goo blog サービス終了のお知らせ 

日本史の勉強している

中国や韓国との歴史認識の相違が問題になっているので、「正しい歴史」を勉強しようと思った。

紫の上について

2009-08-05 15:14:00 | Weblog
 式部卿宮の娘、藤壺の姪である。
 幼児に実母(按察の大納言の娘)と死別、祖母(北山の尼君)に養われていた。北山でこれを偶然かいま見た源氏に異様な執着を抱かせる。密かに慕う藤壺の面影を宿していたからである。尼君の死後は、源氏は自邸二条院に迎え入れた。
 明るく稚純な性格は、藤壺への禁断の恋の苦悶を慰め、逆にまた藤壺への思慕を不断にかきたてる〔若紫~花宴〕。新枕を交わしてからは実質的には源氏の正妻格となる。その幸運が世人に羨望されるのを、継母(式部卿の宮の大北の方)だけは嫉妬として憎んだ〔葵・賢木〕。もとより紫の上の造型の基盤には、継子が悲運を逆転させる継子物語の鋳型があるらしい。源氏の須磨退居には、いっさいの財産管理を委任され留守を守り抜く〔須磨〕。明石の君の存在に嫉妬するが、姫君の養育を快諾、その愛らしさに母親への嫉妬心も薄れた〔澪標・松風・薄雲〕。また朝顔の姫君の存在にも悩むが、杞憂と知って安堵。藤壺亡き後の源氏には、絶対的な美質の女君として思いなおされる〔朝顔〕。六条院完成後、源氏と共に東南の春の町に移る〔少女〕。後年、源氏の正妻として女三の宮が降嫁。至福の人生に、苦悩の影が忍び寄ってくる。それは源氏への恨みでもなければ女三の宮への嫉妬でもなく、自らの苛酷な運命への痛恨であった。世間の物笑いにはなるまいと苦衷をおし隠して平静を装う。ここに精神と処世の態度とを区別して生きる新たな人生が開拓される。明石の女御の養育者として源氏からも明石の君からも深く感謝された〔若菜上〕。また六条院の女楽では抜群の印象を与え、源氏の情愛はいやますばかりである。しかし内心寂寥の紫の上には年ごとに出家の志が強まる。源氏は自らの孤独を恐れて、決してこれを許さない。女楽のあと、突然発病、一時は危篤に陥る。ようやく蘇生するが、その後も病気がちである。源氏が出家を許さぬのを不満としながらも、自分の出家後に残される源氏の孤独を想像して納得もする〔若菜下〕。夕霧と落葉の宮の恋に、女の人生の悲しみを思った〔夕霧〕。衰弱も癒えることなく死を予感、万事につけて感慨に沈む。源氏・明石の中宮と歌を唱和した未明、43歳の生涯を閉じたのである〔御法〕。
 薄幸の少女であった紫の上が、源氏の特異な人生に深く組み込まれることによってのみ、無上の栄耀に浴しえた。しかし、それとさしかえに、苛酷なまでの憂愁に耐えねばならなかった。晩年の述懐に、苦悩こそがわが生きる支えであった、ともある。   おわり