美の五色 bino_gosiki ~ 美しい空間,モノ,コトをリスペクト

展覧会,美術,お寺,行事,遺産,観光スポット 美しい理由を背景,歴史,人間模様からブログします

美の偉人ものがたり「原三溪」_日本最高峰のコレクションを築けた理由

2019年07月14日 | 美の偉人ものがたり

日本美術のファンの間でも、原三溪(はらさんけい)という名は、あまり知名度は高くないと思われます。首都圏在住の方であれば「三溪園と関係ある人?」という連想も働きますが、全国レベルでは難しいでしょう。横浜美術館で、その原三溪を主役にした開館50周年の記念碑的な大規模展覧会が始まりました。原三溪がいかなる人物であったが、紐解いてみたいと思います。

  • 生糸業で財を成し、藤田傳三郎/益田孝と並ぶ明治大正期の古美術の三大コレクターの一人
  • 藤田傳三郎と共に審美眼にかなえば美術商の言い値で購入することで有名、とにかく名品が集まった
  • フィランソロピー精神にあふれ、超一級品を公開する美術館を造る計画は関東大震災で叶わず
  • 安田靫彦ら無名だった若手画家も支援、近代日本の美術界への貢献は計り知れない


美術品は散逸すると、「個人蔵」として公開される機会が少なくなったり、行方不明になったりしがちです。原三溪と彼を支えた人物がいたからこそ、超一級の古美術品が日本国内の美術館に所蔵され、鑑賞できる機会を得られていると言っても過言ではありません。


三溪園 臨春閣

三溪は号です。後半生に茶人やコレクターとしての活躍が著名になったため、号で呼ばれるのが一般的になりました。横浜の三溪園も号に因んで名づけられものです。

【三溪園公式サイトの画像】 原三溪 肖像


 岐阜の庄屋の息子が横浜財界のリーダーに大出世

本名は富太郎(とみたろう)といい、戊辰戦争が峠を越え、元号が明治に変わる15日前の新暦1868年10月、現在の岐阜市で代々庄屋を務める青木家の長男に生まれます。

富太郎は上京して法律を学んだ後、自身と日本美術界の運命を大きく変える女性と出会います。明治の日本の主力輸出産業だった生糸貿易の横浜の豪商・原善三郎の一人娘の屋寿(やす)です。富太郎は1891(明治24)年に屋寿と結婚し、原家の入り婿となります。

地方の庄屋に過ぎない青木家と原家には家の格には格段の差がありますが、善三郎は経営者としても何の実績もない富太郎を婿として迎えます。正直かなり不可思議でもありますが、その経緯はよくわかっていません。富太郎は原家の事業を格段に大きくし、日本随一のコレクターになれるほど巨万の富を築きます。結果論として「善三郎に人を見る目があった」と言うしかありません。

1899(明治32)年、横浜商業会議所会頭まで務めた横浜経済界の重鎮の養父・善三郎がこの世を去ると富太郎は家督を継ぎ、事業を大きく拡大させていきます。組織の近代化や海外進出、同業の買収を積極的に手掛け、横浜を代表する経営者として知られるようになります。日本の明治の生糸産業と言えばすぐに連想される世界遺産の富岡製糸場も、三井家から譲り受け、一時期富太郎がオーナーでした。


25歳で蒐集を始め、34歳で三溪園を造営

富太郎は原家に婿入りしたわずか2年後、25歳の時から美術品の蒐集を始めています。婿入りだけでも驚きですが、何の実績もない若造が数寄者になろうとすることも驚愕です。蒐集には妻・屋寿の理解が大きかったようで、養父・善三郎からも自らに対する特別な思い入れを感じたのでしょう。

経営者としてもコレクターとしても転機となったのは養父・善三郎の死でした。1902(明治35)年に善三郎が別邸として購入していた現在の三溪園の地に野毛山から本宅を移し、広大な庭園として「三溪園」と名付け造営を始めます。古建築の移築も始め、庭園の研究をさせるため関西に庭師を派遣します。「三溪」という号の使用を始めたのもこの頃です。

