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ぷらぷら散歩で「芝丸山古墳」に寄ったでヤンス

2017年08月08日 | お出かけ
ぷらぷら散歩で「芝丸山古墳」に寄ったでヤンス

なので「芝丸山古墳」について調べてみました。

東京都指定史跡指定:昭和54年3月31日


所在地:港区芝公園四丁目・都立芝公園内

都立芝公園とは、増上寺(徳川家の菩提寺)を中心とした緑地帯(都立公園)であり、1873年(明治6年)の開園と東京都内でも上野恩賜公園などと並ぶ古い公園である。

元々は増上寺境内の敷地を公園としていた。
しかし戦後の政教分離の考えにより、増上寺の敷地とは独立して宗教色のない都立公園として新たに遊具や運動施設などが設けられ、整備された。

形状:全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40mのくびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模を持つ前方後円墳である。
標高約16mの台地端に位置し、前方部を南々西に向けており、江戸時代以降、原形はかなり損じられている。とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。『東京の古墳を歩く』によると、「戦後の再調査によると、墳丘主軸長は125m(東京都遺跡台帳)とされた。」と記している。

明治17年8月 東京府武蔵國芝區芝公園地近傍


築造年代:これまで、4世紀〜6世紀初頭迄諸説唱えられてきたが、
1.埴輪が無い
2.削られたにしても後円部より前方部が低い
3.前方部端が若干撥型に開く可能性がある
4.台地縁辺の非常に目立つ箇所に立地している
といった点から、最近では4世紀台築造の、武蔵国最古級の前方後円墳であろうという見解が有力になってきている。

芝丸山古墳の被葬者:伝承上では初代の无邪志国造・兄多毛比命とされている。

「无邪志」とは、武蔵国がまだ、无邪志(むざし)、胸刺(むなさし/むさし)、知々夫(ちちぶ)の3つに分かれていた頃の国の一つである。

兄多毛比命が无邪志国造となった事は、『先代旧事本紀』という平安時代初期の書物の「国造本紀」という巻に記されており、そこには後に武蔵国となる、胸刺と知知夫の初代国造の名も記されている。

それによれば、知知夫国造は思金神の十世の孫・知知夫彦命が任ぜられ、胸刺国造には兄多毛比命の子・伊狭知直(いさちのあたえ)が任ぜられたとある。

任じられた時期は、胸刺国造の任命時期は記されていないが、知知夫国造は瑞籬朝御世(崇神朝)、无邪志国造は志賀高穴穂朝世(成務朝)とある。
胸刺国造は无邪志国造の子とあるから、順番としては、知知夫国造⇒无邪志国造⇒胸刺国造となろう。

また、それぞれの領域は、无邪志が足立郡と埼玉郡、知知夫が現在の秩父から埼玉県本庄市あたりにかけての領域で、胸刺は多摩川流域に比定する説が根強い。

それぞれの領域内の古墳の様相を見てみると、3系統の国造の内、血縁関係にない知知夫国造領域には古式の前方後円墳が存在していないし、无邪志の領域と考えられる足立郡、胸刺の領域と考えられる荏原郡や橘樹郡には共に古式の前方後円墳が所在していることから、大きく見れば2つの系統に分けることが出来、国造本紀の記事との対応関係が伺える。

特に興味深いのは胸刺国造の本拠地と考えられる多摩川流域の田園調布には、芝丸山古墳と同じかやや新しいと考えられる、宝來山古墳が所在している点で、これは无邪志国造と胸刺国造の任命時期と合致しているように推察できる。

こうした古墳の様相からしても、芝丸山を兄多毛比の墓とする伝承には、それなりの説得力があるのだ。

もし、東京湾岸の芝丸山が最古の前方後円墳とする説が正しければ、早い段階で前方後円墳を築造した勢力が最初に拠点としたのは、港区の芝のあたりで、そこを拠点として多摩川を遡上した勢力が胸刺国造となったという経緯を想定することが出来る。

埼玉や東京の古墳時代初期の集落遺構からは西東海系の土器が見つかることが多いが、その分布は東京湾岸を中心とし、主要河川沿いに拡散する傾向があり、この地方の古墳文化伝播としては、内陸よりも太平洋岸を伝うルートがより強く想定され、芝丸山⇒宝來山という推定を補強するのである。

