気の向くままに

卒寿の私の日々の行動と昔の思い出の掲載です。

こんな時代がありました 

2024-04-25 12:53:51 | 日記

小田原電報電話局電報課の思い出

 去年の暮れに卒寿になりましたが、昨今の通信の中で消えたカタカナの電報の時代の思い出です。

 私は、1949年(昭和24年)7月から1973年(昭和48年)2月迄の途中の1961年(昭和36年)6月から1963年(昭和38年)2月迄の箱根局勤務を除いた22年余を小田原電報で少年、青春時代・壮年時代を過ごしてきました。最初の頃は、親父が電報課長で当時は意気軒昂な若者達の職場で何時も真っ先に親父から注意を受けていました。その後、親父は、藤沢局へ電話運用課長で転勤し、藤沢局の電話自動改式を手がけた後、昭和34年に全国的に有名となった箱根全山改式闘争の時の小田原局の電話運用課長となり、私は全電通小田原分会青対部長でいて親子で団体交渉をする羽目となりました。そんな中で私の脳裏に浮かぶ小田原電報時代のことを紹介致します。私の小田原電報時代は、通信の世界では電報が花形でした。

(音響器で電報を受信 15歳)

昭和24年にあった小田原局の通信回線は有線電信が東京中電―小田原の音響二重回線、横浜電報―二宮―国府津駅―小田原音響単回線と横浜電報―小田原―箱根湯本―箱根宮ノ下―箱根町音響単回線。無線電信が2周波数を使い、伊豆大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、青ヶ島でした。伊豆の島々相手の通信は多くの島が自家発電で電波は中短波を使っていたので感度の低い島との交信には悩まされました。特に空電(雷)、同じ周波数の他局との混信、雑音等がひどい時には何回も問い合わせようやく1通受信できた事もありました。その他に非常(移動)無線通信の1周波数がありました。非常無線通信は本来は非常災害時に他の機関と通信をするものであったが、当時は年に数回大雨等で有線回線に障害が起き不通となったので、代替えに東京中電と臨時無線回線として活用していました。昭和25年6月1日電波法が施行され、無線従事者免許証が必要となり国家試験を受け有線通信士から無線通信士向けの特殊無線技士(国内電信 甲)の資格を取りました。国内電信 甲とは欧文電報も通信をして良い免許でした。

(レシーバーで電報受信 17歳)

小田原から通信部電信係長として去る昭和48年には通信網も様変わりしていて、昭和30年に電報中継機械化が実施され、電報の主体であったモールス信号での通信は無くなり、同時に伊豆の島々との無線電信も他局に移管され廃止。小田原方面(小田原市・南足柄市・足柄上・下郡)の各局との電話通信での中継基地局となり、国鉄の小田原駅発信の電報も中継することになりました。その後はFAXも導入されました。

 

「脳裏に浮かぶこと」

1、小田原大火で一万通近い見舞電報が配達されたこと

 昭和26年11月28日早朝強風(15㍍から20㍍)の吹き荒れる時、万年町(現・浜町海岸側)で大火(292軒が消失)が発生し、この模様がラジオで報道されたため全国から見舞い電報が殺到し当日だけでも4,100通(平日100通程度)にも達し、内勤、外勤もとより他課の応援者一丸となって処理にあたったが、着信電報はたまる一方、昼頃、横浜電報から応援者3名が来局、印刷電信機(SK)を急遽設置、東京中電との臨時無線回線も措置し着信に対処しました。配達員は尻が赤く腫れ上がり自転車に乗れなくなるほど頑張りました。他課からの応援者も頑張っていたがスタンプ・日付印押しで手首が動かなくなる程でした。ラジオ放送後に新聞でも報道されたので着信電報はさらに続き、横浜電報からの応援者は予定の応援日数が来たが、あまりの輻輳に気遣い自分達が一日残ることにより小田原局員がそれだけ休養して貰えると相談し、自発的に応援日数を延ばす熱意を示して頂きました。

 

2、小田原電報の配達は競輪に強かったこと

昭和26年から神奈川新聞主催で行われて県下横断の自転車駅伝競走では、他の企業・地域の代表を押さえて

電報配達にバイクが導入されるまで毎年優勝をしていました。自転車競技があると今の箱根大学駅伝のように神奈川新聞紙上に大きく取り上げられ、町の話題となり小田原電報は市民からも信頼されました。選手に選ばれて主な局員は戦争中に小学校高等科の生徒の時に勤労動員で電報配達をやらされ、敗戦後そのまま就職をしました。昭和29年の第9回国民体育大会には神奈川県代表の自転車競技選手として2名が出場し優勝と3位となりました。

 

三、新聞電報を連日受信したこと

昭和29年11月に伊豆諸島の八丈島の先にある青ヶ島に学術調査団が入り、それに同行した各新聞社からの新聞電報が多数発信されました。通常の通信時間は10時30分、14時30分、16時30分、18時45分の4回でした。普段は日に3~4通の発信で島と島外との連絡手段は月に数回の定期便での郵便以外は電報しかありませんでした。学術調査団の上陸後は、それに同行した朝日、毎日、読売新聞及び地方紙等の記者から新聞電報が発信され、それを受信するため朝8時から夜8時迄1通の文字数が2,000字を超える新聞電報を電波状態が悪い(青ヶ島の発電はエンジンでの自家発電)なか通常の通信は1分間80文字受信できるが青ヶ島からの感度(モールス信号が聞こえにくい)では1分間40文字がやっとで、東京中電から派遣された1名の通信士から離島するまで受信をしました。後日の話では私が青ヶ島への派遣要員の候補になったようですが、毎日長時間の送信は経験が無かったので行かなくて良かったです。