【e国宝の画像】 東京国立博物館蔵「孔雀明王像」

翌1903(明治36)年に三溪の名を一躍轟かせた一大ディールが行われます。日本の仏画の最高傑作の一つ・国宝「孔雀明王像」を井上馨から入手したのです。一万円という破格の売値に当時随一のコレクター・益田孝は尻込みしますが、三渓は即座に一万円を用立て井上を驚かせます。

審美眼にかなえば美術商の言い値で買った三渓の元には、うわさを聞いた美術商が次々と名品が持ち込みます。”綺麗な買い方”が、稀代の名コレクションを築き上げたのです。

1906(明治39)年には三溪園が完成し、本宅のある内苑以外のエリア・外苑を公園として無料開放します。日本で資産家が行う文化面でのフィランソロピー活動はほとんどが昭和になってからであり、最古の私立美術館である大倉集古館の開館も1917(大正6)年です。三溪のフィランソロピーの実践の早さは群を抜いています。


三溪園への華麗なる来園者リスト

実業家としても文化人としても高い地位を築き上げた三溪に、ひっきりなしに各界の著名人が訪れるようになります。移築した古建築のある庭園と美術品の鑑賞も来訪者にとっては大きな楽しみとなります。

政治家では大隈重信/桂太郎/原敬/高橋是清らが訪れており、三溪の名声がいかに高かったかがわかります。経済界では同じ数寄者・茶人仲間として益田孝/高橋義雄/團琢磨/日比翁助ら三井の人々、根津嘉一郎、松永安左エ門らに加え、渋沢栄一ら重鎮も訪れています。

建築家では伊藤忠太/関野貞/武田五一ら、文学界では芥川龍之介/斎藤茂吉/夏目漱石/与謝野晶子/和辻哲郎ら、美術界では岡倉天心/北大路魯山人といったそうそうたる面々です。



ワシントンDC フリーア美術館

海外のコレクターや著名人の名前にも驚きます。モース/フェノロサ/ビゲローらお雇い外国人系コレクターはもちろん、アメリカ・ワシントンDCのフリーア美術館に日本国外ではトップクラスの日本美術コレクションをのこしたフリーアも来園しています。

1907(明治40)年、三溪の友人で通訳の野村洋三(のむらようぞう)の紹介により、フリーアは三溪園を訪れます。二週間も滞在し、三溪のコレクションに感激するとともに、日本美術について篤く語り合い、深い友情で結ばれます。

フリーアはその後も三回の来日の度に三溪園を訪れており、三溪の長男・善一郎もアメリカ留学中にフリーアの自宅を訪ねています。日米を代表する日本美術コレクター同士が赤い糸で結ばれていた時代があったのです。


三溪の精神を今に伝えた二人、横浜を愛した野村洋三

フリーアの通訳をした野村洋三は三溪と同じ岐阜県の出身で、年も2歳しか離れておらず、三溪の生涯の友人となった横浜の実業家です。禅を初めて欧米に紹介した鎌倉・東慶寺の釈宗演(しゃくそうえん)の通訳を語学力を生かして務めた後、横浜に古美術商「サムライ商会」を開くなど、コスモポリタンのはしりのような人物でした。

原家と釈宗演とは善三郎時代から交流があり、維持が難しくなっていた東慶寺仏殿を三溪園に移築することになります。仏殿は豊臣秀頼の未亡人となった千姫の寄進で、禅宗様の屋根のカーブが美しい重要文化財です。三溪園の造営にあたっては三溪は野村の意見も積極的に取り入れており、仏殿の移築にも計らいがあったことでしょう。

三溪は関東大震災が発生した時、野村と共に箱根の山荘に滞在していました。急ぎ横浜に戻ると政財界をまとめて横浜復興のリーダーとなり、野村と共に奔走します。震災がれきを埋め立てた山下公園の造成やホテルニューグランドの建設など、現在の横浜を代表するランドマークも震災の復興事業として造られたものです。

