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#手洗いデー#新型コロナ感染症が教えてくれたこと

2020-10-15 13:21:08 | #手洗いデー
#手洗いデー 🚰🧼🤲 (&😷)
#新型コロナ感染症が教えてくれたこと。




感染症となって、世界は『手洗い』の大切さが自分と自分の愛する人、及び愛すべき隣人(自分以外の全ての人のこと)の命と健康に関係してくることを多くの人々は認識、自覚、意識されるようになった。



思えば、コロナ感染症前の頃は、そこまでこの『手を洗う』ことは、かなり手が汚れてしまった時くらいだったように思える。



もっと以前の子供の頃はどうかと言えば、

・トイレに用足ししても手に水を濡らすくらいで、しかも、両手を何回かパッ、パッと振り水気を飛ばしたり、ズボンの裾に濡れた手を塗りつけていたことがあった。



・不思議な『三秒ルール』。

これは今から思えば不可思議な、しかも何の根拠も無いルールだったと言える。

子供だったから他者がそう言えば、それを信じていたのです。

今で言えば、根拠の無いフェイク規則であろう。

飴玉をポッと地面に落としてしまった。

『あっ!
と叫ぶが早いか
『早く拾え!』
と言うが早いかである。

『三秒以内なら大丈夫だよ。』

そう言われて、地面に落ちた飴玉を素早く拾うと、無造作に砂を落とすかのように、手で払い、服に擦りつけて、飴玉の付いているかも知れない砂成るものを綺麗に出来たか、自分の目で黙視点検して

『大丈夫だった。』

と変に納得して口に入れてしまっていたのです。




これはわたしが小学生の六年生の時、親切な担任の先生が私たち一人一人に1枚づつ分けてくださいました。感謝しています。

これを見て初めて『新幹線』なるものを知ったのです。(『夢の超特急』『弾丸列車』日本オリンピック。)


⏹️この60年で世界は変わってしまった。


今から、60年くらいは前の日本は今ほど汚い世界では無かったからそれが出来たのです。

・山の流れ出る川の水は、ピロリ菌など言う人もおらず平気で飲めた。
川の上流には人は住んでいない。
従ってそこで洗濯する人もいない。

・道を裸足で歩いたこともある。
今のように何が落ちているかの心配も無かった行えたことです。

学校の運動会があれば、グランドでは裸足で走り、その裸足で山道を歩いて帰宅してお昼ごはんを食べて、再び時間になる前に学校へ行き、午後のプログラムを行うと言った具合でした。

ここ60年で日本は変わったのに、日々の生活で人の認識は疎くなるのだと言える。

今、公道や山道さえも、裸足であるく人を見かけたことも無い。

あるとすれば、猫か犬や野生のハクビシンや狸、狐の類いであろう。

60年で無くてもこの世の中は変わるのです。

わたしの父たちが子供頃、夕方から夜に掛けて魚を捕りに川へ行くと

バケツいっぱいの魚を捕ることが出来たそうです。

それが、今では川は存在していても、そこには魚はいない構造になってしまいました。



⏹️魚のいない川。


・河川工事で川の本来の形状が変わってしまったこと。

・河川の中には様々な物が流れて来ており、魚が住めないのです。

建物用の材木の切れ端、錆びた釘や針金、ブラスティックの破片、ガラスの破片などである。



それは、どこから?誰が?



監視カメラを川やその上の然るべき箇所に取り付けていなければ証拠も無いので何とも断定出来ないのですが、

そうした棄てられたり、流れたりしてきた原因から推測すれば、



・人間の誰かが、
・そこまで運んで来て棄てた、
・河川汚染は不法投棄による。

ここまでは推定出来るでしょう。



まさか、文字通りの山の熊や狸がそうするとは、想像することは出来ないでしょう。

そう考えただけでも、熊や狸には傍迷惑と言えます。

責任転嫁と言えます。




これは60年以内のこの日本の有り様です。

他方、大都会の淀川、隅田川は真っ黒だったと言われていたが、今では水通して川床が見えるほど清んで魚が泳いでいるのが見えるほどになったと言われている。

それも、60年以内の話である。

この両方にはどんな違いが存在するかよくよく考えて見て貰いたい。


⏹️問題点のすり替え。


・綺麗にするやる気があるか?
・清んだ故郷の自然を取り戻したいとの心の願いがあるか?

の違いだけであろう。

それを人は簡単に摩り替える。

・誰がそれを行うのか?
・そうした清掃活動の費用を誰が出すのか?

その為に、皆で審議して会議を開く。
結果は、否決されて、元のモクアミ(黙阿弥?)となる。



⏹️昔話と同じか?



昔話にこんなことがあった。

猫は怖い。
誰が猫の首に鈴をつけるか?

ネズミたちは会議を始めたものの、口を開く者は1人も居なかった。

それと、似ておろう。



ことの問題の核心は人材と予算の方では無かろう。

やる気と心の願いの方に重心があるのです。




⏹️石鹸と水が無い所。

世界のどこがそうなのだろう?

