている。エンバイラマ館という動くレプリカと映像で組んだ展示の中生代の恐竜達がいる北九州は実にリアルで楽しかったがこの施設の展示を通じて考えさせられたこともある。
博物学的にあれもあるこれもあるそんなものもあると、たくさん見せてくれるだけで分類上の違いを教えてくれる訳でもなく分化の原因を教えてくれる訳でもなく、なぜ?と問いかけてくれる訳でもない事に不満を感じた。
この施設を出たときには3時になっていたのでかなり長居をしたことになる。
次に「夜宮公園」の珪化木を見に行った。わが国最大といわれる最大径2m全長40mで4000万年前の広葉樹との事であるが、金網で囲ってあり詳しくは見えなかった。
北九州市立埋蔵文化財センターへ行ったが展示部分は小さな博物館といった感じで、旧石器から戦後までの大まかな展示でありどこに特徴があるのか見出せなかった。ここでは話を聞ける学芸員にも会えなかった。
本日は3号線の岡垣パーキングで車中泊。
広い駐車場に広くて明るいトイレ。難点はひとつだけ、街灯が明る過ぎて眠り難いのだ。
遠賀郡岡垣町大字山田527番地3
2013/05/15 水曜日 五日目
4時過ぎに起床、ネットカフェに移動してネット仕事。
吉野家にて朝食の後「奴国の丘歴史資料館」に向った。街の中をぐるぐると廻らされて、こんな街の中に遺跡があるのだろうかと不安になった頃にナビの指示で左折したら途端に急な登り坂になって丘の上の資料館に着いた。
着いてみれば、先程まで街中にいたのが嘘のように広々と見渡せる丘だった。
(1)奴国の丘歴史資料館

(2)須玖岡本遺跡の説明

魏志倭人伝に記載されている奴国がこの地であったとは確認された事実ではないのだが、未だどことも特定されていないのだから言うのは自由なのだろう。それにこの辺りは弥生時代・古墳時代の遺物が大量に有るのでまんざらデタラメでもない。
当時丘の周辺一帯が低湿地だったのか、其れとも支配グループが丘の上にいて民衆は丘の下だったのだろうか? 或いは丘の上の施設は全て祭祀用だったのだろうか? 答えは今のところまだ無い。
(3)丘の上の説明板

(4)甕棺墓遺構展示施設

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「福岡市埋蔵文化財センター」は博物館ではないために遺物の展示はあまり豊かではなかった。
各地に同様の施設はあるが、研究施設であるか教育啓蒙の施設であるかどちらに重点を置くかは各々であるらしい。福岡では遺物そのものの展示よりも遺物の保存処理を強調した教育施設であるようだ。
時間が余ったので「宗像大社神宝館」に廻ってみた。思いのほか遠かったが思っていたよりも大きな神社で驚いた。当然ながら展示品は宗像三神の関連に限られる。
(7)宗像大社辺津宮(へつみや)

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(15)宗像大社神宝館

博多駅近くのアコードホテルにチェックインして旧友黒木氏と宴会した。イカがすばらしく旨かった。
福岡県福岡市博多区博多駅前3丁目11-20 092-434-1850
2013/05/16 木曜日 六日目
(1)福岡市博物館

