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倭 百済 高句麗 新羅 「高句麗の平壌城について考える」

2010-03-21 22:09:48 | 極東古史考
1970年代に中国の中華書局から発行された

左傳 司馬遷の史記から宋史まで十四史ある
30年ぶりに物置から出した
さすがに埃まみれでシミだらけになっていた

あの頃は特定の歴史観でもって歴史を調べていた
間違いとは言わないが 今は頭の体操のつもりで
文字の草原を散歩してみたくなった

何処の国が優れてるとか 劣ってるとか もうどうでもいい

アームチェアフィッシングという言葉がイギリスにある

釣りをし尽くした男が
年老いて書斎でロッキングチェアをゆっくりこぎながら
パイプをくゆらし
あの瀬 この川 あの入江と
ルアーを選び 魚の力強いひきを
頭の中で楽しむ

今も昔も 人々はその時代を生活していた

現在の北朝鮮の平壌は嘗ての楽浪郡である

その故楽浪郡城を都としたのは
高句麗20代長寿王15年(419年)の遷都からだ

朝鮮の「三国史記」によれば
11代東川王は丸都城を復旧するのは困難として
平壌城を築き 民及び廟社を新都へ移した
平壌は仙人王倹の家 その都王険城とも言う

東川王は227~248在位の人である
この当時 今の平壌は 魏の楽浪郡城であり
そこを新都とするのは不可能である



晋の簡文帝2年(372年)6月
簡文帝は扶余句百済王を楽浪太守に任じた
晋の直轄では無く 現地の王に
楽浪郡を委託したのだ

今の 平壌を含む
平安南北道 黄海南北道 京畿道がその百済の疆域である
高句麗が入る余地はない



190~204年頃
扶余の尉仇台は遼東太守公孫度の娘を妻とし
公孫度は楽浪郡を分割し南郊を帯方郡とし 尉仇台に与えた
馬韓の一国に過ぎなかった小さな国が
たくさんの国をまとめ 伯済を号すようになる



その国には
倭人もいれば 高句麗新羅人 中国人もいた




百済13代近肖古王の時
後の百済14代 余須 (貴須 仇首王)は
高句麗16代故国原王 劉を殺す(341)
これにより 百済は楽浪(今の平壌)を中心とする勢力を増大した





神后女帝 摂政となっているが
神功皇后52年(372年)のことである
七支刀は

物部氏の武器庫であった石上神宮
金象眼がある

表「泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥」
裏「先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音故為倭王旨造傳示後世」

扶余 百済 高句麗は 今はない
今は 新羅の後裔である国があるのみ
百済 高句麗の音は途絶えた



殷の末 箕子朝鮮の都は朝鮮半島には無い

扶余は

中国古代の夷
東夷






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