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575、ブログ、はじめました。

575、ラフに、字余り等あり、自由きままな、不定期更新、575、ブログ、はじめました。

鴨ネギ?!新NISAで 9割の日本人は カモにされるだけ、、荻原博子氏「絶対、投資のアドバイスを受けてはいけない相手」とは?、、2025年3月26日(水)16時報道より、、

2025-04-01 00:00:23 | 日記

新NISA 9割の人 鴨葱に


 (この背景は、以下に
  記載して みます、、、)


 令和7年 2025年
3月31日(月)終値での
日経平均株価は 35,617.56円。
 対前日比で1,502.77安、
率では4.05%安もの
大暴落を喫してしまった。
 これは、新NISA ができた
2024年初来 第5位相当の
下落幅ワースト記録なのだという。

備忘録、、2025年3月26日(水)16時報道より、、校正あり


 投資で失敗しないためには
何に気をつければいいか?

経済ジャーナリストの
荻原博子氏は
「『投資教育』を
受けていない人が
ほとんどなのに、
不安に駆られて
 投 資 を始め、
 大 損 している
というのが 現 実 である。
なんとなく株を買ったり、
新NISAを始めたりしたら
 カ モ に されるだけだ」
という――。

※本稿は、荻原博子 氏
『65歳からは、
お金の心配をやめなさい』
(PHP研究所)の一部を
再編集したものです。


、、「投資をしないと
 豊かな生活を過ごせない」
 は 本当か?、、

 いま、日 本 では、
国 を あ げ て
「投資をしよう」の
大 合 唱 になっています。

「投資は儲かる」という話を
専門家から聞いたり、
「過去最高の株価」と
テレビで報じられたりしたら、
「投資」をしないと
損をするのではないかと、
不 安 になるのも
無理はないでしょう。

 け れ ど 私は、
必ずしも投資が儲かる
とは思っていません。

実際、私のまわりには
「投資さえしなければ、
明るい老後が
迎えられたのに……」と
悔 や む 人 が、
意外と 多 い からです。

 はっきり言って、
いまの相場は、
素人がラクに儲けられるような
環境では なくなっています。
しかも、皆さんが
「投 資 の 常 識」
として教え込まれていることが、
ま っ た く
通 用 し な く
なっているのです。

 ところが、
国をあげて「投資」を
勧めるものだから、
「国が言う『投資の常識』
に従えばいい」
という 風 潮
になっています。

私からすれば、
いまの「投資の常識」は、
そうとうおかしいのに。

「投資の常識」について
語る前に、皆さんに
知っておいてほしいことが
あります。

投 資 で 成 功 するには、

それなりの
「投 資 環 境」と
個人の
「投 資 セ ン ス」が
必 要 だということです。

 ではこれから、
「投資環境」と
「投資センス」という
2つの視点で、
いまのマーケットを
見ていきましょう。

、、「投資は 儲 か る」
 なんて言葉を
 信 用 しては
 ダ メ !、、

いまの経済環境で投資は
「ギ ャ ン ブ ル」に
なるだけ
投資が儲かるのは、
基本的に経済が
右肩上がりで伸びている
からです。その意味では、
現在の投資環境は
それとは ほど遠いものです。

ウクライナや中東で
続いている戦争の影響は、
株価や為替といった形で
私たちの身近に現れます。
そして、これから
世界で何が起きるのかは、誰も
予 測 で き な い。

こうした、
先の読めない世界情勢のなかで、
金融商品にお金を投じるのは、
「投資」 で は な く
ギ ャ ン ブ ル
そのものです。

世 界 情 勢 が
不 透 明 化
しているだけでなく、
国 内 に目を向けても、
景 気 は けっして
安定しているとは言えません。

その大きな要因
となっているのが、
「アベノミクス」の負の遺産
とも言える
「格差拡大」と「円安」です。

2013年に
当時の安倍晋三首相が掲げた
経済政策、アベノミクスは当初、「異次元の金融緩和のもと
大企業が潤えば、
その雫は、
中小零細企業や
一般のご家庭にも滴り落ち、
みんなを豊かにする」
と大宣伝していました。
いわゆる、
ト リ ク ル
 ダ ウ ン 理 論 です。

そして
アベノミクスで
大企業は大儲けし、
2023年度末までに
企業の貯金にあたる
内 部 留 保 を
600兆円以上
貯 め 込 み ました。

その結果、
この儲けが雫となって
滴 り 落 ちることは
あ り ま せ んでした。
給料は上がらず、
給料から物価上昇分を
差し引いた
実質賃金は
下がり続けました。

しかも、当初は
「全国津々浦々まで、
景気回復を実感してもらう」
などと言っていた安倍首相自ら
「ア ベ ノ ミ ク スで
ト リ ク ル
ダ ウ ン は
起 き な い 」
と 言 い 出 す 始末。

 そのため、
富めるものと貧しいものの
貧富の差は広がり、
目指した豊かさとは正反対に、
モノは潤沢にあっても、
思うように買えなくなり、
個 人 消 費 は
低 迷 し続けました。

、、「アベノミクス」の
 あまりに大きな副作用で
 円安に、、

アベノミクスは、
「金融」「財政」「成長」の
三本の柱で
推し進められるはずでした。

けれども、
「財政」は途中で消え、
「成長」は、
戦略がないまま実行されず、

結局
「金融」の一本足打法となり、
なんとか景気を維持するために、

日銀が
大量の国債を買い上げる
大規模金融緩和を
10年以上続けていたのです。

 一方、コロナ禍で
景気を底支えするために
金融緩和で
金利を低くしてきた海外の
先進国も、
コロナ禍が収束して
景気が
再び上向きになったのを見て、
軒並み金利を上げました。

それなのに日本だけは、
あまりに長くゼロ金利
(途中からマイナス金利)を
続けたために、
物価が上昇したら
金利を上げて抑えるという
普通の国が行なっている政策が
打てなくなってしまいました。

長期間続いた
アベノミクスの副作用が
あまりに大きかったのです。

海外は金利を上げるのに、
日本では金利が上げられない。
そうなると、
海外との金利差が開きますから、
円が売られて
ドルが買われる
「円安」が進んでしまったのです。

お金は
金利の低いところから
高いところに流れますから、
金利の低い円が売られて、
金利の高いドルが買われ、
円安になるのは
当然のことなのです。

、、不透明極まりない
 経済環境で
 投資は危険すぎる、、

実際、
アベノミクスが始まった頃
(2013年6月)の為替相場は、
1ドル=100円前後でした。
ですから、
海外からさまざまなものを
安く買えたのですが、
これが2024年4月末には
1ドル=160円を超えました。

わかりやすく言えば、
100円で輸入できた品物が
160円になったのですから、
それが価格に反映され、
消費者が
「モ ノ の 値 段 が
上 が っ た 」と
悲 鳴 を上げるのは
もっともです。

