心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

中村うさぎ 孤高のナルシズムから過剰のナルシズムへ

2008-05-19 17:08:23 | 中村うさぎの女という病
ずいぶん永らく 中村うさぎさんについての論考を放ってきました。

(「べつに!頼んでもいないし!」とうさぎさんからシカトされそうですが・・)

まあまあ、けったいなカウンセラーがまたぞろ這い出してきたとお思いください。

どうも作家さんと違ってわたしには誰も原稿催促しないのでー、

のんびりゆったりとなってしまっています。

オマケにホームページではすでに第三話のあと、

第四話、第五話とつづけて執筆してあるのにもかかわらず

いままでブログの方には転載しないまま。

我ながらあきれたひとです。


そろそろ中村うさぎさんも新たな展開を見せるころかなとおもい

ようやく重い腰(腰痛でんねん!)と軽いケツ(矛盾やろ!)をあげて

執筆準備にとりかかろうかというところです。


とりあえずその前に、第四話から転載しておきましょう。
.......................................................................
<第四話>”孤高のナルシズムから過剰のナルシズムへ!”

<登場人物及びキーワード・
・中村うさぎ、アダルトチルドレン、精神クリニック、癒し、神足祐司、林真理子、ブランド品> 敬称略

☆コテコテの買い物依存症を自認する中村うさぎがとうとう、

自宅から歩いて5分のところにある有名な精神クリニックに助けを求めた時のことが、

「うさぎの行き当たりばったり人生」に掲載されている。


うさぎさんによれば、

『 「グループセラピー」、さまざまな依存症の人々が集まり、

自分のコトを語るというモノだ。・・

世の中には見ず知らずの他人にも自分の話を聞いてもらいたいって人がいるようで、


「グループセラピー」はまさにそんな人々の独壇場なのであった。・・(中略)

んもう、皆さん、語る、語る。そしてまた、聞いてる人々が泣く、泣く。・・(中略)


私はたちまち、辟易としてしまいましたよ。


「これって、私に向いてない・・」という思いが日に日に強まって、

結局は通院を中止するコトとなった。・・(中略)


悪いけど、ハッキリ言って、ウザい集団だ。


彼らは自分の苦悩が「アダルトチルドレン」というレッテルを貼ってもらうや、

俄然、張り切って「私の物語」を語り始める。


それは被害者意識と自己陶酔と奇妙な優越感(私がこんなに傷ついているのは

私の感受性が繊細だからなの、ってな感じ)に裏打ちされた、

とてつもなくナルシスティックな物語であり・・・』


・・イヤまあ、グループセラピーによっぽどコリゴリしたようですなあ、うさぎさん。・・


中村うさぎの話の内容どおりだとすれば、


精神クリニックのグループセラピーなるものからは、

じつに古めかしい臨床心理学の臭いがただよってきます。

いったいどんな成果が意図されているのか心配になりますね。


どうもなんとも、心もとないかぎりで、

クライアントの精神の自立などは望むべくもないかとおもわれます。


中村うさぎさんは続けてこのように語っています。


『ACという言葉が広く人心を捉えたのも、やはり時代のせいであろう。


「癒されたい願望」の人々で充満している。そんなに生きるのが辛いのか?


だとしたら、現代の病巣は、そこにあるのではなかろうか。・・


何かもっと根源的な、疲労感であり虚しさなんだ。


生きるコト自体に何の達成感もないから、生きるコトに疲れちゃうんだよ。・・

「癒し」や「刺激」を求めるようになる。・・


砂漠の中で「生きる実感」を失ってしまった者が、

かりそめの「刺激」を求めて駆り立てられるような嗜癖に走り、依存症となる。・・・』・・・


例によって、半ば中村うさぎクン風の自己解釈が見られるにしても、

ずい分シャレた切れ味の論述になっています。

たしかに中村うさぎが言うように、


日に日に、時代というものの息苦しさが

我々を袋小路に追いやっているという閉塞感は、共通するものがあると思います。


また、それに加えて、老若男女を問わず、わたしたちは

すでに大概の「発見」や「達成」や「成功」の情報を吹き込まれていて、


現実の中では圧倒的な既視感覚(デジャブー)のために

何もかもが「陳腐」と化している。


そのような感覚を否応なく共有していることは、

やはり「さて個人の生き方」を考えたとき、キツいものがある。


時代の中で一人一人が埋没させられているという感覚は

誰しもぬぐえない現実と言えよう。


だがこのことと、嗜癖に走ることとはまた別のことだと考えなくてはならないのだ。

中村うさぎには、そこのところがどうもよく分かり難いようなのだ。


☆前回の第三話で、

中村うさぎのナルシズム・自己愛の「かたち」を、

「孤高のナルシズム」と美しく、あるいは美し過ぎる形容をしてみた。


その辺りから もそっと、押し入ってみようかとおもう。


その「孤高のナルシスト」中村うさぎは、だが「孤高」であることに耐え難く、


かといってアダルトチルドレンの自己憐憫者に対しては

近親憎悪を肌で感じるタイプゆえに、


エイッと、きびすを返して取った行動が、


買い物依存症をあらわす、ブランド品購買という行為であった。


そうするとこの場合、

「孤高」という看板をおろして、

「過剰・過大な」と言った方が適当になってくる。

(そういう訳で、早くも看板の掛け替えって、どーよっ。たのまれもしないのに。・・)

まっ、「等身大の自分を直視できない自己愛の病」って、

中村うさぎ自身も言ってることだし。(「三つ子の魂、百までも・・・」)


