現在、松阪てつどうかんなどの飲食店や、市民活動センターが入居するカリヨンビルが建つ場所は、かつて本居宣長が賀茂真淵と出会い、「古事記の研究に生涯をかけよう」という決意を固めたいわゆる「松阪の一夜」の舞台となったところです。
今から約250年ほど前の宝暦一三年(一七六三)の夏五月、宣長が34才の時の出来事です。
宣長は日中は小児科医としての本業につとめ、それ以外の時間は、日本の古典の中から日本人の心を探すべく、日々学問や研究に明け暮れていました。
中でも最古の歴史書「古事記」のなかに日本人のものの考え方や心情を解く鍵があると考えていました。
そんな折、『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究する、当時著名な国学者、賀茂真淵が伊勢参宮への行き道に、かつてこの場所にあった旅籠・新上屋に泊まります。
実はこの出会い、一度目ははすれ違いになっています。
行き道に泊まったという情報を宣長は近くのいきつけの書店の柏屋で聞きますが、そのときはすでに伊勢に旅立ったあとでした。
宣長は帰りに泊まることがあれば知らせを、と柏屋に頼み、数日後その願いはかないます。
当時賀茂真淵は70歳近くで天下に聞こえた老大家、宣長とは親子以上の年の差がありましたが、同じ学問を志す者同士また宣長の姿勢に若き日の自分を重ねたかどうかはわかりませんが、気持ちが通じ合ったようで、賀茂真淵は自分がなし得なかった古事記の研究をこの若き国学者宣長に託したのです。
門人となった宣長への指導は手紙による質疑応答でしたが、当時400kmもある江戸とのやりとりができたのは、この地が参宮街道の経路であったことや江戸で活躍する松阪商人の町として情報の集積地であったことによると思われます。
この付近にはそのような歴史の香り高い空間がひろがっていますので、松阪にお越しになった際は、ぜひちなみを散策しながら松阪の歴史や文化に触れていただければと思います。
○参考サイト(本居宣長記念館より)
>>松阪のまちについて
>>新上屋
今から約250年ほど前の宝暦一三年(一七六三)の夏五月、宣長が34才の時の出来事です。
宣長は日中は小児科医としての本業につとめ、それ以外の時間は、日本の古典の中から日本人の心を探すべく、日々学問や研究に明け暮れていました。
中でも最古の歴史書「古事記」のなかに日本人のものの考え方や心情を解く鍵があると考えていました。
そんな折、『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究する、当時著名な国学者、賀茂真淵が伊勢参宮への行き道に、かつてこの場所にあった旅籠・新上屋に泊まります。
実はこの出会い、一度目ははすれ違いになっています。
行き道に泊まったという情報を宣長は近くのいきつけの書店の柏屋で聞きますが、そのときはすでに伊勢に旅立ったあとでした。
宣長は帰りに泊まることがあれば知らせを、と柏屋に頼み、数日後その願いはかないます。
当時賀茂真淵は70歳近くで天下に聞こえた老大家、宣長とは親子以上の年の差がありましたが、同じ学問を志す者同士また宣長の姿勢に若き日の自分を重ねたかどうかはわかりませんが、気持ちが通じ合ったようで、賀茂真淵は自分がなし得なかった古事記の研究をこの若き国学者宣長に託したのです。
門人となった宣長への指導は手紙による質疑応答でしたが、当時400kmもある江戸とのやりとりができたのは、この地が参宮街道の経路であったことや江戸で活躍する松阪商人の町として情報の集積地であったことによると思われます。
この付近にはそのような歴史の香り高い空間がひろがっていますので、松阪にお越しになった際は、ぜひちなみを散策しながら松阪の歴史や文化に触れていただければと思います。
○参考サイト(本居宣長記念館より)
>>松阪のまちについて
>>新上屋