日銀の黒田東彦前総裁が
アベノミクスを
やりっぱなしのまま退陣し、
その後始末を
することになったのが
植田和男総裁ですが、
10年間も続いた
「金利のない状況」を
是正するのは難しかった。

2024年7月末に
金利を0.25%引き上げると決定、
8月5日には
4400円以上も
株 価 が 暴 落 する
という状況になり
(翌6日には3200円以上上昇)、
行き着く先が見えません。

不透明極まりない経済環境で
投 資 するなんて
危 険 す ぎ る。
私には、
到底理解できない行動なのです。

、、「格差拡大」「円安」の
 不透明な経済環境で、
 投資に手を出すのは危険!
 日本で「投資教育」を
 受けた人は、わずか7%、、

これまで述べた
不透明な経済環境に加えて、
「投資教育」を
受けていない人までが、
不安に駆られて投資を始め、
大損している
というのが現実です。

実際、投資の何たるかを
知らないまま、
なんとなく株を買ったり、
新NISAを
始めたりしている人が
あまりにも多いのです。
その原因は、
国として「投資教育」に
力を入れてこなかったことです。



 それどころか、
30年くらい前までは、
「投資などせずに、
堅実に貯金しろ」というのが、
国の方針になっていました。

50年前には、夫が
「給料の一部で株を買う」
と言うだけで、
奥さんが泣き崩れ、
親戚縁者から
「どこでどう
道を踏み外してしまったのか」
と咎められるほど。
投資などする人は、
「道楽者で、おかしな人だ」
と白い目で見られていたのです。

そんな状況でしたから、
「投資」になど
ほとんどの人が
関心を持っていなかったのです。

結果、金融広報中央委員会が
約3万人を対象に実施した
「金融リテラシー調査
2022年」では
「『金 融 教 育を受けた』
と認識している人」の割合は、
日 本 では
7 . 9 % とじつに少ない。

もちろん、
証券会社などの金融機関に
勤めていて、
「投資」の何たるかを学び、
その知識を活かして
老後の資産を増やそう
という人は別です。

けれど、大多数の人は、
「投資」のリスクも
教えられずに、
儲かりそうだという
雰囲気だけで
「投資」をしようと思い、
金融機関の窓口で
ファイナンシャルプランナーから
勧められるがまま
商品を買っているという状況は、
いまも昔も変わらないようです。

、、、かつては「株屋」と
 呼ばれていた証券会社、、、

 いま70歳以上の方は、
子どもの頃を
思い起こしてみてください。

私もそうでしたが、
両親から
口が酸っぱくなるくらい
「投資より貯金しなさい」と
言われてきませんでしたか?

 なぜなら、
戦前・戦後に生まれた世代は、
現在では考えられないような
徹底した「貯蓄教育」のなかで
育ってきているからです。

 戦争中は、
戦費をまかなうために
「愛国貯金」を、戦後は、
復興のための貯蓄教育が
徹底して進められてきました。

そのため、投資について
学んだことがないばかりか、
投資はギャンブル、
まともな大人の
やることではないと、
常識として
叩き込まれてきたのです。

また 証 券 会 社 も、
戦前・戦後は
「株 屋」と呼ばれ、
「ば く ち 打 ち」
という イ メ ー ジ が
あったのです。

いまでは考えられませんが、
投資も勧めず、
投資商品も売らない、
お役所のように
お堅い印象の銀行員と比べて、
証券会社は
社会的に一段低く
見られていました。

「銀行だったら間違いない」は
大間違い
いまは、銀行を役所と
同一のように語ると
違和感を覚える若い方も
いるかもしれません。

 しかし、
金融の自由化が進む
2000年前後までは、
銀行は「大蔵省出張所」として
大蔵省の支店のような役割を
果たしていました。
どの銀行も
大蔵省がつくった
住宅ローンや預金サービスを、
同じ金利、同じ期間、
同じ条件で扱っていました。


これが自由化され、
各銀行が独自につくった
住宅ローンなどを
売れるようになったのは
25年ほど前からです。
いまや銀行も
投資商品や保険を売るのが
当たり前の時代に
なっていますから、
隔 世 の 感 があります。

いまの高齢者は、
まだ銀行が
大蔵省出張所だった時代に
預金したり
ローンを借りたりしている人が
多いので、
「銀行だったら間違いない」
と思っている人が多いですが、
それは大間違いなのです。

お金を取り巻く環境は
どんどん変わってきているのに、
昔と変わらない感覚で
金融機関に相談したら、
簡単にカモにされます。

そんな世の中に
ついていけないと思った人は、
無理をしてはいけません。
あなたは、投資に手を出す
必要はないのです。


投資教育を受けていない
あなたは、
い い カ モ に
されますよ!


荻原 博子(おぎわら・ひろこ)氏
経済ジャーナリスト
1954年、長野県生まれ。
経済ジャーナリストとして
新聞・雑誌などに執筆するほか、
テレビ・ラジオの
コメンテーターとして
幅広く活躍。
難しい経済と
複雑なお金の仕組みを
生活に即した身近な視点から
わかりやすく解説することで
定評がある。
「中流以上でも破綻する
危ない家計」に
警鐘を鳴らした著書
『隠れ貧困』(朝日新書)は
ベストセラーに。
『知らないと一生バカを見る
マイナカードの大問題』
(宝島社新書)、
『5キロ痩せたら100万円』
『65歳からは
お金の心配をやめなさい』
(ともにPHP新書)、
『年金だけで十分暮らせます』(PHP文庫)など著書多数。

、、以上、、2025年3月26日(水)16時報道より、、こ

再掲載

 新NISA
  9割の人
   鴨葱に



大炎上!ストリートピアノ運営団体公式Xアカウント「ストリートピアノ演奏者の方へ」のお願いごと内容に対し、ネット上、大炎上、、2025年3月24日(月)&25日(火)報道より、、

2025-03-27 15:21:35 | 日記
なんのため?
 ストリートピアノ
  オイタのよ?


 (この背景は、以下に
  記載しました、、)
如何お考えになりますか?
 コメント欄に、御意見どうぞ


2025年3月25日(火)6時41分報道
と、同年3月24日(水)23時10分報道
との合体記事より(校正あり)