野村はその後ホテルニューグランドの会長や横浜商工会議所の会頭を務め、横浜の街の発展に長らく貢献します。1939(昭和14)年にこの世を去った三渓の横浜の街への思いを引き継いだのが、1965(昭和40)年まで生きた野村洋三でした。


 三溪の精神を今に伝えた二人、審美眼を愛した矢代幸雄

三溪の精神を今に伝えるもう一人の人物は、後に奈良・大和文華館の初代館長を務めた矢代幸雄(やしろゆきお)です。矢代は1890(明治23)年に横浜に生まれ、居留地の近くで外国語に常に接しながら育ちました。これは岡倉天心と似た境遇です。

【大和文華館公式サイトの画像】 矢代幸雄 肖像

東京美術学校(現:東京藝大)で教師をしていた時、来日していたインドの詩人・タゴールの通訳として三溪園を訪れます。2ヶ月以上三溪園に滞在したタゴールに、所蔵美術品をあつく語った三溪の造詣の深さに薫陶を受けます。

矢代は欧州留学時に松方コレクションの形成に携わった後、アメリカの東洋美術史家ウォーナーとも知己となり、1931(昭和6)年にはウォーナーを三溪園に案内しています。第二次大戦時に京都・奈良が大きな空襲を免れたのは文化遺産保護を提唱したウォーナーのおかげ、という「伝説」を朝日新聞に寄稿して一躍有名にしたのも矢代です。

三溪にとっての矢代の最大の功績は、終戦直後の混乱期に三溪コレクションの散逸を防ぎ、主な作品を大和文華館に移管したことでしょう。

終戦直後、あらゆる個人財産に高額の税率が課されたGHQによる”財産税”の施行で、資産家は大打撃を受けます。終戦直後に数多の美術品が売りに出されたのは財産税の支払いが大きく影響しています。原家も所蔵美術品を財団法人に移していなかったこともあり、財産税の大打撃を受けたと思われます。三溪の跡を継いだ次男・良三郎はやむをえず、所蔵美術品の売却について矢代に相談したことから事態が動きます。

その頃矢代は戦前から文化面でのフィランソロピー活動を構想していた近鉄から、文化事業を任される立場にありました。美術館設立を構想したものの、近鉄としてコレクションは全く所蔵していません。一から収集を始めなければならない時に、原家からの”渡りに船”のような相談が舞い込んだのです。

三溪コレクションは日本最高峰でもあり、譲渡価格も日本最高峰だったと思われますが、そのチャンスを決断したのが当時の近鉄社長・種田虎雄(おいたとらお)です。国宝「寝覚物語絵巻」を筆頭に、東洋と日本の古美術の主要なコレクションは奈良に安住の地を移し、現在に至るまで数々の展覧会で観る者を魅了し続けることになります。

国宝「孔雀明王像」や三溪がパトロンとなった近代日本画の作品は主に東京国立博物館が購入しています。三溪コレクションは、大規模な割には大きな散逸を免れた強運の持ち主でした。矢代はそんな強運を支えた人物でした。


三溪のフィランソロピー精神は若手画家にも目を向けた

1908(明治41)年、三溪は古美術ではなく現役の画家の作品を購入します。下村観山「大原御幸」です。三溪が当時で言う”新画”に関心を持った経緯については、同じ横浜出身の岡倉天心からの影響が推測されます。天心は1898(明治31)年に下野し、横山大観や下村観山を引き連れて日本美術院を立ち上げますが、運営は軌道に乗らず、五浦(いづら)で画家たちが困窮していたのが実情でした。

三溪はこうした状況に胸を痛めるとともに、純粋に観山の絵を気に入ったと思われます。観山には後に三溪園近くに自宅を提供し、創作にあたらせたほどです。また当時はまだ無名だった若手の安田靫彦/今村紫紅/小林古径/前田青邨らにも研究費を与えます。三溪園内の鶴翔閣(かくしょうかく)で創作に専念させるとともに、数多の至宝を見せて表現を学ばせました。


