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叱るより、ささやけ



11月13日13時30分、奥田精一郎先生が逝去されました。

イトマン時代にたくさんのことを教えていただいた「師」です。

何度も何度も怒られました。

でも、その何倍も褒めていただき、時には「参りました~」と笑顔でオイラに頭を下げてくれました。
本当、思い出は尽きませんが、ここには書きません、いや書けません。強烈すぎて…。
中でも『東スイ・春の陣』は一生の思い出です。

1996年のイトマン招待の時には最優秀コーチ賞を頂き、奥田会長から直々に盾と金一封を頂きました。

当時、数多くの水連の遠征に鼻垂れ小僧のオイラが代表コーチとして選ばれたのも、奥田会長の「口利き」があったからです。

1997年の秋、イトマンを辞めた時には直々にお電話をいただき、「今すぐ大阪に来て、ゼロからやり直せ!」と言われました。
あの時、会長の仰る通り大阪に行っていたら、今とは違う自分になっていたに違いありません。

2000年か2001年のJO@辰巳の時、プールサイドの来賓席から(ここに来るよう)手招きされました。
赤と白の(インターの)ジャージを着たオイラが、イトマンの名誉会長の横で正座して話を聞く様は、スタンドの方々にとって滑稽だったことでしょう。


おそらく101歳でしょうか。
今年、コロナ禍でなければ大阪に行ってお会いしようと思っていました。

悔しい。
本当に悔しい。
お会いして、お話を伺いたかった。

奥田会長、どうか安らかにお眠り下さい。
心よりご冥福をお祈りいたします。

合掌

コメント一覧

五十路マン
>鶴谷様

コメントありがとうございます。

競泳のコーチング、いやコーチングに限らず多くのことを奥田先生から教わりました。
是非、奥田先生の追悼集を残していただきたいと思います。
私が出来ることであれば何でもさせていただきます。

どうか宜しくお願いします。

鶴谷道広
奥田先生の体重が40キロを切ったと伝わってきたのは20年位前ではなかったか。指導者でもない小生は近寄れもしなかったが、最も尊敬していた指導者だった。勿論「叱るより、ささやけ」はむさぼり読んだ。昭和40年、山田SCの顧問。イトマンSSの設立。金儲けのためではなく、水泳選手を育てようとするその姿勢、情熱を学んだ門下生は最も多いのではないだろうか。不参加となったモスクワ五輪の前、粉浜の合宿所を取材したことがある。壁に「そのひと口が豚になる」とあった。スイマガ創刊時の懐かしい話だ。以来、水泳の歴史を追っている。大阪出身の高石勝男さんの追悼集「高石さんを憶う」は日水連関西支部が亡くなって1年後に発行された。奥田さんの追悼集も、ぜひぜひ世に残してほしい。それだけのことを日本の水泳に残した人なのだから。(つるたに)

管理人がどなたかも知らずに投稿しています。昭和52年に創刊されたスイマガで編集長を務めた者です。奥田さんは記録・記憶に留めるべき人。ぜひ「追悼集」を残してください。鶴谷道広
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