 大阪市住之江区の
大型商業施設
ATCシーサイドテラス内にある
ストリートピアノの
公式X
「南港ストリートピアノ」

のアカウントは、
「ストリートピアノ
演奏者の方へ」と題した書面を
アップした上で


以下のように投稿した。


「【お願いです】
練習は家でしてください。
この南港ストリートピアノは
フードコートの中にあります。
つっかえてばかりの演奏に
多くのクレームが入っており、

このままだと
このピアノを撤収せざるを
得ない状況です」

と記述。

続けて

「練習は家でしてください。
練習を重ねて
つっかえずに弾けるように
なってから、
ここで発表して頂けたら幸いです。

誰かに届いてこそ『音楽』です。

手前よがりな演奏は
『苦音』です。

南港ストリートピアノ運営者より」

とつづり、
ネット上で大炎上している。

、、、、、、
  記事途中ですが、
  みなさまは
 如何お考えになりますか?
 コメント欄に、御意見どうぞ

、、、合体記事つづき、、、


 この件をめぐり、
伝説のロックバンド
「BOØWY」のドラマー
として知られる
高橋まこと(71)が

「苦音などと言うのなら
街角ピアノ等置く必要はない!! こうして
愛のある音楽が減って行く!!」
と怒りの絵文字を添えて
投稿していた。


高橋の思いを伝える記事を
引用したのは
ホリエモンこと
実業家の堀江貴文氏(52)。
2025年3月25日までに
X(旧ツイッター)を更新。

堀江氏は「激しく同意」

とだけつづり、
たった5文字で反応した。


堀江氏の投稿に対しては

「激しすぎる同意。。。
そんな事言って
誰かを傷つけるぐらいなら
おかないでよぉぉぉぉ」

「ホンマそれ」

「聴かせるための
ストリートピアノなら
プロ雇って弾かせてれば良い。
誰でも自由に音楽ピアノに
触れる場所であるべき」

「いいこと言う まさかの
まこっちゃんと堀江さんの
コラボにも涙」

などと書き込まれていた。


 さらに、
2025年3月24日23時10分報道記事
GACKT、ストリートピアノ騒動に「苦音か…笑」「表現する人とそれを見守る人。お互いが…」


GACKTのXから
ミュージシャンGACKT(51)が
3月24日、X(旧ツイッター)を
更新。
大阪市住之江区の
大型商業施設
ATCシーサイドテラス内にある
ストリートピアノの公式X
「南港ストリートピアノ」が
行った投稿が
物議を醸していることについて
言及した。


GACKTは
「手前よがりな演奏は
苦音か…笑
 確かに、そう聞こえてしまう
瞬間もあるかもしれない。

でもこれは、
弾く側と聴く側、
どちらにもリスペクトがあれば
乗り越えられる問題だと思う」
と書き出した。

続けて
「最初から上手く弾ける人
なんていない。
誰もが不器用で拙い一歩から
始まり、
練習を重ねながら
少しずつ前に進んでいく。
未熟さを笑ってしまったら、
成長の芽は
そこで止まってしまう」
と記述した上で

「それに、どんなプロだって
ミスタッチはする。
完璧じゃないからこそ
伝わるものがあり、
不完全さこそが
音楽の良さでもある」
とした。

そして
「もちろん、展示されている
ピアノの音が
不意に耳に入ってくる人たちに
とっては、
突然のつたない演奏が
快く感じられないことも
あるかもしれない。

だからこそ、
弾く側には
『聴こえてくる人たちへの
配慮』が必要だし、
聴く側にも
『誰かが今、
勇気を出して音を出している』
という事実への敬意が
あってほしい」
とつづった。

さらに
「音楽は、
技術だけで成立している
わけじゃない。
誰かが何かを伝えたい
という気持ちと、
それを受け止めようとする心
があって、
初めて響くものになる。
聞いてくれる人を
どんな気持ちにしたくて
弾くのかを
演奏者は常に考えるべきだ
と思う」

とした上で
「表現する人と、
それを見守る人。
お互いが
気持ちの良い場所になると
いいよな」

と締めくくった。


、、、、合体記事以上、、
、、、校正あり、、、、
 記事あたまの写真は、
毎年甘い甘い実を結構つけて
楽しませてくれる
庭のサクランボの木の、桜?花、、
 なんと、もう散り始めています、、

 私も、完全自己流な
ピアノなんですが
いい加減な即興の
思い付き伴奏つけて、唄いたい曲
ピアノとカラオケごっちゃにして
うちで楽しんでま~す、、下手くそ!!

再掲載

 みなさまは
如何お考えになりますか?
コメント欄に、御意見どうぞ

私の見解は↓
再掲載

なんのため?
 ストリートピアノ
  オイタのよ?

金(ゴールド)価格が“史上最高値”1万6000円超…“砂金取り”ツアーに親子で参加も “トランプ関税”など世界経済の雲行きが価格左右の要因に、、2025年3月21日(金)17時15分報道より、、

2025-03-23 12:27:13 | 日記
恐慌か? 資産で金を 買う心理
 
 
 (この背景は、以下に
  記載してみました、、)
 
 
、、備忘録、、令和7年、2025年
3月21日(金)17時15分報道より、、
(記事校正あり、、)
 
 
 金(ゴールド)の価格が
1万6000円を超え、
2025年3月19日(水)には
史上最高値を更新。
2024年2月より約6000円上昇し、都内の買取店には
指輪などを売る人が増加している。
 
新潟・佐渡では、
砂金取り体験が人気となっている。
金の価格は、
世界情勢の不安から、
さらに値上がりする可能性も
高いという。
 
 
“砂金取り”ツア
増える買取需要で
コストコでも金を販売
金の価格の高騰が止まらない。
ついに1万6000円を超え、
史上最高値を更新した。
金にまつわるビジネスも
活発になり、
ついに砂金取りまで現れたという。
 
金の価格は、昨年 令和6年
2024年の2月と比較して
6000円以上値上がりし、
2025年3月19日(水)には
史上最高値を更新した。
 
金は意外な場所でも
販売されている。
 
それは「圧倒的な大容量」と
「品揃え」が魅力のコストコだ。
 
実はHPで「金」を検索すると
金の延べ板やネックレスが
販売されている。
 
 
記者:
 
こちらJUNGOLDでは
金を手頃な価格で
購入することができます。
 
金を独自の技術で
コインやネックレスなどに加工、
販売する会社だ。
なんと、重さ0.1gの招き猫もある。
1円玉と比較すると、
その小ささがよくわかる。
価格は3980円だ。
 
JUNGOLD・石川正道代表:
 
たくさんの人に
金を買ってもらいたい。
買える価格帯にしたら、
どんどん
小さくなっていったんです。
「お子さんやお孫さんに
あげるんです」って。
ギフトとしても金はうれしい。
 
 
 約500種類の金のアイテムを
販売しているが、
特に女性人気が高いペンダントは
4年間で約6000万円の
売上げだという。
 
JUNGOLD・石川正道代表:
 
 すぐに売ると
うちの商品は換金性がないが、
何年後かを楽しみに
していただいて。
もしかしたら、
金相場がすごい金額に
上がったときに新しく換金したり、
新しい商品にしたり
という方が多いです。
 
 
 、、さらに、買うのではなく、
 自分の手で探す
 という人もいる。、
 
 
 、、“砂金取り”ツアーに
  親子で参加も、、
 
 かつて金の採掘が盛んだった
新潟・佐渡にある
佐渡西三川ゴールドパーク。
 
ここで行われているのは、
砂金探しツアーだ。
祝日ということもあり、
親子連れの姿が目立った。
 
ツアー参加者は
「一粒採れればね。
ゼロよりいいね。満足です」
「楽しかったです。すごく。
でかいの(砂金)を採って、
嬉しかったです。」
と満足げに話していた。
 
