1.和 歌
(1)和歌の特質
和歌は、上代には、和する(こたえる)歌の意でしたが、中古以後は、から歌(漢詩)に対する日本の歌の意で「やまとうた」と呼ばれ、倭歌・和歌と書かれました。五音・七音を基調とする韻文で、片歌・短歌・旋頭歌・長歌・仏足石歌などの総称です。現存する最古の歌集『万葉集』の時代ごろには短歌が圧倒的に優勢で、中古以後は和歌と言えばほとんど短歌をさすようになりました。そして日本文学の主流をなし、現代もなお盛んに行われています。
和歌とりわけ短歌は、それ自身独立して鑑賞・批評に耐えられるものなのですが、短歌形式の性質上、詞書・左注と呼ぶ短い説明をつけたり、枕詞・序詞・縁語・掛詞・倒置法といった特殊な表現様式が用いられ、意味上の切れ目を示すための句切れが重要視されています。
(2)和歌の流れ
和歌の源流は記紀歌謡ですが、上代の和歌の一大集成は『万葉集』です。以後漢詩文の隆盛に押されましたが、紀貫之たちによって勅撰の『古今集』が選ばれて和歌文学が樹立されます。鎌倉時代初期の『新古今集』までの八つの勅撰和歌集を八代集と呼びます。室町時代中ごろまでは勅撰集の撰進は続けられました。その後、近世の国学の興隆による復興まで衰退の一途をたどりました。勅撰集のほかに個人の編集になる私選集や個人や特定の家の歌集(私歌集)なども、各時代とも数多くつくられましたし、歌合や歌会なども盛んに行われたのでした。
(3)三大歌風
時代とともに和歌の歌調や歌風も変遷しました。その中心をなすものが万葉調、古今調、新古今調の三大歌風です。
2.俳 句
(1)俳句の特質
俳句とは俳諧の連歌の発句のことです。鎌倉時代から室町時代にわたって盛行しました。形式も煩雑で堅苦しい連歌に対して、卑俗な滑稽味をおびた連歌を「俳諧の連歌」といい、略して俳諧と言います。近世を中心に盛んに行われた文芸です。はじめは連句(二人以上数人が寄って、発句にはじまり付け句をつけて三十六句、五十句、百句にまとめるもの)が行われましたが、発句の五七五が独立して詠まれるようになったのです。俳句は、世界で最も短い詩型なので、リズムの断絶(切れ字)による豊かな連想と、季節感(季語)による広い連想によって、余情や叙情的空間をつかんでゆくのです。
(2)俳句の流れ
中世の末期に、山崎宗鑑や荒木田守武によって俳諧の連歌がはじめられ、近世の松永貞徳の出現によって天下に流行しました。この一派を貞門派と呼びます。ついで現れたのが西山宗因の談林派です。そして、芭蕉の出現によって、卑俗な滑稽から出発した俳諧は高い芸術性が付与されたのでした。芭蕉の後、芭蕉の蕉風を復興しょうとしたのが天明期の与謝蕪村です。蕪村の後、再び月並みに堕してゆき、一茶の出現もありましたが結局は正岡子規に受け継がれました。
3.狂歌・川柳
和歌・俳句に対して、近世後期になって、笑いや風刺の町人文芸としての狂歌・川柳が生まれました。
(1)狂 歌
伝統的な和歌形式で、しゃれ・こっけい・風刺をよんだものです。古くは『万葉集』『古今集』の昔から和歌の余興としては詠まれていたものですが近世後期に入って、特にもてはやされたのです。貴族的な和歌に対する町人の反発と自由奔放な性格があらわれています。
ア.上方の狂歌の例
鮎の子わきてながるる泉川いづみ酢にての料理床しき(『古今夷曲集』)----『百人一首』の「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」の歌のもじり。
イ.江戸の狂歌の例
見渡せばかねもおわしもなかりけり米櫃までも空の夕暮れ(『万載狂歌集』)----下巻55ページ上段4行目定家のうた参照。
(2)川 柳
川柳の名は、明和(1764~1772)年間に前句付(前句七・七を出して、これを五・七・五をつけさせること)の点者〈句の優劣をきめ、評点つける人)柄井川柳が前句付を独立させて創始したことに基づいています。俳句と違って季語や切れ字のきまりもなく、故事・世相・人情などを題材として、しゃれ・風刺・皮肉などをこめて詠んだものです江戸中期以降、庶民の間に流行しました。
ア.風刺の句----役人の子はにぎにぎをよく覚え
イ.うがちの句----おならする時は分別くさい顔
ウ.パロディの句----しのぶれど色に出にけり盗み酒 (原歌は、『百人一首』「しのぶれど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで)
エ.謎句-----主の縁一世へらして相続し (主従は三世、夫婦二世の縁とされる。見込まれて主家の娘聟となった手代は、一世減。) おわり
