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美の殿堂ものがたり「北京の故宮」_巨龍・中国の美意識がここに凝縮

2019年07月21日 | 美の殿堂ものがたり

近年は日本各地で中国美術の展覧会が増えています。中国の文化に対する関心もおのずと高まってきたと感じていた折、久々に北京を訪れる機会がありました。歴史スポットが見逃せない私にとって、あらためて北京という都と故宮(紫禁城)という宮殿の歴史を再学習してみました。

  • 何と言っても世界最大の宮殿、いつ訪れても中国文化のスケールの大きさに度肝を抜かれる
  • 19c以降の動乱や戦災による破壊を免れた強運の持ち主、清朝時代の空間美がそのままのこる
  • 巨龍・中国の悠久の文化を体験するにはまさにここしかない


北京の故宮にあった一級の文化財の多くは台北の国立故宮博物院に移されているとはいえ、北京の故宮は中国文化の粋が凝縮された建築空間であり、現代まで奇跡的に生き残ってきました。かけがえのない空間という表現は、まさに北京の故宮にふさわしいでしょう。


故宮の入口・午門

故宮とは”昔の宮殿”という意味の通称で、1925年に博物館として一般公開されて以来、定着し始めた表現です。一方紫禁城(しきんじょう)とは、現役の宮殿として使われていた清代の名称です。「紫」は中国の天文学で世界の中心にあって、天子(=皇帝)になぞらえた北極星を表す「紫微星」に由来し、「禁」は自由に立ち入ることができないエリアであることを意味します。

現在の故宮は、堀に囲まれた有料観覧エリアで南北960m×東西750m、面積72.5万平米の大きさです。日本の天皇の宮殿にあたる京都御所の内裏部分は、築地塀に囲まれた有料観覧エリアで南北450m×東西250m、面積11.2万平米です。徳川将軍の居城であった江戸城の本丸・二の丸・三の丸に相当する、一般公開されている皇居東御苑の面積は21万平米です。紫禁城のスケールの大きさはケタ違いであることがわかります。


都としての北京の歴史は中国では新しい

北京の街が歴史に登場するのは、紀元前3-4c頃、秦の始皇帝が中国を統一する前の春秋戦国時代に北京周辺を支配していた燕(えん)が都をおいていた時代です。古代中国の都であった洛陽や長安から見ると北の辺境に位置するため、永らく統一国家の都とは認識されず、北方遊牧民族に対する前線基地や満州や朝鮮半島との貿易の拠点に過ぎませんでした。

北京が初めて統一国家の都となったのは、1271年に元の初代皇帝クビライが「大都(だいと)」としてモンゴルから都を移した時です。大都の市域や宮殿の位置は現在とほぼ重なります。

大都は元にとってはモンゴルとの往来に便利であり、天津や江南地方とつながる運河を通じて物資が集積しました。世界的な大都市として繁栄し、ヴェネツィアのマルコ・ポーロやモロッコのイブン・バトゥータがやってきたのもこの頃です。大都の繁栄はヨーロッパやアラブ社会まで轟いていたと考えられます。

元による中国の支配は南京を都とした明に追われて1368年に終わり、大都は北平(ほくへい)と改称されます。明の3代皇帝・永楽帝(えいらくてい)は、皇帝になる前に自らの本拠地としていたこともあり、北方遊牧民族ににらみを利かし、国内流通網も整備された北平を北京と改称し、1403年に南京から都を移します。明に続く清朝も本拠地の満州に近いこともあり、引き続き北京を都とします。

永楽帝は元代の宮殿を完全に破壊した跡地に、1406年から15年かけて新宮殿を造営します。これが現在に至る紫禁城です。清も明代の建物を引き続き使用しましたが、木造建築であるため頻繁に火災に見舞われ、現在の建物はほぼ清代に再建されたものです。

こうして北京は元が都と定めて以来、現在に至るまでの約750年間、明代の初めや近代の混乱期を除いて一貫して中国の都であり続けます。三千年を超える悠久の中国の歴史の前半は、長安や洛陽といった中国大陸の中心部に都を置き、後半は北京が一貫して都となります。


紫禁城内の敷地を区画する城壁も巨大


紫禁城の建物と美術品は数奇な運命をたどった

中国は、王朝が変わると先代の遺物を徹底的に破壊して痕跡をなくすことが多く、動乱による破壊も少なくありません。北京は明初の破壊と19c以降の列強支配による動乱の二度、以前の建造物が多く破壊されています。1860年に英仏軍によって破壊された中洋折衷の離宮・円明園はその喪失の代表例です。

円明園が破壊されたアロー戦争時と1900年の義和団の乱の二度、紫禁城は列強によって占領されますが、幸運にも建物の破壊は免れます。皇帝の居住エリアにはさすがに列強も手を出さなかったのでしょう。

一方美術品など持ち運びのできる文化財は、列強による略奪や資金捻出のための皇族からの売立てで19c末から散逸が始まります。現在の台北の故宮博物院にある美術品は当初、日本軍による破壊と略奪を避けるために内陸部に疎開させたものです。第二次大戦後の国共内戦時には南京にあったため、蒋介石によって台湾へ運ばれたものです。