金価格は
世界経済の雲行きが大きく影響
金の価格高騰が続く中、
訪れる客の表情にも
変化があるという。
 
(株)佐渡西三川ゴールドパーク・
常木拓也さん:
 
今日も砂金取りに来ている
お客さまが来ましたが、
以前と違う部分は
お客さまの集中力が変わっている。
一言も喋らず、
黙々と砂金を採る方が
増えています。
 
 
、、金の価格高騰は
 いつまで続くのか。、、
 
フジテレビ・
 智田裕一解説副委員長:
 
 今後、金が高値をつけ続けるか
どうかは、
世界経済の雲行きが
大きく左右しそうです。
 
トランプ大統領による
関税強化のほか、
ウクライナや中東情勢が
どうなるかも、
先行きが不透明な部分が多く、
景気は悪くなる方向に向かうと
判断されれば、
「資産を金で持っておこう」
という投資家心理が
さらに強まり、
金の価格の押し上げが
当面続く要因になる可能性が
あります。
 
価格の高騰が予想される金に
今後も注目だ、、、
 
、、、、、
 
最新の地金 ゴールド価格の例
 田中貴金属の場合、
同社サイトより当記事公開日時の
最新情報 例 引用
 
 

地金価格 2025年03月21日 
09:30公表(日本時間)

日中に価格を変更する場合が
あります。
最新の価格こちら

金 (ゴールド)

店頭小売価格(税込)
(小売価格前日比)
 16,078 円(+20 円)

店頭買取価格(税込)
(買取価格前日比)
 15,909 円(+20 円)

※店頭小売価格・店頭買取価格は
1gあたりの価格です。
売買別途手数料および
その他手数料は含まれていません。
※小売価格と買取価格の幅
(スプレッド)は
市場の変化によって
変更する場合があります。
※前日比は、土日・祝日を除く
前営業日の9:30の価格と
比較して算出しています。

 

うわア、、(@ ̄□ ̄@;)!!

ずゥ~っとずゥ~っと前から

上がり続けていたのは

知ってはいたけれてど、、も、、

 いつの間に?、、なにコレぇ?

  たッカッ(高)、、、(笑)

 ゴールドラッシュアワー、、汗汗?!

 

再掲載
 
 恐慌か?
  資産で金を
   買う心理

約120年間「伝統の始発駅」遂に消滅!?「北の玄関口」。常磐線特急始発駅から途中駅へ。大ヒット曲の舞台♪「津軽海峡冬景色」♪「あゝ上野駅」♪、、2025年3月14日(金)他報道より、、

2025-03-16 21:50:40 | 日記
上野駅 未来へ紡ぐ 始発駅
 
 ( この背景は、以下に
  掲載致しました、、)
 
 時は流れ、時代は代わり、、
 
 備忘録、、報道2025年3月14日(金)及び2023年6月21日報道記事合体校正、、
 
2025年春のダイヤ改正で、
常磐線特急で67年間続いた
「伝統の始発駅」消滅!?
上野駅発着最期の特急始発駅の牙城消滅
 
全路線で
特急列車途中駅になってしまった
 「北の玄関口」 上野駅の 存在感
 
 
 JR東日本は、
2025年3月15日に実施のダイヤ改正で、
常磐線定期特急列車の始発駅を、
上野駅から
品川駅に統一します! と発表!
 
、、常磐線特急「ひたち」、、
 
 上野駅は
 
「北の玄関口」として知られる
東京の駅で、
 
東北や信越、
上信越方面からの鉄道が
東京に到着する始発駅終着駅。
 
 その北の玄関口で、
遂に、特急始発駅として最期の牙城、
常磐線特急「ひたち」も、
始発駅から途中駅へ!
 
 上野駅から茨城県水戸駅、
東北地方は福島県内海岸側を通り、
宮城県岩沼市岩沼まで。更に
東北本線経由直通で、宮城県
仙台駅までを結ぶ常磐線。
 
その常磐線を走る特急列車
「ひたち」「ときわ」は、
 
2015年3月の
「上野東京ライン」開業で、
品川駅を発着する列車が登場。
 
これは年を追うごとに増え、
2024年3月改正ダイヤにおける
「ひたち」「ときわ」は、
殆どが品川駅発着に。
 
上野駅発着で残る定期列車は、
朝の「ときわ」53・54号の
1往復のみとなる。
 
この最後の1往復も、
今回2025年3月のダイヤ改正で
品川駅発着となり、
 
遂に、通常ダイヤでは伝統的な始発駅、
 
「上 野 駅 始 発 の・
 
上 野 駅 行 き の
 
 常 磐 線 特 急」は
 
完 全 消 滅。
 
 
 特急列車としての「ひたち」は、
1969年 (昭和44年) に
上野~平(たいら、
現:いわき駅)間で 運転を開始。
一時期は一部列車が
東京駅に乗り入れていたことも
あったが、
 
