Mr.G 功績語録 ホームラン
またひとつ 昭和が遠く なりにけり
(この背景は、以下に
記載してみました、、↓)
長嶋さんについては
皆様の感心が非常に高く、
私575がお邪魔し拝見した
多くのブログでも
ひとつの題を起されて
多数の記事が見られました、、
そこで、私575なりな
このたびの
追悼、長嶋さんの記事に、
してみます、、↓
、、備忘録、令和7年、
2025年6月4日(水)9時17分報道
記事より、、校正あり、、
プロ野球の巨人の監督を
2期15年にわたって務めた
巨人軍終身名誉監督の
長嶋茂雄
(ながしま・しげお)さんが、
令和7年、
2025年6月3日(火)
午前6時39分、肺炎のため、
都内の病院で亡くなった。
89歳だった。
読売新聞グループ本社、
読売巨人軍、オフィスエヌが
連名で発表した。
<語録 で振り返る
ミスターの歴史>
◆昭和32年、
1957年11月3日
(立大時代、
最終戦の慶大戦で
新記録の8号本塁打を放ち)
「最後のチャンスを
生かすことができました。
今になって思いますね、
私はやはり
ラッキーボーイだった、と」
◆昭和32年、
1957年11月5日
(プロ入りを前に)
「卒業したら巨人に入りたい。
伝統に輝く巨人を慕っています」
◆昭和33年、
1958年4月5日
(プロ野球デビュー戦で
国鉄、金田に
4打席連続三振を喫し)
「ごらんの通りの
ありさまですよ。
今日は全然ダメでした」
◆昭和35年、1960年10月
(政治への関心を聞かれ)
「(新聞の)政治面?
ええ、ザッと
目を通しますよ。
世の中が
騒がしくなってから
読み始めました。
ただ、どうでしょう。
スポーツマンというのは
保守的ですからね。
社会党が政権を取ったら
野球、野球って
騒いでいられなくなる
んじゃないですか」
◆昭和36年、1961年3月
(米国ベロビーチキャンプ中に)
「アメリカの子供は
英語がうまいね」
◆昭和37年、
1963年10月6日
(わずか 5毛(もう)差で
首位打者をキープし)
「『毛』の争いなら
任せておいてよ。
何しろ僕は
胸毛に
自信あるから」
◆昭和39年、
1964年11月26日
(亜希子夫人との
婚約発表会見で)
「最初に会った時から
好きになりました。
恋なんて分からなかったが、
どういう気持ちになるのか
やっと分かりました」
◆昭和48年、
1973年10月9日
(川上監督から監督を打診され)
「バットマンとして
燃え尽きるまでやるのが
僕の務めです。
体が続く限り
バットを持ちたいんです」
◆昭和49年、
1974年10月12日(引退決意)
「小さな白い球との
長い戦いが終わったことを
知りました」
◆昭和49年、
1974年10月14日
(後楽園球場での
引退セレモニーで)
「私はきょうここに
引退いたしますが、
わが巨人軍は
永久に不滅です」
◆昭和49年、
1974年11月1日
(巨人監督に決まり、
背番号も90に)
「息子の一茂が3番、三塁、
背番号3だったから
全部足して9、
それに0を付けた90がいい、
と言うんですよ」
◆昭和49年、
1974年11月21日
(監督就任会見で)
「来年はひとつ、
クリーンベースボールの
キャッチフレーズで」
◆昭和50年、
1975年4月8日
(広島戦で監督初勝利)
「現役時代、
ホームランを打ったときでも
こんなうれしさはなかった。
監督みょうりに 尽きる」
◆昭和51年、
1976年8月17日
(広島戦で監督100勝)
「きょうの勝ちは大きい。
これでチームのアクが抜ける」
◆昭和51年、
1976年10月16日
(初優勝の胴上げについて)
「文字通り、
宙に舞うような気分でした」
◆昭和55年、
1980年10月21日
(巨人監督を解任されて会見)
「フロント入りを
要請されましたが、
お引き受けできません。
しばらく自分の足元を