しかし台湾に運んだ美術品は全体の1/3ほどで、大陸にのこされた美術品が北京の故宮と南京博物院の2か所に分蔵されています。紫禁城は建築としてのスケールはもちろん、美術品のスケールもケタ違いの質と量があったのです。


緑が豊かなエリアも


天安門、巨大過ぎて日本人には門に見えない

紫禁城の正門というと、南側の中心にあって、北京のみならず中国のランドマークにもなっている天安門を思い浮かべますが、厳密には違います。紫禁城の正門は天安門の真北にあって、有料エリアの故宮博物院の入口になっている午門(ごもん)です。

天安門は紫禁城を取り囲む「皇城」エリアの正門ですが、明清時代から法律の発布や軍隊の謁見が行われており、現在と同じく事実上の紫禁城の正門と位置付けられます。

なお天安門は明の永楽帝が造営した際は「承天門」と呼ばれていましたが、清代初めに再建された際に「天安門」と改称されています。他にも紫禁城内の建物の名称はよく変更されています。最も中心的な太和殿(たいわでん)も、造営当初の「奉天殿」から明代に「皇極殿」、清代初めに「太和殿」と2度改称されています。

天安門も午門も、門というよりも日本の奈良の大仏殿のような巨大建造物に見えます。見る者を圧倒するスケールの大きさは門からして違います。午門も天安門も登ることができます。天安門からはテレビニュースでよく目にする中国共産党の指導者と同じ目線で天安門広場をのぞむことができます。

現在の天安門はこうした中国政府の重要行事に用いるためでしょう、清代初めからの経年劣化のために1970年に建て替えられたものです。また観光客の目やテレビ写りも意識しているのでしょう、天安門の中央に掲げられた毛沢東の巨大な肖像画も約10年毎に新調されています。確かに南面する屋外に設置された肖像画としては、びっくりするほど日焼けすることなく、顔の艶が輝いています。


紫禁城の中は現在も別世界

午門から入場すると白い大理石が敷き詰められた巨大な広場が目に飛び込んできます。このパノラマを見た瞬間、誰もが禁じられたエリアに入ったと感じます。正面に見える巨大建造物は太和門(たいわもん)で、紫禁城の中心である太和殿はその先にあります。皇帝の即位式を行い、日本の平城宮跡の大極殿、京都御所の紫宸殿に相当する建物です。

太和殿は中和殿・保和殿と合わせて三殿と呼ばれ、最重要な国家行事や儀式が行われたエリアです。清代に文化活動や学問を行う場として利用された三殿の東西のエリアとあわせ、外朝(がいちょう)と呼ばれています。


1987年公開 映画「ラストエンペラー」日本版劇場予告 YouTube 動画

映画「ラストエンペラー」で、太和殿前の広場を埋め尽くした臣下が溥儀の皇帝即位式にのぞむシーンが思い出されます。紫禁城のイメージを象徴する場面として、今も世界中の人々の記憶に焼き付いています。

現在の太和殿は1697年に再建されたものですが、以前の約半分の大きさに縮小されています。再建した清朝4代・康熙帝(こうきてい)は、中国歴代最高の名君と呼ばれる善政で知られています。皇帝の即位式などで権威を見せつけるために巨額の費用を割くのは賢明ではないと考えたのでしょう。


白い基壇に比べて太和殿が小さいのは縮小されたため

半分に縮小されたとはいえ、太和殿は幅64m奥行37m高さ27mで現在も中国の木造建築としては、最大です。江戸時代に再建された奈良の東大寺大仏殿は幅57m奥行50m高さ49mで、創建当初は幅が86mありました。太和殿の再建前のサイズは調べられませんでしたが、現在の2倍の大きさから逆算すると、創建当初の奈良の大仏殿を上回るスケールだったと推測されます。


落ち着いた内廷、趣は外朝とはうって変わる

三殿から北側が外朝に対し内廷(ないてい)と呼ばれ、清代には皇帝の日常的な政務や、皇帝や后の住居として使われたエリアです。外朝に比べ柔和なデザインで小振りの建物が多くなります。敷地は細かく区切られており、いずれも高さ10mほどの巨大な壁に囲まれています。

居大な壁を見ると感じることがあります。中で暮らしていた”特別な人たち”は、きわめつけの優雅な生活をおくれた半面、監獄のように閉ざされた空間から自由に出られないという”掟”に従わなければなりません。皇帝であっても自由に出ることはできません。

日本の天皇や将軍もしかり、古今東西の権力者に共通の”掟”ですが、紫禁城は何と言ってもそのスケールが違います。壁の高さはそのスケールを象徴しています。

19cには”眠れる獅子”、21cには”巨龍”と呼ばれる超大国の美意識が、まさにここに凝縮されています。



溥儀の家庭教師ジョンストンが見た禁じられたエリア
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故宮博物院
【公式サイト(英語)】https://en.dpm.org.cn/


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