基本的に上野東京ラインの開業まで、
上野駅始発。
 
 また、常磐線経由の特急列車は、
上野~青森間を結ぶ「はつかり」が、
1958 (昭和34) 年から
1968 (昭和43) 年まで
常磐線経由で運転。
 
加えて、寝台特急としては、
同区間の「ゆうづる」が
1965 (昭和40) 年登場。
 
これらを含めると、
上野駅始発・終着の特急は
67年前に登場。
 
 
 急行列車(通常利用できる列車に
限る)迄含めれば、
 
上野駅始発・終着の優等列車は、
1947 (昭和22) 年に登場した
上野~青森間の急行列車、
第207・208列車まで遡る。
 
更に、戦時中は
常磐線経由の急行列車は
消滅していたが、
 
戦前まで歴史を辿ると、
1906年に登場した 上野~青森間の
第801・802列車がその始まり。
 
なんと 1 1 9 年 前 に
 
上 野 駅 始 発 ・ 終 着
 
の 優 等 列 車 が
存在していた。
 
 
運転開始年 列車名
    当初の運転区間  備考 の順に、、
 
上野駅を始発・終着駅とした、
常磐線経由の主な
急行・特急列車まとめ。
この他急行「ときわ」「もりおか」等、
様々な列車が存在。
 
1906年
 急行(愛称なし、
   801・802列車)
    上野~青森間    
 
1946年 (昭和21年)
 Yankee Limited    
  上野~青森間
   進駐軍専用列車
  後に横浜始発に変更
 
1947年 (昭和22年)
 急行(愛称なし、207・208列車)
  上野~青森間
 1948年に201・202列車に変更
 
1950年 (昭和25年)
 急行「みちのく」
  上野~青森間
 201・202列車に愛称付与
 
1958年 (昭和33年)
 特急「はつかり」
  上野~青森間
 1968年に東北本線経由に変更
 
1965年 (昭和40年)
 特急「ゆうづる」
  上野~青森間
   寝台特急
 
1969年 (昭和44年)
 特急「ひたち」
  上野~青森間
 1973年まで一部は東京駅行き
 
1989年 (平成元年)
 特急「スーパーひたち」
  上野~平間
   後に仙台駅発着も
 
1997年 (平成 9年)
 特急「フレッシュひたち」
  上野~勝田間
 後にいわき駅発着も
 
2015年 (平成17年)
 特急「ときわ」
  品川・上野~いわき間
 2025年現在は高萩駅(茨城県)迄
 
 なお、上野駅を
始発・終点とする特急列車が消滅は、
あくまでも定期列車に限る。
 
JR東日本水戸支社は、
ダイヤ改正の発表時、「臨時特急列車は
この限りではありません」と説明。
 
 実際、今年2025(令和7)年
春の臨時列車では、
ダイヤ改正以降も
上野駅を始発・終着駅とする
臨時「ときわ」の設定を発表。
 
毎日運転の列車ではないが、
今後も「上野駅始発の・
上野駅行きの常磐線特急」が
見られる機会はあるもよう。
、、、
 
上 野 駅 の歴史は現近代日本の歴史
 
 2023年(令和5年)、
上野駅は開業140年を迎えた。
日 本 鉄 道
(現在の東北本線や
常磐線などを開業した
明 治 時 代 の 私 鉄
の名称)の
ターミナル駅として誕生した
上 野 駅 は、
同 鉄 道 が 国 有 化
された後も 引き続き
タ ー ミ ナ ル 駅
の役割を担った。
 
1883年、日 本 鉄 道 が
上野駅―熊谷駅間を仮開業。
起点になった上野駅は
当 初 計 画 さ れ て
い な か っ た。
 
同鉄道の萌芽ともいえる計画を
最初に提案したのは
お 雇 い 外 国 人 の
ジョセフ・ユーリー・クロフォード。
 
クロフォードは路線調査の結果から
東京側の起点は小名木川
(現・東京都江東区)付近に定め、
千住(現在の鉄道駅では、常磐線ほか
多数のターミナル駅北千住駅)、
(埼玉県内)熊谷―深谷―本庄を経由し
(群馬県内)高崎や前橋を
目指すことを起案。
 
、、上野にターミナルを置いた
 理由は?、、
 
 クロフォード案は立ち消えたが、
 
政府首脳の 岩 倉 具 視 は、
 
華 族 に 呼 び か け て
日 本 鉄 道 を 設 立。
 
1881年に(埼玉県)川口付近から
建設を開始。
中途半端な位置から
建設が始まったのは、
用地買収が容易だった為。
 
 線路は川口から北へと
建設が進む一方、
東京側に開設するターミナル駅は
決まらずにいた。
 
日本鉄道の首脳は、
官営鉄道の新橋駅をターミナルに
上野を経て川口に至るルート案と、
 
新橋駅―横浜駅の間にある
品川駅から線路を分岐させて
川口に至るルートの2案を検討。
 
後者は
官営鉄道と接続する観点から
政府、特に後に鉄道の父と
呼ばれる工部省(現・国土交通省)の
鉄道局長だった井上勝から賛意を得た。
 
 しかし、後者のルートは
東京の西側を迂回するので
工期が長引くという欠点があり、
開業後も都心部までの所要時間が
長くなるというハンデを抱える。
 
 以上の理由から 日本鉄道首脳は
前者のルート案を修正し、
上 野 に
タ ー ミ ナ ル 駅を定めた。
 
 
 上 野 にターミナル駅を設置
することが決まり、
日本鉄道は急ピッチで
川口から南への線路建設を進めた。
 
 しかし、
工事着手が遅れた影響から
1883年の開業時駅舎完成は間に合わず、
荷物取扱所を仮駅舎として使用。
 
 仮駅舎ながらも、上 野 駅 には
10両編成の列車が停車できる程
長 い ホ ー ムが設けられた。
 
また、行き止まり式の線路
ではあったものの
線路に並行して駅舎が配置されたために
新橋駅方面へ延伸も可能な構造だった。
 
 上野駅の本駅舎は、
1885年に完成する。
設計した 三 村 周 は
工部省の技術者で、
後に独立して三村工場
(現・日本信号の前身の1つ)
という鉄道信号の製造工場を
立ち上げている。
 
三村は 鉄道技術者養成のため
開校された工技生養成所でも学び、
 
工部省でも鉄道技術者として活躍した
エ リ ー ト 官 僚 だった。
 
 官僚の身でありながら、三村は
日本鉄道という
私 鉄 に 出 向 して、
駅 舎 の デ ザ イ ン を
手がけた。
 
上野駅の本駅舎が
赤 レ ン ガ を用いた
洋 風 の デ ザ イ ンに
なったのは、
明 治 新 政 府 が
西 洋 化を急いでいたことの
影 響 を大きく受けている。
 
 当時は
服装から建築物に至る迄、西洋を模倣。
特に庁舎や駅舎、病院といった
公共性の強い巨大建築物は、
西 洋 的 な 外 観 が
求められた。
 
それは、多くの人が目にする建物を
西洋風で造ることで、
日 本 が
 世 界 の 一 等 国
になったと
国 際 的 に ア ピ ー ル
できるという 理 由 だった。
 
そのため、三村も
政 府 の 意 向 をくんで
上 野 駅 舎 を
洋 風 の レ ン ガ 造 で
デザイン。
 
 
 国の手厚い保護を受けた
日 本 鉄 道 上 野 駅 は
寛 永 寺 の 境 内 地 に立地。
 
これは 政 府 が
寛 永 寺 の一画を
官 有 地 として所有し、更に
隣接する区議会議事堂跡地と
小学校跡地も
駅用地として提供された為。
 
上 野 駅 の 設 計 に
優 秀 な 官 僚 が
派 遣 さ れ、
用地についても
便宜を受けていることからも、
 
日 本 鉄 道 が
政 府から 手 厚 い 保 護 を
受けていたことが伺える。
純 粋 な 私 鉄
 で は な く、
半 官 半 民 の
 鉄 道 会 社 と言われる所以。
 
(大日本国)政府からの手厚い保護は
日 本 鉄 道 にとって
大きなアドバンテージになる が、
 
一方で政府の指示に従わなければ
ならないという
ジ レ ン マ も
抱 え る ことになる。
 
 仮開業ながら上野に
ターミナル駅を構えた日本鉄道は、
都心進出を果たしたことに満足し、
 
政府と約束した
新橋駅―横浜駅の間にある
品川駅から線路を分岐させ
川口に至るルートの建設を
進 め な か っ た。
 
 日本鉄道に対し政府は
早急に同区間を建設するように要求。
 
特に、井上は同鉄道の豹変に
露骨に不快感を示した。
なぜなら、同鉄道が
官営鉄道と 接 続 しなければ、
鉄道の 物 資 輸 送
という 機 能を十分に果たすことが
で き な い から。
 