直視して反省を加え、
これからの人生を
考えてみたいと思います」
◆平成3年、
1991年8月26日
(浪人中に世界陸上を
リポート。
100メートル決勝で
世界新を出した
カール・ルイスについて)
「新幹線が
通り過ぎて行ったかと思った」
◆平成4年、
1992年10月12日
(2度目の監督就任会見で)
「今までの環境から見れば
大変な戦いの場に入る
わけですから。
巨人の再建に
心血をそそごうと、
そういう結論に達しまして」
◆平成4年、
1992年11月21日
(ドラフト会議で
星稜・松井を引き当て)
「(くじを)
オープンしまして
『選択確定』の文字が
出たときに、
思わずうれしくなって」
◆平成4年、
1992年12月18日
(息子でヤクルト一茂の
巨人移籍が決まり)
「(一茂には)
親子という関係を抜きにして、
より厳しくあたらなければ
いけない」
◆平成5年、
1993年4月25日
(香田、門奈、石毛の
継投で快勝し)
「きょうの投手リレーは
方程式通り
決まりましたね、ハイ」
◆平成6年、
1994年4月29日
(連夜の1点差勝利に)
「う~ん、
タッチの差でしたね。
水泳でいえば
バサロで逃げ切り、
これですよ」
◆平成6年、
1994年5月11日
(危険球が原因で
ヤクルト戦で大乱闘へ発展)
「うちだって、
やられたら黙ってません。
目には目を、です」
◆平成6年、
1994年8月18日
(マジック25の点灯に)
「マジックは
マジックの世界
ですからねえ。
ところで
消えないマジック
ってないの?」
◆平成6年、
1994年10月7日
(中日との同率最終決戦を前に)
「オーラスの大一番。
国民的行事ですからねえ」
◆平成6年、
1994年10月8日
(中日との同率決戦に勝ち、
5度胴上げされ)
「言葉に表せないくらい。
まさに竜の背中にまたがって
天に昇るような気持ち良さを
味わわせてもらいました」
◆平成7年、
1995年8月9日
(逆転優勝を信じて)
「9月には、
ドラマがありますよ。
メークドラマですよ」
◆平成8年、
1996年2月20日
(宮崎キャンプ中に
60歳の誕生日を迎え)
「今年、初めて
還暦を迎えまして…」
◆平成8年、
1996年6月12日
(松井の
バースデーアーチも実らず)
「せっかく松井が打って
皆さんいろいろ
用意してたんでしょ。
原稿が
ぶっ飛んじゃいましたね」
◆平成8年、
1996年7月17日
(松井が2打席連発で22号)
「松井が40本打って
タイトルを取れば
2年越しの
メークドラマが完成する。
ミラクルが起きますよ」
◆平成8年、
1996年7月29日
(首位広島に5ゲーム差と迫り)
「8月を乗り切れば、
9月以降は総力戦です。
アトランタ五輪、
そして夏の甲子園大会が
終わるといよいよ
プロ野球の秋の陣ですよ。
皆さんに必ず話題を
提供しますよ。
ミラクルをお見せします」
◆平成8年、
1996年11月17日
(FA宣言した清原獲得に向け)
「いいでしょう、
やりましょう、
(永久欠番の)3を。
それくらい
みんな納得するでしょう」
◆平成8年、
1996年11月20日
(清原との交渉の席で)
「思い切って
僕の胸に
飛び込んで来てほしい」
◆平成9年、
1997年7月5日
(阪神戦で監督700勝)
「別にどうってことない。
それより今日は暑かったな」
◆平成10年、
1998年10月24日
(無期限出場停止処分を
受けていた
ガルベス球界復帰に一句詠み)
「ガルベスが
カリブの海で
ブイ(V)運ぶ」
◆平成11年、
1999年9月11日
(阪神戦で6投手の
継投が決まり)
「今までにない形。
新しい『ブリッジ』だからね」
◆平成11年、
1999年11月17日
(FA宣言した
江藤との交渉で)
「荒波をかぶっても
いいだろう。
それが男の勝負だ」
◆平成12年、
2000年2月11日