芝丸山古墳のことを最初に紹介したのは日本の人類学、考古学の草分け的な学者であった坪井正五郎博士(1863-1913年)であり、明治33年4月刊行の「考古」第1号から第3号に『東京市芝公園古墳実査の結果』を発表し、首都しかも徳川将軍家の霊廟の地が古墳群であった事を明らかにして耳目を集めたのである。

増上寺を形成する丸山の地には大型の前方後円墳である芝丸山古墳を含めて合わせて11基の古墳が有ったとされるが、増上寺の造営も含めて江戸時代までに大きく形を変え、近年のホテル建設により、後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われ、遺体や副葬品なども不明である。

古墳群の調査は、増上寺徳川家霊廟の調査の行われた時期と同じく昭和33年9月6日から1週間掛けて明治大学考古学教室を中心に行われ、その報告は後に大塚初重、梅澤重昭「考古学雑誌」第51巻1号に『東京都港区芝丸山古墳群調査-丸山古墳の実測調査と第1号墳・第4号墳の発掘調査』として発表された。

この中で丸山古墳群について、南面を浸食される古墳附近は海抜二十米内外のゆるやかな起伏をもつこの台地独特の地形を示し、旧徳川家廟所台徳院霊屋を囲繞するように本古墳群は分布していた。

そうしたなかで、丸山古墳は台地の東南縁辺に接して、東京湾海岸線に平行に位置し、第1号墳、第3号墳、第4号墳は侵食谷に面した縁辺上に、第2号墳は第1号墳の北方約30米に位置し、第5号墳、第6号墳、第7号墳、第8号墳は台地の中央部に向かって第4号墳の位置から北方に1列に連なり、第9号墳、第10号墳は丸山古墳北方に位置していた。本調査時に残存のものは第1号墳より第4号墳までであり、他は壊滅してしまっているので定かでないが、10基以上の円墳から構成される群集墳が台地末端に分布していたのではないかと考えられる。

この論文の中には、残念ながら古墳の配置図が無いので、前記の『考古』第3号に掲載された図を下に掲げておく。

『考古』第3号掲載図

この中で、瓢形大古墳としているのが現在の丸山古墳で昭和54年3月31日に東京都の史跡として登録された。

また、昭和52年3月に報告された『東京都埋蔵文化財白書』のなかの「こわされてきた遺跡たち」の記述がこの辺りの様子を伝えている。

この場所は、丸山の大部分が都有地、11基の小円墳の区域は徳川二代将軍秀忠廟(御霊屋)で徳川家所有地となっており、さらに芝公園地として指定されていたので、指定時の状況は比較的よく維持されていた。

ところが秀忠廟が戦災により焼失した上、昭和22年に公園地の指定が解除されたので、小円墳の区域と丸山古墳の後円部の西側斜面部分は25年から29年の間に譲渡され、事実上A 株式会社の所有となった。
(中略)ところが、昭和29年以前の仮指定物件は32年中に本指定又は解除のどちらかに整理されることになっていたのでA 社は解除方を強く希望し、そのこともあって、遂に32年6月、丸山古墳群の史跡仮指定は解かれたのである。
昭和33年5月、A社は文化財保護法第57条の2第1項による事前届出さえも行わずに工事に着手、都教育委員会が工事一時停止を指示したときは、すでに丸山古墳は後円部西側斜面を切り取られ小円墳は4基以外が全部削り取られ、その4基もうち3基は原形を著しく損なわれてしまうという状況を呈していたのである。  なんだかなぁ~、、、、。


参考文献・資料
監修:大塚 初重
『東京の古墳を歩く』 
発行所:祥伝社

監修:戸沢 充則
『東京の三万年2弥生・古墳時代』 
発行所:柏書房

著者:東京遺跡散策会
『関東 古墳探訪ベストガイド』
発行所:メイツ出版

著者:東京国立博物館
『東京国立博物館図版目録〈古墳遺物篇 関東 1〉』
発行所:東京国立博物館

著者:東京都教育委員会
『東京都埋蔵文化財白書‐東京都における埋蔵文化財保護の現状と課題』
発行所:東京都教育庁社会教育部文化課


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古墳の歩き方
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