 実際、日本鉄道は政府から
上野駅ルート案の承認を得る際に、
開業後は速やかに
川口―品川間を結ぶルート案を
実現させるよう約束させられていた。
 
それを反故にしようとした日本鉄道に
井 上 が 不 快 感を示す
のは 当然だろう。
 
こうした経緯から、
同鉄道は1885年に
(東京都北区)赤羽駅から分岐する形で
品川駅を結ぶ路線を建設し
日本鉄道品川線と名付けられた。
 
 
 上野駅を経由せずに
横浜港へと貨物列車を
運行できる品川線が開業した為、
 
同駅を発着する貨物列車は
減少するように思われた。
 
 しかし、日本鉄道によって
北 関 東や東 北 地 方で
生産された 農 産 物 が
東 京 へ と 輸 送
されるようになったことで、
 
上 野 駅 は
 貨 物 拠 点として
盛 況 となる。
また、その農産品輸送が
北 関 東 ・東 北 地方の
農 業 振 興 に も繋がった。
 
貨 物で賑わうことは、
上 野 駅にとって
嬉しい悲鳴でもあった。
 
 何故なら、上野駅は
東京都心部台地下という
狭隘な場所に開設された。
 
そのため、駅前広場は
狭隘で貨物の受け渡しを待つ
運送業者が並ぶと
通 常 の 往 来 に
支 障 を き た し、
事 故 を 誘 発。
 
こうした問題を解消するべく、
日本鉄道は
上 野 駅 の
貨 物 機 能 の
 分 散 化 を計画。
1890年に貨物専用線を上野駅から
秋葉原貨物取扱所
(現・秋葉原駅)迄延伸。
 
この専用線が供用を開始したことで、
上 野 駅 の 貨 客 は
分 離 された。
 
、、「北の玄関口」として発展、、
 
 貨 物 機 能 を 喪 失した
上 野 駅 だったが、
 
北関東・東北地方に
路線網を広げた日本鉄道の
ターミナルということもあり、
 
旅 客 需 要 は
年を経るごとに増え、それに伴い
サ ー ビ ス も 充 実 した。
 
 1898年、駅構内
旅客手荷物運搬人を配置。
運搬人は目印として
赤い帽子を着用したことから
赤 帽 の 愛 称 で親しまれる。
 
 さらに、1900年には
旅客需要の増加に対応するべく
旅 客 待 合 室 増設。
 
 上野駅が
北 の 玄 関 口 として
本 領 を 発 揮するのは、
大正時代、1923年に起きた
関 東 大 震 災 が
契 機 だった。
 
震災による火の手は
神田・日本橋・両国・深川
といった 下 町 を
焼 き 尽 く し た。
 
上 野 駅には
列 車 に乗って
北 へ と 避 難 しようとする
被 災 民 が 殺 到。
 
いち早く駅へと
逃げ込んだ被災民は列車に乗って
田端駅へと移動して難を逃れたが、
その後に迫った火の手により駅は焼失。
 
震 災 直 後 か ら、
東 京 の 鉄 道 は
機 能 不 全 に陥った。
 
上野駅から延びる路線の多くも
不通になったが、
 
赤羽駅―川口駅間の運転は早急に再開。
政 府 は地方へと疎開する
被 災 民 の 運 賃 を
無 料 にする 措 置 を
講じたため、
 
被災民の多くは
上野駅から(群馬県)高崎駅を目指した。
 
被災民が高崎駅を目指したのは、
信越本線・高崎線・上越南線が
交差する要衝だったから。
 
未曾有の大震災で、
とにかく逃げなければ
という不安を抱えていたことが
察せられる。
 
 
 上野駅は
翌 日 から始まった
震 災 救 護 においても
北関東・東北各県が配送する
支 援 物 資 の
 集 配 拠 点
になる等、その結びつきは強かった。
 
そして、震 災 によって
壊 滅 し た 上 野 駅 は、
駅 の 再 建 と同時に
大 改 良 に着手。
 
同時期に
 日 本 初 の 地 下 鉄、
東 京 地 下 鉄 道
(現・東京メトロ銀座線の一部)
が 浅 草 駅―上 野 駅間で
地下鉄の建設計画を
進められていたこともあり、
 
その影響を受けて上野駅の再建計画は
何度も練り直された。
駅舎再建計画では6階建という駅舎を
高層化する案も出たが、
震災後の緊縮財政から幻に終わる。
 
 最終的に、上野駅の改良は
隣接していた操車場を尾久へ、
機関庫の一部を田端へと
移すことで用地を捻出し、
 
さらに上野公園側の崖中腹に
線路を移設することで
高架線の貫通式ホームと
地上線の頭瑞式ホームが整備された。
 
新しい上野駅の完成により、
それまで地上線だった
上野駅―東京駅間は
高架線へと切り替えられた。
 
これにより
1925年から 山 手 線 が
環 状 運 転 を 開 始。
 
そのほか、
東北本線と東海道本線の直通運転
が検討された。
 
両線の乗り入れは
戦後に一部の列車で行われており、
 
その後2015年に
上野東京ラインとして実現するが、
 
当時は直通しても
需要がないという理由で進まなかった。
 
 、、集 団 就 職 や
 帰 省 客で賑わった戦後、、
 
 再建された上野駅は、
(第二次世界大戦)戦災では
駅舎の焼失を免れた。
 
駅 周 辺 は
 焼 け 野 原 になったが
駅 舎 は 無 事。
 
そのため 上 野 駅 は
 
戦地から故郷へと戻る
復 員 列 車 や
 
地方の疎開先から東京へと戻る
引 揚 列 車、
 
千葉や茨城といった
東京近郊の農家へ
食 糧 を 買 い 出 し
に行く人々、
 
逆に売りに来る
行 商 人 たちで
 
ご っ た 返 し た。
 
 
それは 上 野 の 街 に
賑 わ い をもたらすと同時に、
 
戦 災 孤 児 や
傷 痍 軍 人 が
集まる場所になっていった。
 
上野駅から御徒町駅の高架下には
闇 市 が生まれ、
それは歳月を経て
戦争が遠い時代の記憶になっても
形を変えながら
独 特 な 商 店 街 として
存 在 感 を 発 揮。
 