三溪園 鶴翔閣

鶴翔閣は三溪園造園当初に建築された原家の本宅です。戦時中に大きく改変されたものを平成になって建築当初の姿に復元し、現在は貸会場として様々なイベントに用いられています。

矢代幸雄によると、三溪は若手画家たちを子供のように可愛がっていたと言います。三溪は日本でも有数のフィランソロピーを実践した実業家です。関東大震災の復興のみならず、第一次大戦後の不況の際にも、生糸業や地元銀行の救済に私財を供出しています。現在の横浜銀行も三溪の救済が母体になっています。

強い意志で社会への利潤還元を実践した三溪にとって、将来有望と見た若手画家の育成も、捨て置けない仕事だったのでしょう。長男・善一郎も若手画家の支援で知られています。岸田劉生がその代表格です。


関東大震災が三溪の運命を変えた

三溪はコレクションを公開する美術館設立構想を自らぶち上げたことはありませんが、その意思があったことは間違いないと考えられます。古建築を移築した三溪園を早々に一般公開しており、震災復興や不況対策の慈善活動からしても、コレクションの公開をためらう理由は見当たりません。

三溪の身近にいた人たちが共通して語るのは「関東大震災がなかったら」という一言です。三溪は震災後に美術品の購入をほぼ止めていますが、横浜財界のリーダーとして復興事業に忙殺されたという表向きの理由以外にも、いくつか理由が考えられます。

一つは、コレクションから名品を選りすぐって自ら解説を加えたフルカラーの図録「三溪帖」の版下の震災による焼失です。三渓にとってはコレクター人生の集大成であり、出版目前に灰燼と帰したことは残り少なくなった人生を前にしてまさに痛恨の極みでした。

三溪はかなりまめな人物だったようで、自ら美術品・古建築を購入・蒐集した記録を「美術品買入覚」と題して残しており、現存しています。三溪の蒐集を100%カバーしているわけではありませんが、購入時期と価格をほぼ正確に追うことができます。「三溪帖」は奇跡的に草稿だけは現存しています。いずれも三溪の蒐集への思いを知る貴重な資料となっています。

二つは、震災から10年ほどすぎ、横浜の復興事業も落ち着き始めた1937(昭和12)年、69歳の時に長男の善一郎を亡くします。家業や三溪園とコレクションの後世を託していただけに三溪の落胆は大きく、三溪も2年後の1939(昭和14)年にこの世を去ります。

三溪は名経営者として数々の企業の経営に参画しますが、渋沢栄一と同じく資本で会社を支配するようなことはしなかったため、本業を財閥のような巨大コングロマリットに成長させることはありませんでした。生糸業そのものも昭和になると斜陽となり、数々のフィランソロピー活動を支えた利潤の確保が困難になっていきます。

原三溪の名が実業家としてもあまり知られていないのは、このように現代に続く大企業をのこさなかったためです。

三溪が脂ののっていた大正時代に美術館を立ち上げていたなら、というのは後世の仮説にすぎません。19c後半から第二次大戦まで、日本はアメリカと同じく数多くの実業家系コレクターを輩出しています。第二次大戦による混乱がなかったアメリカのコレクションは多くがそのまま現在まで伝えられていますが、日本はそうなっていません。

大和文華館と東洋国立博物館の二か所にまとまって主要作品が居場所を移した三溪コレクションは、大きな散逸を免れただけでも”運が良かった”方なのです。



原三溪所蔵品を大和文華館に導いた男が見た大コレクターたちの素顔
________________

<横浜市中区>
三溪園
【公式サイト】 https://www.sankeien.or.jp/

<横浜市西区>
横浜美術館「原三溪の美術」
【展覧会公式サイト】 https://harasankei2019.exhn.jp/


________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 長坂コレクション ヨーロッパ... | トップ | 美の殿堂ものがたり「北京の... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

美の偉人ものがたり」カテゴリの最新記事