(この年から
背番号3が復活。
宮崎キャンプで
江藤相手に
ノックした際に披露し)
「もとの新人時代に
戻っただけですよ。
バックナンバーで
勝負している
わけじゃありませんから」
◆平成12年、
2000年9月24日
(マジック1で迎えた中日戦で、
9回裏4点差を逆転し、
サヨナラV)
「もう言葉では言い表せない。
野球というものは生きている。
理論も何もない。
人間の持っている
能力そのものが結集した。
だから野球に
魅了されるんです」
◆平成12年、
2000年10月28日
(20世紀最後の日本シリーズで
王ダイエーに勝ち)
「もう、最高です。
この1年間、この20世紀、
本当にありがとうございました」
◆平成13年、
2001年6月28日
(史上10人目の
監督通算1000勝達成)
「プレーヤー諸君が
ベストを尽くし、
その結晶が
1つ1つ積み重なった。
監督、コーチの指揮の中にも
限度がある。
プレーヤー諸君の力
100%でつくり上げた
と言っていい」
◆平成13年、
2001年9月28日
(巨人監督辞任を電撃発表)
「今の気持ちは、
今日の天気のように
すかっと晴れ晴れ
しております。
惜しまれながら
身を引くことは
男みょうりに尽きます」
◆平成13年、
2001年9月30日
(東京ドームで退任セレモニー)
「気持ちは割合
すっきりしていました。
しこりを残して
ユニホームを脱いだ時
(昭和55年、1980年の
監督解任)と比べ、
ファンの皆さまにも
納得していただけたと
安堵(あんど)してます」
◆平成13年、
2001年10月1日
(思い出深い甲子園で
巨人監督として最後の采配。
敵地で5万人の観衆から
長嶋コールがわき)
「最終ゲームなのに
これだけのお客さんが
来てくれるのは
ありがたいこと。
すべてやり遂げ、
まっとうした。
そういう心境だな」
◆平成14年、
2002年8月21日
(夏の甲子園決勝を初視察)
「球児たちを見ていると、
昔の1ページが
パーンとよみがえります。
選手にとっても
野球の一番の骨格。
高校野球は
永久に不滅
と断言できます」
◆平成14年、
2002年10月1日
(愛弟子の松井が
大リーグ挑戦を表明。
前日に本人から決意を告げられ)
「心なしか表情も、
ちょっと体重が
減ったんじゃないかな。
あんな顔、見たことない。
ドラフトからのご縁で10年間、1000日構想として
マンツーマンで
やってきましたから、
できれば
とどまって欲しかった」
◆平成14年、
2002年12月2日
(アテネ五輪の
日本代表監督に就任)
「身の引き締まる
思いがします。
五輪の聖地アテネに
日の丸を揚げたい。
プロ一筋に野球人生を送った。
ユニホームに日の丸をつけ、
日本を背負うことに
かつてない興奮、
重い使命を感じています」
◆平成15年、
2003年11月7日
(アテネ五輪アジア予選を
1位で突破)
「短期決戦で
精鋭のタレントたちが
頑張った。
『フォア・ザ・フラッグ』
という、我この旗の下に
はせ参じるという気持ちが
3勝につながった。
今度はアテネが
究極のテーマです」
◆平成15年、
2003年5月5日
(国民栄誉賞表彰式で
松井とともに
東京ドームに登場)
「かつてない
セレモニーでした。
気持ちの上では
相当入っていました。
ファンの皆さんが
一緒に喜んでくれたことに、
あらためてお礼申し上げます」
◆平成15年、
2003年10月30日
(Rソックスが世界一。
上原が胴上げ投手となり)
「決して へこたれない
そのマウンド姿は、
雑草のたくましさに
満ちあふれていました。
巨人時代と投球スタイルは
様変わりしましたが、
たぐいまれな精神力は、
共に戦った頃そのままで、
うれしく思いました」
◆平成16年、
2004年2月11日
(宮崎キャンプを訪れ、
新人の小林に)
「クールを持っている。
キャッチャーとして。
