畑ニ居リマス・田舎暮らしPHOTO日記

畑のかえるくんの楽しい日記です。

第一の心、第二の心(5)

2020年03月10日 | 梁瀬義亮先生のこと
今日は梁瀬先生の「いのちの発見」より、「第一の心、第二の心」と題しての最終回です。

慈光会の直営農場や契約農家では野菜や果物が有機栽培されている。右はそれら自然食品や安全な日用品の販売所
  

梁瀬:私は、一生懸命仏典も研究し、私なりに修行させていただいていたんです。それに農薬問題が起こってきて、農薬の害を昭和30年に知ったんです。その運動に挺身して農業の研究をやった。その農業をやっている間に、大自然の有り難さ、偉大さ、ということに気づいてきたですね。
この謙虚になった心の時に、法然さまのお著書を読んだんですよ、読ませてもらったんです。その時のお著書を読んだ時に、パッと閃いたんです。
「俺が修行してやろう。俺が悟ろう。俺の力で仏典研究し、俺の修行で悟りを開こうとあがいておったけれども、そうじゃなくて、まったく自分の無力なことを知って、謙虚に徹して、過去を振り返ってごらん」と。
「患者さんのお陰で生かさせていただいたのに、俺が患者さんを治している、というような気持で医者としてやってきたんじゃないか。妻子に対しても、社会に対しても、お前はいつもエゴの上でやってきたじゃないか。そうじゃないんだ。本当は生かされている」と。それから、
「自分というのは、こんなものだった、だから、ただついていくのが仏法だ。お祖師さまや、仏陀を仰いで、ついていくのが仏法だ」と。こういうことを知って、それから素直についていったです。
(略)
白鳥:先生が先ほどから言われた「いわゆる」という「かぎ括弧付きの科学」についてもですね。
梁瀬:「唯一無二の真理だ」と思っているんじゃいけないんです。真理の一つであると思わなければいけない。真理はまだまだ無限にあるんだ、ということを知らなければいけない。
そして自分が生死岸頭に立たなければならん。今立っておる人は、その心で、ついていくんです。そうすると、事実として現れます。どんな形で現れるかは別です。事実として体験になります。私はほんとに俗物ですよ。俗物だけれども、こんな俗物でも、仰ぎ、信じて、そしてわずかながら一生懸命行をさせていただいておると、事実としての体験があります。いまこの生死岸頭に立っても、こうやって心は元気だし、不安もないし、幸福ですよ。夜なんか、もう死ぬほど呼吸困難になるんです。しかし、家の人には、「いくら苦しくなっても来るな」と言ってある。それで幸福なんですよ。そしてただ何とかして、私の一生に得られた、求めてきた科学に対する正しい認識と、仏法者としての正しい仏祖の仰ぎ方と、仏道の進み方を、みなさんにご参考に申し上げたい、という一念で、生きさせてもらっているんですよ。

白鳥:有り難うございました。
梁瀬:ごめんください。

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