次に向った「西南学院大学博物館」は下調査が不十分で筆者の目的とは会わない施設だった。この大学の性格に気づいていれば筆者が来る筈の無いキリスト教一辺倒の施設だったのである。が、しかしどこにでも意外な収穫はあるもので、この大学の1号館に元寇防塁の一部が保存されていると言う。早速お願いして拝見した。
大勢の若い学生達が行き来する大学構内というものは、どこの大学であっても場違いの思いが強くて居心地はあまりよろしくなかった。
一号館の内庭に移築保存された防塁は高さ1.3mほどの石組みと粘土を積み上げた二列の構成であり、馬で飛び越えて来る敵を防ぐ事を想定した防塁である事が判る。
これが九州北部一帯の海岸線に造られたのだった。現代の公共工事だったとしても財政が破綻しそうな大工事である。
元寇(げんこう)は文永の役(ぶんえい・1274年)と弘安の役(こうあん・1281年)の二回有って、どちらも防塁で防いでいる間に起こった暴風雨で救われたのだった。
この土地にはもう一つ西暦664年に造られた防塁である水城跡も残っている。こちらは白村江の敗戦後に唐軍の侵攻を想定して、博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である。その土塁は、高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルの巨大な物だった。
元寇の時には武士という者がいて組織的に動く事ができたし、日本刀を鍛える伝統が既にあったので鉄器も豊富だったと思えるが水城が造られた中大兄皇子の時代にはどうだったのだろうか。大変な事業だっただろうと思う。
(2)伊都国歴史博物館

(3)志登支石墓群

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(5)

弥生時代前期から中期に掛けての10基の支石墓が集まっており、周りの水田面から1m程度高くなっている。墓誌が有る訳ではないからどこの誰が埋葬されていたかは判らないしこの人たちの住んでいた場所がどこだったかも判らないが、ここは糸島半島南の平野のほぼ中央でありこの辺りの水田が標高6m位だそうなので早くから農耕社会を形成していた人たちなのかも知れない。
(6)元寇防塁

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(10)復元された防塁

(11)しかし1っ箇所だけ周りの砂を取り払って復元されているところがあった。

その後半島を一周してみた。あちらこちらに「牧のうどん」の看板があるのでその内の2件で食してみた。実にシンプルな、うどん本来の食べ方と言ってもよさそうなうどんで腰があると言えばあるような無いと言えばないような、中途半端とも、ほどほどであるとも言える。決定的な評価には至らなかったがどちらかといえば筆者はこのうどんが好きである。
二丈パーキングエリアを探して道を誤り、半島東まで戻ってたどり直してそれでも見つからずに、あきらめて先へ進むことにしたら見つかった。地図上の尺度を誤って実際よりかなり近くをイメージしてしまっていたようだ。海岸道路沿いのパーキングに駐車したのは私の車だけだったが波音を聞きながら車中泊した。
2013/05/17 金曜日 七日目
日付が変わった頃に爆音で目が覚めた。
暴走族がやってきたのだ。耳を澄まして寝ていると何事も無く立ち去ったがその後で時間を置いてさらに三つのグループが通り過ぎていった。その後しばらく静かだったので再び眠っていると車の窓をコンコンとノックする音がして目が覚めた。
音の主は二人ずれの警官だった。暴走族ですらそこまではしない、迷惑な福岡県警である。
一人なのか、どこへ行くのか、免許証は? とその職務を実行する彼らにここいらは暴走族が多いのかと問うと、この道をよく走っているらしいと他人事のように言うので「福岡では暴走族は放任されているのですか?」と聞くといやな顔をした。
次に目が覚めたら明るくなっていたので唐津市内のネットカフェに移動した。ネットカフェからあまり遠くない所にある本日最初の訪問地「末慮館」には古代水田跡を谷筋に保存してある。
(1)末慮館

(2)

