心理カウンセラーの眼!

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飯島愛の死に至る時代性について(続)

2009-02-10 19:03:00 | 飯島愛の死に至る時代性
飯島愛の「PLATONIC SEX」のプロローグには

男に去られたことに堪えられず

悶々とする日々の中でなぜだか唐突に、「自分の内面を覗いてみたい」として

手記を「紡いでみよう」と述べられている。・・

どうもこの辺の無理筋感が虚実の虚の部分だろうが、まあそれはいいとしよう。

わたしが捉えたいのはこの本の虚実の向こうに透けて現れる

「生き難さ」の所以(ゆえん)と

それに編みこまれた「時代の影」というべきものだ。

ー 
彼女はそれが悪いとは言えない

「今日が愉しければいい」はずだった世代的特権を手離してまで

いったい「勇気を出して」何を伝えたかったのだろうか?・・

前回は「父親の抑圧的密着の負の影響」を

やや硬直に指摘したのですが

それを助長するためには「母親の加担」が

必要条件となることも言っておきましょう。


飯島愛も書いているように

「あなたのためだから」が母親の口癖で、

「私の育て方は間違っていない」と言っては目を吊り上げる毎日。

「恥ずかしい、みっともない」・・

ここで、両親が共に暮らしてきた「この時代の影」が

「理想の子ども像」「幻想としての良い子」をイメージさせ、

またそのイメージ像から「外れる」ことを極度に恐れるという

強迫的不安を抱え込ませてきたことを

今は誰も否定できえないだろう。

なぜなら、「がんばってるね」と決して言えない強迫的狭量や

他者から見て「過剰な躾」を

むしろ平然と、良かれと思って当事者が行える事自体が

個人の資質を超えた「時代の影響」、「時代性」という

大きな共同幻想の閉塞的制約と

疎外の結果の病理傾向とみなせる。・・

飯島愛の母親は幻想としての「理想の子ども」のイメージを引きづりつづけ

子どもの現実からどんどん遠ざかる「現実乖離」を起こし

事実上の「母親不在」と同義の「母子密着」という

日本の母親特有の異常な関係をつくった。・・

このことが飯島愛を後々まで「関係の不全」に追い詰めることになる。

「みっともない」という母親の言葉には世間体という古風な意味よりも

現実の我が子をどうにも受け入れたくない親の不満が表現されている。

すると親に反発するにもかかわらず子どもにも

親の不満が刷り込まれて、

「自尊像を壊された」コンプレックスを生み出して

人生の足枷を負わされて生きることになる。

(次回につづきます。)


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