こんにちは、のほせんです。
もうすぐ秋の中秋の名月。(台風が気にかかりますが・・)
とにもかくにも、ようやくしのぎやすくなってきました。
みなさんは、この発熱したような夏をどのように過ごされましたでしょうか?
夏バテのように、つい、心がくじけてしまっていませんか?
そんなときは戸外に眼を向け、深く長い呼吸法を実行し、さらに
からだをストレッチして脳の血流を促進しましょう。
それから、無理にでも大きな声をだしながら少しむずかしい本を読んでみましょう。
このようにして、またスイッチを入れなおしてみてください。・・
-- さてまた、つまらない人たちのせいで世間がさわがしいことです。
心の相談では、「もう少し相手と距離を取るように心がければいいですよ。」とおはなししますが、
じぶんたちの方から勇んで挑発しておいて、騒動がおおきくなったら困惑して
「ものごとを大局的な見地からとらえなければ!」と国連で泣き言を言うドジョウのアノ方の場合は、
距離のはかり方をわきまえない外交オンチをさらして世界中の失笑を買ってしまった。
困ったことに、いまこの国では、まるでジャイアンのふりをしたがるスネオくんたちが増殖中!
そういえば最近の生徒会役員選挙というものが政党総裁選挙をマネして、
とんでもなく「ぞっとして、いやらしい!」という話をきいています。
こちらもスネオくんたちが増殖しているのかとおもうと、それこそぞっとしますね。・・・
-- 以前からお話しているように、時代の閉塞感がつよくなってくると、この国では
まるで鬱破りのように、欲求をおさえきれずにヒステリー症候群をともなって
天皇や日の丸をまるでわがもののようにふるまうひとたちが露出してくる傾向があります。
こんにちもまた、その兆候がそろそろはっきりとあらわれてきました。
それだけその者たちが、社会の本当の知性から自己を疎外させてしまっているゆえに、
分かりやすい共同観念にすがろうとしていることが透けて見えるようです。
しかしそれにしても、その共同観念が古めかしい「見なれた悪魔」でしかないところが
国民からみれば気恥ずかしく、今この時代になぜ? と、首をかしげさせられる点でもあります。
こんにち、御用マスメディアがその人気を煽りたてる「ハシズム」党や、
正当「ほしゅ」を名乗り、日の丸ニッポンをわがもののようにさけぶが、
その実は戦後一貫してアメリカ隷従派だった信用ならざる党派が
同じ色のハチマキと日の丸(裏に星条旗がぬいつけられている)をかかげて、
出番があるかのように、眼玉をひんむいてスタンバっていることにおどろくばかりだ。
まったく「竜馬」気取りで、何より財政が大事、文化に無教養、人をコストとしか見れないタチの悪い連中と、
こっちは「桃太郎」気取りの口先サムライのスネオくんたちが、よってたかって結局は
この国と国民の尊厳を危うくしようとがんばっていることに、まるで自覚が無い。
かれらとかれらを囃したてるメディアが、わるい夢のなかの戯れ事であることを願わずにはおれない! ・・・
-- さて以前に、「戦争を問うシモーニュ・ヴェイユと現代日本」という記事を掲載しましたが、
今回はその記事の内容に沿いながら、こんにちの情況をとらえなおしておこうとおもいます。
- 1932年、二十三歳でフランス高等中学哲学教師だったシモーヌ・ヴェイユ女史は、
第一次大戦で敗戦し、失業者が巷にあふれるドイツをおとずれている。
- ナチスは共産党を非合法化し、その最良の部分を抹殺しようとして、赤色テロの脅威を書きたてている。
一方労働者の組織は相互不信と非難におちいっていて、ナチスの意思はゆっくりとすすんでいる。
- ナチスの思想は驚くほどの伝播力をもっている。とくに共産党のなかに。
ナショナリズム、排外主義について、とうに民衆と左翼反動はナチスの土俵にはいってしまっている。・・
(吉本隆明著「 甦るヴェイユ」より要約抜粋)--
* このヴェイユの目をとおした吉本氏の考察からもうかがえるが、
このときマスメディアはすでにナチスの番犬になっている。
まあ、マスメディアはいずこもおなじで、鼻の利くポチたちです。
ひるがえっていまの日本は事実上、労働者をまもるべき組織もすでに無くなったとみとめるほかないとすると、
まったく情況論的にはドイツ・ナチスよりも今の日本のほうが、
ナショナリズムと排外主義をあおって国民をとりこむことはもっとたやすいともかんがえられるが?、
いや、そうではないだろう。・・・
- ヒトラーの率いるナチスは、戦勝国の資本主義の圧迫で、こんなに苦しい目にあっているのだと、
ドイツ民衆の感情にあわせて国家主義的な宣伝をひろめていた。
ヴェイユがみたところでは、ナチズムはまとまった思想体系をもっているわけではなく、
どこを向いてもいいことずくめの宣伝をやって、両立できそうもない矛盾があっても、
一向に動じない雑炊のような政治運動とおもわれた。
しかしそれにもかかわらず、ナチスはドイツの民衆や労働者の現実感情をひきつける力は、
他のどの党派よりももっていたのだ。
ドイツの民衆は疲弊しきっていて、その場限りの感情の解放であってもよかったのだ。・・・
・・・そこにナチスは食い込んでいったのだ。 --
* このように、歴史的かつ現実的にドイツ国民は疲弊しきって無気力におちいっていたのであって、
それゆえにヒトラーのナチスには、
国民を全体主義の共同観念にいざなうべき情況がそろっていたといえる。
だがしかし、こんにちの日本はすでに、
日の丸ニッポン的共同観念を必要とする情況や時代ではないことだけはたしかである。
いくら見知った悪魔と結んだヒステリー症候群の連中が国民を煽動しようとしても、
それ自体になんの切実な国民的要求もなければ、すぐにも破綻することは自明である。
唯一、かれらの見返りとしてかんがえられるのは、
軍事部門の法的、装備的拡充であろう。・・・
ただここで、くりかえしつたえるとすれば、
わたしたちは、まちがっても 、< 国家 > に収斂していくような『共同意識』(ナショナリズム)に、
まさに < 個 > の自由度を抑圧するような 『ナショナリズム』 にひきこまれない、
のほほんとして拒絶できる国民大衆として、いまこそ
「個の尊厳と自由」をひとりひとりの胸にかかげられなければならない!
ということです。・・・
もとより残念ながらというか、幸いにもというべきか、竜馬のハシズムや、桃太郎のエセナショナリストごときが、
じぶんたちよりもっとまともな国民の多くを
煽動する能力も、エネルギーももちあわせてはいない。
なぜなら、野党総裁選で東日本大震災の被災者について何も触れなかった人が
党首となるような人でなしの集まりだから。・・・
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