(3)古代水田跡

発掘が進むにつれ研究が進むにつれて歴史は書き換えられていかねばならない。その度にというのでは大変だろうが、今なされているよりはもっと速やかに書き換えられなければウソを教えることになり教育施設としてはむしろ害になるのではないかと危惧する。
事実よりもプロパガンダが優先するようなどこかの国とは違うのだから!
岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から陸稲(熱帯ジャポニカ種)のプラントオパールが見つかっている。 又、末慮館の近くにある菜畑遺跡(なばたけ)が板付遺跡(いたづけ)と共に日本最古の水稲耕作跡であり、水田の遺構が確認されたのが縄文時代晩期後半の12層からで,2500年から2600年前ぐらいとされているのは事実ではあるが、朝鮮半島で水田が確認される時期は日本のそれよりも遅いのだ。
稲が日本原産の植物ではない事は確認されているが、その伝播が朝鮮半島経由でないことは最早確実なのである。中国南部の原産地から陸続きで朝鮮半島へ行くためには黄河を越えてかなり北上しなければならないが、黄河流域も朝鮮北部も稲作不適地域なので水田耕作が始まったのは近代になってからであることからも伝播経路にはなりえないのだ。たとえ黄海を船で渡って伝わったとしても、朝鮮半島には日本より新しい水田跡しかないのだから説明にならない。
何でもかんでも朝鮮半島経由と言うのは、秦の始皇帝も論語の孔子も朝鮮人だったと言い張る朝鮮族特有のホラ話に過ぎない。
頂いた資料の中の福岡県ミュウジアムガイドで九州歴史資料館の存在を知った。場所は大宰府の近くであり大宰府には二日後に行く予定なのだが、その日はあまり時間が無さそうなのと本日の予定が少ない事から急遽予定を変更してそちらに向った。
かなりの遠回りには成ったが行った事は正解だった。今回見てきた中ではもっとも充実した施設だったのだ。そして発見もあった。
(4)九州歴史資料館

(5)筆者はかねがね、大宰府の発祥に興味を持っていた。

白村江の敗戦で唐の進駐を恐れて南部に移動したその移動先が大宰府であり、その結果「筑紫の宮家」の記事が途絶えた流れが、この資料館の説明を手繰りながら知識を整理することで納得できた。
(6)九州歴史資料館内部の休憩所

(7)九州歴史資料館中庭

遠回りして時間が遅くなっってしまったので本日の宿泊場所である諫早市まで長崎自動車道を使って急いだ。緑が多く車も少ない快適な道だった。
諫早第一ホテルに宿泊した。田舎のあまり成功していないホテルの典型らしく高校生のスポーツ合宿に活路を求めているらしいが、学生の集団行動は一般客と相容れないので一般客はさらに減っていくのではないかと危惧する。
設備にもほころびが多く、好人物である管理人の奮闘も及んでいないように見受けられる。
夕食を兼ねて土地の酒を飲む為に諫早駅前まで歩いて行った。予想外に賑やかな街であったが街の範囲はとても狭い。適当に入った海鮮料理の居酒屋で諫早の地酒ではなく山口の日本酒「獺祭(だっさい)」を見つけた。この酒は酒造量が少ないので中々手に入らないがかなり美味い酒である。
金曜日であるせいか店が繁盛しすぎていて落ち着かないので早々に退散した。
2013/05/18 土曜日 八日目
朝6時過ぎに出発して有明海西側を北上した。
有明海は入海なのに水平線が見えて、思いの他大きい海であることを実感した。
焼牡蠣の看板が多かったのは産地なのだろう。食べ放題の看板に食欲をそそられたが、早朝なので開いている店は無い。
佐賀県立博物館に到着したのは8時頃だった。ここの開館は9時30分なので1時間半もあるが、吉野ヶ里歴史公園の開館は9時なのでそちらへ移動する。
北に山を持ち10Kmほど南に有明海のある平野中の南北に細長い台地上にこの遺跡がある。この点は時代は違うものの、青森の三内丸山縄文遺跡が良く似ていて方角だけが逆である。
北数キロに陸奥湾を持ち、南に八甲田山を持つ南北に細長い三内丸山の場合もたぶん海山の産物を得る地の利によって繁栄しただろう事は想像に難くない。
吉野ヶ里の場合も始まりは地の利による人口増だったのだろうが、時代が弥生期であったために政治的な地の利も効いて古墳時代につながって来たものと思われる。
(1)歴史公園センター(東口)

(2)「天の浮橋」の右手(北側)

(3)「天の浮橋」の左手(南側)

(4)「南の村」では観光用気球が営業していた。

(5)