(1)和歌の特質
和歌は、上代には、和する(こたえる)歌の意でしたが、中古以後は、から歌(漢詩)に対する日本の歌の意で「やまとうた」と呼ばれ、倭歌・和歌と書かれました。五音・七音を基調とする韻文で、片歌・短歌・旋頭歌・長歌・仏足石歌などの総称です。現存する最古の歌集『万葉集』の時代ごろには短歌が圧倒的に優勢で、中古以後は和歌と言えばほとんど短歌をさすようになりました。そして日本文学の主流をなし、現代もなお盛んに行われています。
和歌とりわけ短歌は、それ自身独立して鑑賞・批評に耐えられるものなのですが、短歌形式の性質上、詞書・左注と呼ぶ短い説明をつけたり、枕詞・序詞・縁語・掛詞・倒置法といった特殊な表現様式が用いられ、意味上の切れ目を示すための句切れが重要視されています。
(2)和歌の流れ
和歌の源流は記紀歌謡ですが、上代の和歌の一大集成は『万葉集』です。以後漢詩文の隆盛に押されましたが、紀貫之たちによって勅撰の『古今集』が選ばれて和歌文学が樹立されます。鎌倉時代初期の『新古今集』までの八つの勅撰和歌集を八代集と呼びます。室町時代中ごろまでは勅撰集の撰進は続けられました。その後、近世の国学の興隆による復興まで衰退の一途をたどりました。勅撰集のほかに個人の編集になる私選集や個人や特定の家の歌集(私歌集)なども、各時代とも数多くつくられましたし、歌合や歌会なども盛んに行われたのでした。
(3)三大歌風
時代とともに和歌の歌調や歌風も変遷しました。その中心をなすものが万葉調、古今調、新古今調の三大歌風です。
2.俳 句
(1)俳句の特質
俳句とは俳諧の連歌の発句のことです。鎌倉時代から室町時代にわたって盛行しました。形式も煩雑で堅苦しい連歌に対して、卑俗な滑稽味をおびた連歌を「俳諧の連歌」といい、略して俳諧と言います。近世を中心に盛んに行われた文芸です。はじめは連句(二人以上数人が寄って、発句にはじまり付け句をつけて三十六句、五十句、百句にまとめるもの)が行われましたが、発句の五七五が独立して詠まれるようになったのです。俳句は、世界で最も短い詩型なので、リズムの断絶(切れ字)による豊かな連想と、季節感(季語)による広い連想によって、余情や叙情的空間をつかんでゆくのです。
(2)俳句の流れ
中世の末期に、山崎宗鑑や荒木田守武によって俳諧の連歌がはじめられ、近世の松永貞徳の出現によって天下に流行しました。この一派を貞門派と呼びます。ついで現れたのが西山宗因の談林派です。そして、芭蕉の出現によって、卑俗な滑稽から出発した俳諧は高い芸術性が付与されたのでした。芭蕉の後、芭蕉の蕉風を復興しょうとしたのが天明期の与謝蕪村です。蕪村の後、再び月並みに堕してゆき、一茶の出現もありましたが結局は正岡子規に受け継がれました。
3.狂歌・川柳
和歌・俳句に対して、近世後期になって、笑いや風刺の町人文芸としての狂歌・川柳が生まれました。
(1)狂 歌
伝統的な和歌形式で、しゃれ・こっけい・風刺をよんだものです。古くは『万葉集』『古今集』の昔から和歌の余興としては詠まれていたものですが近世後期に入って、特にもてはやされたのです。貴族的な和歌に対する町人の反発と自由奔放な性格があらわれています。
ア.上方の狂歌の例
鮎の子わきてながるる泉川いづみ酢にての料理床しき(『古今夷曲集』)----『百人一首』の「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」の歌のもじり。
イ.江戸の狂歌の例
見渡せばかねもおわしもなかりけり米櫃までも空の夕暮れ(『万載狂歌集』)----下巻55ページ上段4行目定家のうた参照。
(2)川 柳
川柳の名は、明和(1764~1772)年間に前句付(前句七・七を出して、これを五・七・五をつけさせること)の点者〈句の優劣をきめ、評点つける人)柄井川柳が前句付を独立させて創始したことに基づいています。俳句と違って季語や切れ字のきまりもなく、故事・世相・人情などを題材として、しゃれ・風刺・皮肉などをこめて詠んだものです江戸中期以降、庶民の間に流行しました。
ア.風刺の句----役人の子はにぎにぎをよく覚え
イ.うがちの句----おならする時は分別くさい顔
ウ.パロディの句----しのぶれど色に出にけり盗み酒 (原歌は、『百人一首』「しのぶれど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで)
エ.謎句-----主の縁一世へらして相続し (主従は三世、夫婦二世の縁とされる。見込まれて主家の娘聟となった手代は、一世減。) おわり