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日本史の勉強している

中国や韓国との歴史認識の相違が問題になっているので、「正しい歴史」を勉強しようと思った。

蜻蛉日記

2011-08-19 16:05:54 | Weblog
 平安時代の文化は、その初期には漢詩や漢文が重んじられました。しかし、その後、遣唐使が廃止されたり、仮名が広く用いられたりするようになると、次第に日本的なものに目が向けられるようになりました。特に紀貫之が『土佐日記』を著し、散文を仮名で書くことを試みて以来、多くの女性たちが自らの哀歓を筆に託して数々の作品をつづりました。その中で、自らの体験や経験を感想や思索を交えて記したものを日記文学と言い、この『蜻蛉日記』のほかに、今日、『和泉式部日記』、『更級日記』などが残っています。
 1.蜻蛉日記の作者
 作者は藤原道綱母と言われた女性です。本命はわかっておりません。父は藤原倫寧といい、実務にたけた能吏であったと言われます。蔵人などを経て陸奥守や河内守を務めたほか、丹波や伊勢の国守を務めたこともあったようです。作者の母についても正確なことは不明ですが、主殿守春道と言われた人の娘で、倫寧との間に、作者のほか、作者の兄に当たる理能やそのほか女児ももうけたようです。
 作者の生年は『蜻蛉日記』の記事から類推して承平6年8936年)ごろと思われます。作者の生い立ちの様子は正確には分かりませんが、父の倫寧は役人として、そのころは京都におりました。この時代の常として父の家は別にあり、折につけて父は母のもとを訪れたのです。ですからいつもは、作者は母や同母兄や姉妹たちと過ごしていたのです。「日記」の記事から推すると、心やさしい父母や兄妹たちと過ごしていたのです。作者は和歌や漢詩文に対する教養を有していたほか、絵画などの素養もあり、更に裁縫などの技芸にも優れていたようなのですが、それもこの頃培われたのでしょう。また、作者は大変な美貌の持ち主でもあったようで、『尊卑分脈』という藤原氏や平氏など諸氏の系図を集めた書物には「わが国の三美人のうちの一人である。」と記されています。才色兼備の女性に男性が好意を持つのはいつの時代でも同じです。作者が19歳ごろの秋、彼女を慕う藤原兼家と結婚します。その兼家との結婚生活を中心にして、作者の哀歓を記したのが、この『蜻蛉日記』なのです。
 2.蜻蛉日記の構成と内容
 『蜻蛉日記』は上中下の三巻に分かれ、天歴8年(954年)から天延2年(974年)までの21年間の記事を収めています。作者の年齢でいうと19歳ごろの秋から39歳ごろの歳末までです。以下、巻ごとにその大要をみていくことにします。
 上巻は、天歴8年(954年)、作者19歳ごろの秋から安和元年(968年)作者33歳ごろの歳末に及ぶまでの長い期間の記事を収めています。序文に続き、権門の貴族藤原兼家からの求婚に始まります。当時、兼家は26歳でまだ右兵衛佐という、それほど高い官ではなかったのですが、名家の出で父の師輔は右大臣であり、将来の栄進は目に見えていました。しかし、そのころから夫の浮気が始まります。作者はその嫉妬や苦悶の気持ちを大胆に記しています。一時は兼家をあきらめ一子道綱への愛と養育に生きる気持ちも持ったようですが、やがて夫とも和解します。兼家との結婚生活の記事を中軸に置き、父倫寧の陸奥赴任、姉との別れ、上層階級の人々との交際、念願だった初瀬詣でなど折々の体験を書きはさんで上巻が終わります。中巻は安和2年(969年)から天禄2年(971年)までの三年間の記事です。中巻の記事の中心は鳴滝籠りでしょうか。夫にまた新しい愛人のできたことを知った作者は怒り嘆いて鳴滝に籠りますが、兼家は様々な演出的手法を用い、20日あまりで彼女を下山させます。このほか作者の従者と正妻時姫の従者とのいさかい、作者の発病と遺書の執筆、一子道綱の賭弓の記事、同じく道綱の元服、それに石山詣でや父倫寧との初瀬詣でなどが書き記されています。下巻は天禄3年(972年)正月から天延2年(974年)歳末に至る三年間です。兼家の足はますます遠ざかっていきます。。自らの老後の備え、夫の心をつなぎとめるために、作者は夫の旧妻の娘を養女に迎えますが
、一時はともかく、それも夫の心をつなぎとめるだけの効果はありませんでした。物詣で、近火、道綱の求婚や養女の破談など、夫の足は遠のきますが、作者は道綱や養女の世話で明け暮れていきます。そして天延2年の大晦日の夜、今は兼家の意向を聞く必要もなく、作者は自分ひとりの考えで新春の支度を調え、亡母の魂祭りを行って、長かった自分の人生に静かに思いをはせますが、ここでこの日記は終了しています。  つづく