(6)最初の環濠を抜けて右へ曲がったところに展示室が有る。

吉野ヶ里遺跡で疑問に思うことのひとつは弥生期の巨大集落(あるいは文化集団)が玄界灘沿いではなく、有明海沿いにあるのはなぜかと言うことである。
弥生文化の出現は多くの仮説で大陸の影響を取りざたされていて、大陸の影響ならば半島により近い玄界灘沿いに集中するのが有利であるのに、同じく弥生期にできたこの施設がなぜここ有明海沿いにあるのかがとても気になるが土曜日には学芸員は不在なので意見を聞くこともできない。展示室にはガイド役の女性が3名待機していたが、学芸員ではないので筆者の質問には答えられなかった。
しかし替わりに教えてくれたのは、この地方には弥生期だけではなく縄文期の巨大集落遺跡もあったという情報だった。高速道路の工事現場で発見された巨大な遺跡だそうである。
それが事実なら大陸の影響で弥生文化ができたのではなく、縄文文化の中から弥生文化が発生した可能性が現実味を帯びてくる。
しかしながらその縄文遺跡は、高速道路の建設を優先された為にもはや見る事は出来ないと言う。情報に裏付けがないので何とも判断できないがそれが事実なら犯罪行為と言わなければならない。
(7)南内郭

(8)

(9)ところによっては三重の環濠が廻らされているこの遺跡はとにかく巨大で広い。

(10)北内郭

(11)北墳丘墓

(12)そしてこの遺跡の面白い点は権力者の墳墓域の北側に一般の墳墓域があることなのだ。

ここの場合は南側にも一般の墳墓域があるので、北側のそれは後の時代に増築されたものなのかもしれない。
(13)佐賀県立博物館

(14)かなりの規模を持つ施設であるが、無料であるだけでなく受け付けも無い。

虚飾を排するという意味で、むしろ好ましく感じた。
(15)久留米市埋蔵文化財センター

少しだけ時間が余ったのでこの時間を使って「ひがしせぶり温泉」へ行った。山茶花(さざんか)温泉とも書いてある、吉野ヶ里の北方で佐賀県と福岡県を分ている背ぶり山脈のふもとにある単純温泉である。
お茶風呂といって、大量のお茶を入れた枕ほどもある袋が浸してある薬湯があってとても香りのよい風呂だった。
本日は道の駅「くるめ」の駐車場で車中泊。
広い駐車場に10台近くの車が散らばって停泊していた。
2013/05/19 日曜日 九日目
早朝から断続的に雨が降っていた。
太宰府展示館の隣の駐車場に車を入れて資料の整理をしながら開館時間を待っていると続々と車がやってくる。
車を降りる人たちは雨具を身にまとい傘を差して太宰府政庁跡の広い芝生に入っていく。入り口には雨に濡れて、スマイルウオーキングと書いたオレンジ色の旗が立っている。この雨の中を大変にご苦労様と思う。
(1)大宰府政庁跡

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(3)

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(5)政庁礎石

地形模型を見て直ぐに気が付いたのは藤原京との類似である。内裏の北に耳成山、東に天香具山、西に畝傍山の大和三山を配した藤原京に対して大宰府も名も知らない小さな山ではあるが北、東、西に山を配している。どう言う地形が安心できるか、或いは立派に見えるかについて共通する感性を持った人が場所を選び或いは企画しただろうことが想像できる。
大宰府は7世紀後半から8世紀初頭の創建と推定されており、藤原京は690年に着工され694年に飛鳥浄御原宮から遷都した。確かにどちらも7世紀後半である。
白村江の戦いで大敗したのは663年であり、天皇の在位期間が 天智天皇668年から672年、天武天皇673年から686年、持統天皇690年から697年である。天武が天智の弟であることにはまだ疑問を呈する学者も有るが、持統が天智の娘であり天武の皇后であった事に疑問はなさそうだから、白村江の敗戦からの混乱期に対応して乗り切ったこの三人の内の誰かが首謀者であると見ていいだろうと思う。
(6)九州国立博物館はさすがに国立である。