手洗いの習慣が感染症の時期に言われており、その実態を調査した世界におけるデーター分析が出ていたので、興味深く見させて戴いた。

やはり、石鹸と水が無い所と言えば、『アフリカ』とその近辺にかなりたくさんの国々が行えないとのデーターがありました。

アフリカだけで無いことがショックに感じた。



他方、
日本では地形や自然の構造上、川は滔々と水が流れており、
家庭に入れば、
水道設備のおかげでジャージャーと水を出しっぱなしの所もある。

自然のお湯を水道施設を通して蛇口から流れ出ている自治体もある。

温水器など不要とのことです。



⏹️『もったいないねぇー』。


『もったいないねー。』の心のマータイさんがそれを教えてくれた。

その言葉をキャッチフレーズにしているリサイクル業者もいる。


日本では空梅雨や乾燥時期と雨が降らない頃に、時々、節水制限の広報車や速報として節水協力を言われている。

が、一般人には生活用水はそんなに意識はしていない。

節水制限下での『水の使用量比較』を検索するとデーターが出てくる。

量から言えば、
1 工業用水
2 農業用水
3 家庭用水

の順に量は少なくなる。


⏹️海水か自然水か。

日本は水源が山にあり、山の木々が、降雨を貯蓄していてくれる。

大地に染み込んだ降雨は天然水となるべく染み込んだ物が地下の宙水に貯まる。

そして徐々に放出してくれているのだ。

ダムカレーやダムカードが流行ったが、
そのダムも日本には多い。

世界の大半は海だとされているが、塩気のある水は工業用には利用出来ない。
日本に何基もあると言う原子力発電所さえ、海水の近くに建設されており、わたしは無知ゆえ海水を利用して冷やしているんだと思っていた。

それは間違いで塩気のある海水など使えない。
日本の技術を以てしても、海水を濾過する技術はあってもそれを行えないのではなく、行わないと言う。

となれば、山川を辿る自然の水を利用して原子力発電所の高炉は頭を冷やすしかないそうだ。

クールダウンがメルトダウンだとか言い出すのだ。

それより、もっと大切なことがある。



⏹️温帯から亜熱帯へと。


・自然気象変化により亜熱帯化したこの日本。

であれば、生態系も変わり今まで観たことも無い昆虫から植物、微生物、動物まで移動してくる。


⏹️たことも無いものたちの日本への訪問。


海水の中ではもっと前から、ダイバーたちが観たことも無い海老、蟹、魚を見たと言っていた。

最近では日本の海でも、透明な魚が泳いでいると言う。

調べたら、海外では既にいるとのことだった。

つまり、日本の近くに見物にやって来ている海からの訪問者なのだと思える。


⏹️自粛と活発化。

・感染症で自粛した人間とは反対に自然界の動物は自粛しなくて活発化する。
あちこちで被害が発生しており、結果、人を襲った野生動物は射殺するしか無くなる。

餌を与えて山の中に置いて来れば、アメリカの様な共生自然保護にならないだろうか。

山に植林をしたものの、外材に圧されて利用度無くなって困るのは、動物も同じこと。

太陽のおかげで植物は光合成することは、殆んどの人が知っておろう。

しかし、その為、自然界の動物は餌となる自然木を失い、餌取りに出掛けても言わば失業難に山の中で喘いでいるのです。

やがて、地形の低い里へ里へと降りて行けば、そこに人間の家から良い香りがすれば、それが何だろうと確かめて、これは美味しいと食べているおりに、人間が後ろから大声と銃で熊は非難を集中砲火のごとくに浴びることになる。

熊は生活も社会構造も山林工学も、デザイン出来ない。


⏹️デザインするのは誰か?


・人間と自然との共生共存社会をグローバル・デザインすること。

人間社会内の問題を問題視することから、今では理解と同情や愛で観ることの大切さが意識されて来たように思えるのは良いことだと理解している。

それに加えて、『山からの隣人』とも言える動物との共生共存をこれからは考えなければ成らない。

ことあれば、射殺するだけの考えでは終わりも切りも無いからです。

それでは、山の中で間違えて仲間の人間を射殺してしまうことも多々ある。

人は立ち入り禁止と書いてあれば、何で?と感じ、自分は大丈夫とのバイアスから、プロでも山登りから遭難して帰って来ない人の話を思い出して欲しい。



『今から降りる』と電車連絡の後、彼は帰って来なくなったのだ。

その出来事からもう何年にもなる。

成功と危険はいつも隣り合わせなのだ。



60年で人の世界は変わるように、
習慣とするためには、他者への思いも馳せなければいけない。


⏹️石鹸と水がなければ手も洗えない。


水汲みの朝のルーティーンだけに三時間も往復せねば成らない隣人もおり、
国際協力団体だけに委ねて自分は知らん顔も今の世界では出来ないだろう。

手洗いの習慣は、他者の存在との関係で成り立つ。

自分だけの問題では無いのです。

もうひとつ山の中の隣人たちの存在も意識し、考慮しなければならない時代への突入世界だとわたしは感じている。

つまり、山からの自然界の隣人が出てきて悪さをすれば射殺するでは、

どこか昔の話と似ていないだろうか?

『臭いモノには蓋をする』より、その元から解決しなければならないのだし、

『邪魔者は消せ』では、次から次へとこれから先はそれらが出てきたとき、対処には限界が現れる。

そもそも、そうした単純な解決策そのものが間違えていたのであることを、

この新型コロナ感染症と言うモノが私たちに考える時間をたっぷり与えてくれたおかげで気がつけたことに感謝したいと思う。



手洗い習慣は自分だけのモノではないのであれば、これから発生する他者や他のモノとの関わりも更に考えて新たに構築していかねばならない。


⏹️真のユニバーサル・デザインとは

これからのユニバーサルデザインとは、人間社会だけに当てはまることでは無く、

この地球に生きて・存在して行く全てのモノの為に

そうした事柄をもトータルで考慮しなければ本来いけなかったモノゴトだとわたしは思います。

この宇宙や地球の存在は設計者やデザイナーによる?

それをよく観察して考えて観ることです。



雨降れば、汚れた葉っぱ、洗われる、自然の中で、人間不幸。
#自然界のシャワー

(洗うためには水と石鹸がいるのです。)

Misohitomoji/Yamanoshitahyakuzen,15 October 2020.

©️Story/Thankyou shanxi(394),15 October 2020.