畑ニ居リマス・田舎暮らしPHOTO日記

畑のかえるくんの楽しい日記です。

第一の心、第二の心(3)

2020年03月06日 | 梁瀬義亮先生のこと
心の時代の放送を本に‥求道の旅「いのちの発見」。
下は梁瀬先生追悼集8ページ。

梁瀬:それから帰ってから、当時終戦後どさくさだったでしょう、尼崎の工場地帯の病院へお勤めさせていただいたんです。私はたまたまそこの宿舎へ住み込みでやっておったんです。ところが、当時は公害なんか問題にされない時代でしたから、石炭のガラを粉砕して、煙突へ放り込んでおったんですよ。ものすごいホコリでした。それで喘息になりましてね。それに肋膜炎を併発しまして、もうほんとダメになってきたんです。ちょうど結婚して間もなくで、長女が生まれて、4ヶ月の時でした。私は肋膜に水が溜まる、当時はそれから腹膜炎が起こって、脳膜炎起こって死ぬという、決まっていたようなパターンだったんです。抗結核剤もありませんし、ただじっと寝てるだけなんです。もういよいよダメだと覚悟したんです。父には何も知らせなかったけど、父がひょっこり訪ねて来たんです。 そして、「戦前のラジオがあったから、修理して、鳴るから持って来てやった」と、私の宿舎へ持って来てくれたんですよ。
白鳥:あの頃のラジオは貴重品なものですね。
梁瀬:ええ、そして家内が子どもを負ぶって外へ出た時に、私は、「お父さん、いよいよダメだ。僕はね、戦争に助かって帰ったけどもうダメです」と言ったんです。本当にダメだ思ったんですよ。当時の医学としては、抗結核剤もありませんしね。「ただ、私は死ぬのは覚悟しておるけど、みつ子と小さい子どもを置いていくということが辛くて死にきれない気持ちです」とこう言ったんです。そうしたら、父が、私にこう言ったんです。「お前、それは仏教徒として、ほんとに恥ずべき言葉だ。考えてみろ、お前が生きておるから、みつ子やちえ子が生きれると思っているのは、お前の驕りだ。お前の目の前で、あの子らが七転八倒して死んでも、どうにもできないこともあるんだ。おれもお前に死なれたらほんとに闇だ。しかし、わしは仏陀のお光りを信じている。業報、因縁に従いつつも仏光の中にいるのだ。だからそんなことは、一切考えては仏教徒としては恥だ。静かに仏陀のみ光の中で生かさせてもらう。お前の今できることは仏陀を念じて、念仏以外にないんじゃないか」と言いましたね。「わしは別れるのは辛いけれども帰る」と言って、ラジオをセットして帰って行きました。私も父の言葉に打たれて、「そうだ、自分は念仏する以外に道はないんだ」と思ったんですよ。そしてラジオを鳴らしておったら、その日の午後5時からベートーベン・シリーズが始まったんです。ベートーベンはまあ時間がないから申しませんが、私は絶望した時に、ベートーベンの音楽で救われたことがありました。それでもう本当にお経を聞くような気持で聞いてきたんです。ベートーベン・シリーズがその日から始まったんです。
白鳥:その日から。
梁瀬:そうです。その日の5時から6時まで1時間、‥ビックリしましたよ。それから3ヶ月の間、彼の若い時分から亡くなるまでの曲を、1000曲あったんです。第9交響曲の時は1時間半になりました。ほんとに感動して聞かせていただきながら、仏陀を念じておったんです。そうしたら不思議に肋膜の水が引いてきました。それから病院を辞めさせていただいて、郷里へ帰ったんです。1年ほど養生してよくなったんです。治ったことが不思議だったです。

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