あえて難点を言えばここの展示は南九州が手薄である。
九州の海人族には北部の宗像系と南部の隼人系が有り、宗像系が玄界灘を活動域としている為に朝鮮半島と多くの関係を持つのに対して、隼人系は九州南部つまり黒潮流域を活動域としていた為に宗像系よりも広い海域に係わってきた可能性が有る。
黒潮つながりで大隅半島、足摺岬、室戸岬、潮岬、御前崎、房総との間に類似性はないのか気になる所である。又、以前から言われているスンダーランド仮説が正しいとすれば、隼人はスンダーランドから黒潮に乗ってやって来た可能性も真実味を帯びてくる。筆者は南九州がとても気になるのである。
(7)入り口付近

大宰府天満宮には本来は関心が無いのだが、国立博物館のすぐ隣であってこれだけ名が通っているのに無視して通過するのは気が引けるので挨拶位はして置こうと思ったが、驚いたことに博物館からは「動く歩道」が山の中を抜けて隣の天満宮まで通じていてあまり歩かずに天満宮に至った。
(8)参道

(9)

そして全国に数え切れないほどの分社があるのはなぜだろう。
道真の死後、道真を左遷した醍醐天皇の周辺で死者が相次いだことと清涼殿に落雷があった事で元々臆病な朝廷が震え上がってしまったにしても、それ以降百年ほども災害が起きるたびに道真の祟りとして大騒ぎをしたのには理解し難いものがある。
(10)本殿

次に向かったのは田川市石炭・歴史博物館、名前の通り石炭の町の石炭の博物館だが、その関心は石炭産業であって石炭そのものではなく石炭の持つ文化的意味でもないようだ。
炭鉱の内部でいかに石炭を掘ったか、いかに運び出して出荷したか、鉱夫の生活はどうだったか、石炭産業の企業はどう移って行ったか等の展示物は豊富であるが石炭そのものには焦点が合っていない。
筆者としてはここの石炭が何を材料にしてどんな過程で石炭になったのかを知りたい。また石炭ができつつある時代のこの地方はどんな風であったのかを知りたいと思うが産業として石炭と付き合ってきたこの街にそれを要求するのは無理だったのかもしれない。
三つある展示室の三番目が歴史博物館としてのそれだった。展示物は少なくその解説はかなり古い解釈だったがそれでも施設の三分の一を当ててくれたことに感謝しておきたい。彦山川沿いに新石器遺跡から古墳時代遺跡まで細々ではあるが人の痕跡がある。そしてその足下に分厚い石炭の層がある。
石炭紀には分厚い植生に覆われた沼地だったのだろうか、其れとも泥炭が堆積する冷涼なツンドラだったのだろうか、其れとも石炭の生成するまったく未知の環境があったのだろうかと、知りたい欲求に責められる。
本日は田川第一ホテル泊だが、田川市は祭り日だった為に宿に近づけない。かなり大きな祭りで川沿いに長く出店が連なっている。交通規制されているので最寄のコンビニの駐車場で資料整理しながら待って19時に交通規制が解除されてから宿に入った。
祭りの余波で夕食を摂る店も無い。大混雑の中に入っていくのが嫌なのであきらめた。
弥勒山日記 (11)に続く
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専門用語や知識が多くて勉強になると同時に、自分の無知さを再確認して焦る記事ですが、面白いです。
更新楽しみにしています。
写真の一枚、一枚の背景の語り口に、薀蓄の深さを感じました。
己の薄学を思い知らされましたが、一番なじんだのは旅籠のくだりでした。
私も山の辺の道には興味があり、機会があればと思っているのですが、それよりも柳生街道が先かなと、想を練っています。
興味深いので、時々はサイトを訪問したいと思います。
時々覗いてみて下さい。