4、発信局名「オダワラエキ」が多数夜に中継されたこと

昭和30年代電報中継機械化方式によりオダワラエキの中継局となり、夜間22時過ぎになると西日本方面に行く急行列車の乗客から小田原駅迄の車内で車掌が電報を集め急行停車駅の小田原駅で降ろして、発信局名「オダワラエキ」となり、通信文が「○○エキ○○ジニツクムカエタノム」等の多数の電報を2名の宿直者で受信し、それを鍵盤さん孔する作業で毎日がてんてこまいでした。

 

5、「こけし人形」の販売をしたこと

昭和40年代初期に、担当者が「こけし人形」注文の通信文を誤り、1200個の注文を12000個(内容は四種類のこけし人形300を3000と0を一つ多く鑽孔)なり、受取人が12000個のこけし人形を作り始めてしまい、発信人からクレームが来たので私が係長をしながら全電通小田原分会長もして居りましたので、関係組織と相談し、県下の各局、各分会に販売をすることになり「こけし人形」を1個100円で販売しました。受信人も注文の12000個は作っていなかったので、作った分だけ販売をしました。因みに仕入れ価格は80円、差額は販売の交通費等に充当をしました。受信人からは私の誠意に対し写真にある大きな「こけし人形」を頂きました。

(小さなこけしが販売したこけし。大きいのはお礼のこけし)

「番外編」

1、小田原電報OB会雑誌(想いで)より

太平洋戦争末期の体験 M・Kさん(故人)

 1945年(昭和20年)春から夏にかけ、太平洋戦争は、本土決戦を目前にして、緊迫度を増し、米軍機による本土空襲も、頻繁になってきた。防空警報は、電信回線(音響通信)によって伝達された。全ての通信が、一時中断され、静寂の中「・・・ ・・・ ・・・」と。単符号がながれる。思わず、固唾をのむ、空襲警報発令だ。直ちに電話交換台へ通報、そこから、関係機関へ伝達されると、市中のサイレンが、一斉に鳴り始める。緊張する一瞬である。当時の勤務は24時間勤務(二輪番)、夜勤一人で勤務している時など、便所に行くにも、ドアを開け放しで、耳を澄まして、静かに、用を足したものだ。先輩が、続々と応召されて行く中で、「俺達がこの職場を守るんだ」と、使命感に燃えながら一生懸命に働いた。いまにして思えば、そのころ、17才の少年だった私の心のどこかに「電信魂」のようなものが、芽生えていたのではないかと、思えてならない。

 

2、私の全電通小田原分会青対部長の時に(当時25歳)

懇談会や職場交流(全電通神奈川縮小版本)より

小田原分会青婦対部では、のびのびとなっていた婦人月間行事として昭和34年7月4日に歌人の信夫澄子さん(全電通新聞短歌選者)を囲む懇談会、12日には、大同毛織小田原工場で働く女子組合員と職場交流をおこなった。

  • 信夫澄子さんを囲んで

4日の信夫澄子さんを囲む懇談会では、はじめに信夫さんが立って婦人解放運動の歴史をふり返って「1946年4月10日に、日本の婦人が、はじめて参政権を獲得した意義を、もう一度ふかくかみしめよう。それとともに今年の4月10日は、皇太子の結婚さわぎで、ホントの意義がぼかされてしまった。政治的背景がなんであるかについても、はっきり認識していこう」と強調した。その後の懇談会では「組合の集会や話し合いに、いつも出席しない人の問題を、どう考えたらよいか、また、どう克服したらよいのだろうか」「公社以外の職場では、託児所の問題がどんなふうにとりあげられ、また利用されているだろうか」と熱心に話し合われ、コーラス部員による、美しい合唱を聴いて散会した。

②大同毛織の女性らと

大同毛織との職場交流の日、小田原分会から、赤ん坊を連れた共稼ぎのママさん組合員も加わった。大同毛織側は、東北と地元神奈川を主としたハイティーンの織姫達50名。四つに分かれて分科会では、大同毛織の場合、生理休暇をとると賃金が60%にへらされること、それでも、今はほとんどが1日とるようになったことが出された。全電通では、全部有給で、3日とる人も増えてきたという話をすると、大同毛織の女性たちはおどろいていたようだ。ここでも共通の話題は、合理化だ。新しい機械が入ると人が減らされる。減らされた人は工場内で配置換えされる。「行く所があるんですか?」という小田原分会の人達の質問に「ええ、それまで他の職場では人が足らなくても、ふやしてくれないんですよ」という大同の答えは、公社のやり方に似ている。その後、家城巳代治監督と俳優の今井健二を囲んで、東映映画「すばらしき娘たち」を中心にした座談会では“あの映画のなかに登場する組合幹部の描写は、どうもいただけない”とか“操短と一時帰休の扱い方は、もっと突っ込んで欲しかった”などの意見が出され監督を中心に、映画を作るまでの苦心談や映画の在り方などが活発に話し合われた。

大同毛織と職場交流ハイキング(昭和34年 箱根双子山にて一番右が私)

※振り返って、小田原時代を思い出すと「光陰矢のごとし」まだ色々のことが思い出されますが、紙面の都合でここまでとしますが、現在も小田原地区労OB会事務局長をしており、小田原との縁を大事にしています。

又、記事の中に出ている伊豆諸島との関係では8年前に昔を思い出し退職者の会のハイキングの行く先の一つに加えるよう提案し、式根島から初めてから、毎年伊豆諸島の温泉が出る島巡りハイキングを実施し現在2巡目に入っています。

この記事は2015年に会社のOB会組織の仕事の思い出に投稿しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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