 現在でも 上 野 駅 の
広 小 路 口 は、
 ア メ 横 につながる
出入り口であることから往来が激しい。
 
 
 戦後の上野駅は
正月・盆といったシーズンに
帰省客が溢れる。
 
帰省客に応対するべく、
国鉄は1959年(昭和34年)から
駅前広場にテントを設営し、
旅客の安全を確保。
 
駅前広場では待ち時間に同郷者との
酒 盛 り が 始 ま り、
お 国 言 葉 が
飛 び 交 う といった
独 特 の 光 景 が広がった。
 
 高度成長期にさしかかると、上野駅は
集 団 就 職 列 車 で
上京する少年少女たちで溢れた。
 
集 団 就 職 列 車 は
上野駅だけの話ではなく、
東京駅・新宿駅、
更には大阪ほか大都市で運行されたが、
 
1964 (昭和39) 年に発売された
 
井 沢 八 郎
「 あ ゝ 上 野 駅 」が
大 ヒ ッ ト したことで、
 
上 野 駅 の イ メ ー ジ
が 特に強くなった。
 
 上野駅広小路口と
不忍口の間に建立されている
井沢八郎「あゝ上野駅」の
 歌 碑 と レ リ ー フも、
上野駅 にある。
 
こうした光景が
上野駅で見られた理由は、
上野駅から
北関東・信越・東北各地に向けて
特 急 列 車 が
多く運行されていたことに起因。
 
だが、上野駅に
東北・上越新幹線が乗り入れた
1985年(昭和60年)から、
少しずつ過去のものとなっていった。
 
上野駅発の特急列車や夜行列車が
歳 月 を 経 る ご と に
廃 止 されていったからだ。
 
 
 国鉄は当初、上 野 に
東北・上越新幹線の停車駅を
設置する意思はなく、
東京駅発着で計画を進めていた。
 地元・台東区は
上野駅の賑わいを喪失させない為に
新幹線停車の誘致活動をしていたが、
 
世間は
東京駅と上野駅という短い区間に
2つも新幹線駅はいらないと
冷ややかな反応だった。
 
国鉄が翻意して、
上野駅に新幹線を停車させる方針
にしたのは、
東京駅までの建設工事が
計 画 通 り に
進 ん で い な か っ た
ことが大きな 理 由 だった。
 
上野駅―東京駅の間にある
神田付近は二重高架になる為、
周 辺 住 民から
強 烈 な 反 対が起きていた。
 
国鉄は建設工事に
取りかかれずにいた為、
その影響を最小限に抑えるべく
上 野 駅 に
新 幹 線 を 停 車
させる 決 断 を下す。
 
、、遂に「途中駅」上野駅の今後は、、
 
 期せずして上野駅は
新幹線の始発駅となるが、
その恩恵は長く続かなかった。
 
上野駅発着だった新幹線は、
1991年に東京駅まで乗り入れた。
 
さらに2001年には、
湘南新宿ラインが運行を開始。
 
これにより東北本線・高崎線の
一部の列車が上野駅を
経 由 し な く なる。
 
 ダ メ 押 し となったのが、
2015年の
上 野 東 京 ラ イ ン
の開通だった。
 
 2015年には 寝台特急の「北斗星」、
翌年には「カシオペア」が
定期運行を終了。
これらも
上 野 駅 の 北の玄関口、
始 発 駅 としての
地 位 を 低 下させることに
つ な が っ て しまった。
 
 時代とともに、上 野 駅 は
 
 北 の 玄 関 口 としての
印 象 を 薄 く してきた。
 
 いまや
 
石 川 さ ゆ り が歌った
『津 軽 海 峡・冬 景 色』
に描かれた、あのかつての
上 野 駅 の 姿 は な い。
 
 しかし、他 方 で 近 年は
家族連れや訪日外国人観光客で
にぎわうようになり、
これまでとは
ひ と 味 違 っ た 活 気
にあふれている。
これが 現在の 上野駅の姿。
 
 2020年には上野公園に通じる
公園口駅舎がリニューアルされ、
細長いルーバーと呼ばれる
羽根板を多数使って
周辺の景観に溶け込むような
工夫が施された外装デザインに
生まれ変わった。この
 
上 野 駅 公 園 口 駅 舎。
 
同駅舎は 国 内 初 となる
意 匠 登 録 された
鉄 道 建 築 物 となる。
 
 上野駅は、今後ターミナルという
動線の力によることなく、
 
街 の 魅 力 で
人を呼び寄せることが求められる。
次の時代に向けて
新しい上野駅像の模索が続けられている
 
、、、以上合体報道記事校正、、
 
 昔々、特急など一切使わず
鈍行列車だけを使い、
いったい何処まで日本列島
わずか一日で行き
帰って来られるものなのか等
実際に体験してことがありました、、
時刻表抱え、乗り継ぎ列車待ち時間空き時間観光など色鉛筆で時刻表ボロボロになるまで書きこんだりして緻密計画、、
 
1日でも意外と遠くまでいけるもんなんだなあと
つくづく感心しました、、が
 
眠っているんだか起きているんだか
分からない白昼夢状態、完全フラフラになりました、、(笑)もう出来ないな!(笑)
 
再掲載
 
 上野駅
  未来へ紡ぐ
   始発駅

洋画家、立川広己氏  2 ~花の奇跡~ 瑞々しい花々の姿にイメージの充実を見る、、銀座個展2025年3月5日~3月15日開催中、、令和7年、2025年2月及び3月各社報道より、、

2025-03-09 01:42:47 | 日記
雪が舞う ひと足早く 春うらら


 ( この背景は、以下に
  記載致しました、、)

、、令和7年
 2025年2月、3月の
 各社報道記事より、、抜粋、、

、、瑞々しい花々の姿に
  イメージの充実を見る、、

 隔年ごとに、東京・銀座にて
開催され続けている、
洋画家、立川広己
(たちかわ ひろみ) 氏の 個展。

 近年は、大作発表の場を

かつて所属していた
自由美術協会から

主体展 に移した 立川氏。


 絵画のテーマも、

かつての トルソ から

戦禍にまみれ 崩壊した都市の
風景へと変え、

強い情感を
色彩とマチエールに込めた作品を
描いている、、


 個展においては、

一昨年は
心象的情景をテーマとしたが、

今展では
様々な花々の姿を描いた中小品が
多数展示される内容となる。


 マチエールと色彩が豊かで
力強く そして
しなやかに描かれた花々と
それを含む情景が、

瑞々しいエネルギーを
観る者に発信する。


 画業50年を過ぎ、ますます
そのイメージの充実を
感じさせる 立川作品の魅力が
存分に味わえる展覧会
となるだろう、、、


 個展開催期日
2025年3月5日~3月15日まで
ただし 日曜日は休廊

東京都中央区銀座6丁目6-1
3階
ギャラリー一枚の絵

最寄り駅 地下鉄 銀座駅B7出口
 入口は みゆき通り沿い


 立川広己氏今回の個展
出展作品 以下の一部作品が、
報道記事各社より、
写真掲載(報道)されました、、


花の回廊 油彩 P12号
        F4号

グラジオラス 油彩 F4号

白壁と藤 油彩 F4号


 なお、このブログ記事
タイトル掲載写真は、
上記の 一作品

花の回廊 油彩 F4号 です。

、、、

 洋画家、立川広己氏って、
どんな作品?どんな作風の
画家さん なの?

