畑ニ居リマス・田舎暮らしPHOTO日記

畑のかえるくんの楽しい日記です。

「ポツダム少尉68年ぶりのご挨拶-呉の奇蹟-」その3・学歴と戦後の食糧生産

2017年08月10日 | べんちゃん
宮内貞之介(ていのすけ)さんは、大正11年生まれ、茨木県立工業学校、その後多賀高等工業(現茨木大学工学部)を卒業されている。
多くの人は尋常小学校6年、高等小学校2年(昭和16年からは国民学校)を卒業後すぐ就職していた時代なので優秀だったことがわかる。
高等工業卒つまり今の大卒の人は士官、つまり少尉になる。
わたしの父親の場合、軍人履歴を見ると「高卒」となっているので、高等小学校を出たのが14歳、その後は青年学校に在学しつつ農業をしていたようである。
(当時、高等小学校は義務ではなかったので高等小学校にも行っていない人も多かった)
16歳の年(3月生まれなので満15)に戦争突入、青年学校卒業にたどりついていなかったのではないか。
軍人履歴に「工員」とあるので、以前同級の方からの話と照合すると、おそらく水島(未確定)の軍需工場だろう。
そして19年5月25日に大竹海兵団に入っている。
高等小学校卒なので兵隊つまり二等兵からだ。


終戦直後は仕事も食べるものもなく、多くが農村で暮らすこととなった。
食糧難で農林漁業に期待がかかった。
同書はこの時代も詳細に記録されていている。

貞之介さんは、農業機械、主に耕耘機などを設計製作されていたようだ。
戦後から昭和30年代まで、わたしの地域では、農耕馬が中心だっだ。
牛と一緒の生活も今となっては懐かしいが、一方機械に対するあこがれは強かった。
この左上の〇に大のエンブレム、またステッカーを見るとワクワクする。
足踏みの脱穀機、その他農業機械・器具には、この字体で会社や製品の名前が書かれていた。

発動機のタンタンという音を思い出す。
発動機は稲刈り後の脱穀作業の時に付近の農家のものを借りていた、あるいは共同使用だったかもしれない。
ベルトをかけて脱穀機に繋いでいた。
そして汗まみれ、真っ黒になって働いた。

特に言いたいのは、この世代のみなさんは、戦中だけでなく、新生日本の担い手だった。
あの世代の人たちのおかげで今があると思う。

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2 コメント

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Unknown (フランツ)
2022-11-13 21:57:38
カエル様

ご無沙汰しておりますが、お元気でお過ごしのことと存じます。
実は、最近、父が昭和30年代に製造し、茨城県中央部に広く普及した「チビトラクター」の現存品を❗東北の奥州市のあるマニアの方が、保有して頂いていることが分かりました。
youtubeで、「チビトラクター」で検索して頂けますと見ることが出来ます。
是非ともご覧下さい。
寒くなりますので、お身体大切にお過ごし下さい。
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Unknown (はたけのかえる)
2022-12-16 06:09:22
見ました、見ました。
リコイル何回か引くうちに温まってきたのかエンジンが良い音させて動きましたね。いやあ、痛快でした。
フランツさんもお体たいせつにお過ごしください。
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