いいな、いいよ、いいね。
肩がいいし、打球もいい。
(配球の)使い方もうまい」
◆平成17年、
2005年10月26日
(高橋由伸が現役引退して
新監督に就任)
「己を捨て、
チームのために
立派な決断を
下してくれました」
◆平成18年、
2006年8月4日
(東京五輪で
野球の復活が決まり)
「大変素晴らしく、
これほどうれしいことは
ありません。
侍ジャパンの精鋭たちが
日の丸の旗の下に集い、
世界と戦う姿を
この日本で観戦し、
国民のみなさまと
感動を分かち合えるのだ
と思うと、
今から2020年が
待ち遠しくてたまりません」
◆平成18年、
2006年11月13日
(自身の野球教室で、
二刀流・大谷について聞かれ)
「見ているよ。
すごいよね~。
セ・リーグ、パ・リーグ
を通じて
あんな選手いないよね。
男の子も女の子も
みんな 大谷だよね」
◆平成19年、
2007年6月11日
(全日本大学野球選手権を
神宮で観戦。
母校立大の優勝に)
「非常にうれしかった。
かつて学生野球に
携わった身としては
当時に戻った気持ちになった」
◆平成31年、
2019年1月15日
(愛弟子の松井が
野球殿堂入り)
「いつの日か
指導者として その手で
次代の日本を背負える
4番打者を育ててほしい
と願っています。
それが今の私にとって、
大きな夢の1つです」
◆令和元年、
2019年9月21日
(巨人の5年ぶりリーグ優勝に)
「よくやってくれた。
本当によくやってくれた。
愛するジャイアンツが
優勝したというのに、
うれしさが込み上げて、
月並みな言葉しか出てこない」
◆令和2年、
2020年6月19日
(コロナ禍での
プロ野球開幕に)
「これまで人類が
経験しえなかった、
先を見通すことが
できないという、
困難な状況にあった
にもかかわらず、
こうして日本のプロ野球が
開幕できたことは、
まさに万感の思いです。
本日の開幕は、
私の野球人としての
矜持(きょうじ)を
思い起こしてくれました。
3カ月遅れの球音が、
再びこの国を
元気にしてくれることを
願ってやみません」
◆令和3年、
2021年8月7日
(侍ジャパンの
東京五輪金メダルに)
「見ていた私も
感動しました。
日本の野球に
新たな歴史を刻んだ
と思います。おめでとう」
◆令和3年、
2021年8月22日
(無償トレードで
移籍した中田に)
「いろいろあるけど、
応援したいから今日来たの。
一生懸命やって、
ジャイアンツが
優勝できるように頑張って」
◆令和3年、
2021年12月6日
(文化勲章受章を祝う会で)
今後も野球界のために
一生懸命、尽くします」
◆令和4年、
2022年3月25日
(東京ドームで
文化勲章受章の
祝賀セレモニーに参加。
試合も観戦)
「ファンの皆さん
あってこその
ジャイアンツです。
なおいっそう、
頑張ってほしいですね」
、、、以上、備忘録、令和7年、
2025年6月4日(水)9時17分報道
記事より、、校正あり、、、
皆様、いかがでしたか?
ジャイアンツファンの方、
アンチ巨人軍の方、
野球やスポーツに
全然感心はないけれども
長嶋さんの存在について
考えていらした方、、、など
さまざまだと思います、、
ご意見、ご感想等、
こ自由にコメント欄にどうぞ~
こうして一連の
長嶋さんの
語録を拝見すると、
ひとつひとつの言霊、、、
長嶋さんは野球どころか
スポーツの域をも超え、
一生かけての
エンターテイナー
だったんだなあ、、と
改めて感動しています、、、
まさに長嶋さん自身の
存在からして
メークドラマですね、、
長嶋さん、
どうもお疲れさまでした、、
あなたの 功績、感動、
語録、、ミラクル、、は
永遠に不滅です!!
有り難う(^.^)(-.-)(__)、、、
、、、
以下、再掲載
Mr.G
功績語録
ホームラン
またひとつ
昭和が遠く
なりにけり