立川広己氏のウィキペディアから
一部引用


立川広己氏「作風」の 項より
「作風の概要」のみを以下に
引用してみます、、


 若き日より
佐伯祐三(さえきゆうぞう)の作品、
フォーヴィスムに憧れ

自由奔放に、また
豪放なタッチが織り成す
装飾的な世界を創り上げる。


 画廊やデパートにおいて
発表される作品には、

桜や薔薇・ミモザをはじめ
生花などを描いた作品群や、

縄文杉・古木や
富士山・石鎚山・奥日光・
奥入瀬・渓流など
国内風景を描いた作品群がある。

また、ヨーロッパの街並みや
自然風景を描いた作品群や、

自由な線を取り入れ
画面に動きを与えた
『Jazzシリーズ』などの
半抽象作品群、

更に、以上のモチーフを融合して
創作された独自の作風の作品群
等もある。


 一方、公募展である
「自由美術展」では、
人気画家としての
『立川広己画伯個展』への
出展作品とは
異なる側面から創作された
『立川広己の世界』観を公開する。

 これらの作風は、
対象物を見ることもなく、
自然の摂理など度外視して、
ただひたすら
作家自らの感性を頼りに
現代調の作品を
描き続けることにより、
創造される。

概して、どこまでも自由に、
その色の持つ発色を活かし、
迫力と動きを
追求することにより生まれる、
作家独特の作風の発現 
― 立川広己の世界
( 立川広己ワールド )


 画廊やデパートにおける
発表作品での作風

強いインパクトのある色彩と
大胆な躍動感あふれる構図で、
長年に渡り
洋画家・現代美術家、
専業画家として
安定的継続的人気を博し続ける。

、、以下つづく が、引用略、、、

 以上、引用したウィキペディア
一部分から、気になる点を
焦点がブレないよう
3点だけに絞り、
私見を述べてみます、、

すなわち、

1点目
画廊やデパートにおいて
発表される作品が「多彩」な点

2点目
 個展ではなく公募展の話ながら、

かつて出展していた公募展
「自由美術展」時代の出展作品と、
現在、公募展を「主体展」に
鞍替えした後の公募展出展作品は
変わったのだろうか??
公募展での『立川広己の世界』観
について気になった点

3点目
作家自らの感性を頼りに
現代調の作品を
描き続けることにより、
創造される、立川広己ワールド
は、個展でも炸裂
、、、

 まずは前提条件として
最初に述べておきたい、1点目

画廊やデパートにおいて
発表される作品が多彩な点
について、私見。


 立川広己氏の代表作として
多彩なジャンルから
以下が 挙げられます。

 うまく纏まっている
ウィキペディア別箇所を
見つけましたので、そこから引用
 立川広己氏ジャンルごとの
代表的作品たち、です。引用開始

(立川広己氏作品 多彩な絵画を
 ジャンルわけ、とその代表作品)


薔薇図
 「深紅の薔薇」「幸せの黄花」

花シリーズ
 「赤い盛花」「幸せのミモザ」
 「華宴」

抽象画
 「時の停止」

JAZZシリーズ (半抽象画)
 「JAZZ」「JAZZ の中の裸婦」

風景画
 「ピナイサーラの滝」

など。その他のジャンル、、
以上が引用。


 プロの画家さんたちの多くが
一つのジャンルで勝負をかける
のが一般的に思えるのですが、

立川広己氏は、上述の通り
「多彩」なジャンルを描き続ける
点が 特徴的に思えます。1点目。


 次に、2点目、つまり、
 「個展ではなく
公募展の話ながら、

かつて出展していた公募展
「自由美術展」時代の出展作品と、
現在、公募展を「主体展」に
鞍替えした後の公募展出展作品は
変わったのだろうか??

公募展での『立川広己の世界』観
について気になった点」
について、私見を述べてみます、、


 かつて 立川広己氏が所属され
出展し続けていた公募展
「自由美術展」時代には、

今回みたいな個展への出展作品とは
異なる側面から創作された
『立川広己の世界』観を
公開していた、

とのウィキペディア記載が
あります。

 その時代の立川氏は、どうやら
トルソ などをテーマにしていた
ことが多かったもように、
文脈からは読めます。


 ところが、です。

本記事冒頭、最新の
各社報道記事 を再掲載しますと、

以下再掲載開始、、


 「近年は、大作発表の場を

かつて所属していた
自由美術協会から

主体展 に移した 立川氏。


 絵画のテーマも、

かつての トルソ から

戦禍にまみれ 崩壊した都市の
風景へと変え、

強い情感を
色彩とマチエールに込めた作品を
描いている」、、


(再掲載終了)、、と書かれている
ではないですか、、(@ ̄□ ̄@;)!!?

言いたいことは、こういう事です。


 立川広己氏の
「主体展」 所属以降、
公募展出展作品が

(かつての出展) トルソから

戦禍にまみれ 崩壊した都市の
風景へ

力点を移したようにも解釈出来る
最近の各社報道記事の
書きっぷりだなァ~と

記事を読んだ感想を
私は持ちました、、

 と、すると、

立川氏のいわば一つのジャンル
みたいなものを形成している、
トルソ作品たちが 今後
現在所属の 主体展 でも
見られるのか 否か ??

 この点も、新たな注目点、だ

とも解釈できます。
以上が 私見2点目。


 最後に3点目、
「作家自らの感性を頼りに
現代調の作品を
描き続けることにより、
創造される、立川広己ワールド
は、個展でも炸裂」している点


 この点は、ウィキペディア記述が
分かりやすいように
私には思えます。
そこで該当部分を
ウィキペディアより再引用開始、、


「、、画廊やデパートにおける
 発表作品での作風、、

強いインパクトのある色彩と
大胆な躍動感あふれる構図で、
長年に渡り
洋画家・現代美術家、
専業画家として
安定的継続的人気を博し続ける。」

此処までウィキペディアより引用。

 失礼ながら私流に言わせて
頂けば、

立川広己氏の、
まるで 飛び出す絵本 みたいな
迫力満点な作風

ッて感じでしょうか、、
画廊やデパートでの個展では
雰囲気抜群でかつて作品現物を
実際この目で目の前に見たとき

照明、飾り付け方、など見事な
調和、雰囲気抜群でした、、

掲載公開されている作品の写真と
実際に見た作品、
全く別モノに感じられました、、

 やっぱり、芸術作品を
肉眼でみるのッて、
写真とは全然違うんだなあ
と感動に 圧倒されました、、、

芸術であるゆえんですね、、
畏れ入りました、、

今回個展一作品
「花の回廊 油彩 F4号」
の報道記事の写真を
冒頭掲載してみましましたが、

たぶん現物を見たら
写真とは全然違う、、わ、、、(@ ̄□ ̄@;)!!
コトバにならないけど、、
スゴ~くスゴ~く映えている、、
と感想抱くこと間違いない
と 即 想像できます、、

以上3点目、でした。


 立川広己氏 個展開催期日
2025年3月5日~3月15日まで
ただし 日曜日は休廊

東京都中央区銀座6丁目6-1
3階
ギャラリー一枚の絵

最寄り駅 地下鉄 銀座駅B7出口
 入口は みゆき通り沿い

、、、、お読みくださり
、、有難う御座います、、


再掲載

 雪が舞う
  ひと足早く
   春うらら