いきなり本当のことを言ってしまって何なんですが、

その「過剰・過大な」ナルシズム・自己愛というところが

中村うさぎの特徴的な心の構造であり、

言い換えれば、ナルシズムが「とてつもなく過剰」ゆえに、

病理的な逸脱に到っているわけであろう。


「うさぎの行きあたりばったり人生」の解説を書いている神足祐司氏のように、

『歴史にイフは禁物だと言いますが、

中村さんがもし太宰に見切りをつけず文学少女であり続けたなら、

林真理子になって、「今夜も思い出し笑い」していた可能性がある。』

といったふうに、

人間の越し方をとらえるやり方には、余り意味が無い。


そのうえに、

『三つ子の魂を忘れず、

40代半ばにしていまだ選ばれし者の陶酔感から抜けられず

買い物に依存するというのは、ある意味、

カブトガニにも匹敵する素晴らしい才能ではないかと思います。

中村うさぎがこの世にいてほんとうに良かった。

良き隣人は己の姿を映す鏡なり。』と締めくくられては、

中村うさぎがあまりに浮かばれない。


事の成り行きから、珍獣物書きか芸能タレントのように遇されて、

かつそれに乗っかって演じる羽目になっている今の自らの状況に対して、

「こんなはずじゃなかった!」というのが中村うさぎの半ば本音であるはず。

時流の、今どきの物書きとしての生業(なりわい)の姿を背負わされているがゆえに、

なんとも因果な「中村うさぎの旅はまだまだ続く」とはいえ、

こんな風に締めくくられちゃったら、中村うさぎも辛かろう。


といって、わたしごときにこんな一文を書かれるのも

嫌には違いないだろうけど。・・・(すまんのう。)


と言いつつも、ここはなおもしつこく考察していきたいとおもう。・・


☆中村うさぎの自己愛が過剰な病理的逸脱を見せている所は、

彼女が何と言おうと、買い物依存症たるブランド品購買行動そのものにある。

ではいったいなぜ、それほどまでにブランド品に固執するのか?

あるいは固執できちゃうのか、だ。・・


うさぎさんは、嗜癖の人は「最初の恍惚が忘れられない」と言う。・・

もちろん依存症が常同症として繰り返し反復される理由は、

*「快感の刻印」=>

=>「過剰な買い物行動へ(=快感獲得のためにアクセル全開・踏み続けまくり)」=>

=>「現実破綻の兆候」=>

=>「そんな自己の否定嫌悪= 破綻の恐怖(予期不安)」=>

=>「恐怖を消すためにさらなる快感獲得行動(=現実破綻の強迫不安がますます高まって離れずに、ここでついに、より強力な破滅の陶酔感にすがりつく。)・・・」

という常同症の病理が形成されるところにある。


このような、ついには破滅的な陶酔に身を任せる心の動き方は、

そのひと個人の生育暦に潜在する、

根源的な「恐怖」と「心的な父親非在」が強いる、

「つよい退行意識」に引き寄せられる結果だと考えられる。


しかもそのうちに、

「快感感応度」は急低下して、ほとんど意味も価値も無くすなかで、

ただ行為そのものだけがなおもしばらくは何かを求めて繰り返される。


何かとは もはや「脱凡庸」などに置き換えることのできない

「欠如感」そのものでしかあるまい。

欠如・飢餓感こそが無価値な行動をくりかえさせる常同症の元凶である。


「たしか、ここには自分を恍惚にさせてくれるものがあったはずだ!」と、

ブランド品を手にしてみても、

もはやそれらは狸の小判のように、いまはただの枯れ葉にしか見えないわけなのだが。・・・


ここにはすこし、中村うさぎの「たそがれ」が映し出されているようにおもえる。

それはまた「症状」そのものでもある。


ここのところをカウンセリングの言葉で言えば、

「ひとつの甘美なイメージの終着点にさしかかって、

うつの病理が待ち受けている局面」である。


これに付け加えて、脳神経学で言うと、

大脳辺縁系でのドーパミンの過剰分泌状態(恍惚の昂奮状態)から、一転して、

ドーパミンの退潮、ノルアドレナリンの増多(抑うつ状態)への移行にあたる。


☆だが、それはそうとして、話を戻して考えてみようではないか。

つまりここでは、わたしは常同症そのものを問題にしようと考えているわけではない。

そうではなく、問題の核心は、

中村うさぎがブランド品を買うときの恍惚を語っていることそのものにある。

そこ(つまりブランド買い)には「脱凡庸」の意図があり、

「女からの評価」が得られると本気で語られているところだ。


しかし、賢明な読者は、そんなことに、

そんなブランド品に果たして「脱凡庸」に見合う価値があるだろうか?、

女たちからいったいどんな評価を得られるというのだろうか?、

と首をかしげるであろうとおもう。・・・

だが中村うさぎは本気なのだ。


うさぎさんのそんな解釈や理屈付けも、ここではあえてもう問わない。

なぜなら、問題にしなければならない点は、あくまでも、

ブランド品買いに本当に恍惚となった自分がいるということにある。

そこにこそ、中村うさぎの本質的な問題が示されているとわかることだ。


さらに買い物が繰り返されていくうちに、


ある日、ブランド品を実際に身に着けた自分をよくよく見ると、

恍惚とした美化された自己イメージとは違った

等身大の自分が鏡から自分を見つめていることに気が付くわけだ。

そこには、「うーむ、この顔がアカンのや!」と考える中村うさぎがいる。・・・

これがナルシー中村うさぎの「本質的なものの考え方(=性格)」である。

また、彼女の本質的な欲望のあり様でもある。・・


それではこのあと次回で

中村うさぎの美化された自己イメージの中身と、

生育歴をベースにした性格(=ものの考え方)について、

彼女の著述から、さらに追い求め、明らかにしていきたいとおもいます。
......................... ....................... .................... ...................

今回も、最後までお読みくださってありがとうございました。





コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。