「論」ブログヨシ樹

様々な話題を縦横無尽に語るパラダイムの転換を惹起するブログ。老若男女必読!

プーチンよ、神の怒りを思え!

2022年03月14日 | その他



過日、近所のスーパーマーケットで食糧を購入して食品をレジ袋に詰めていたら立方体の募金箱が傍に置いてあったことに気がついた。その箱にはウクライナのための義捐金である旨の文字が記されていた。箱の底には相当な硬貨が溜っていて、その上に少なくない枚数の紙幣が幾重にも重なり合って敷きつめられていた。なぜ多くの義捐金が入っていたことが、そこまで克明に判ったのか、というとその箱は樹脂製の透明な箱だったからだ。件の箱の中には、たくさんのお金が入れてあったので巷間の人々のウクライナでの戦争に対する関心の高さがよく分かった。

連日、ロシアによるウクライナ侵攻がマスメディアをとおして報道されている。そして多くの人たちがテレビやインターネットなどでウクライナの情勢を視聴しているようだ。それはスーパーでの一件でも十分に判った。わたしのブログでは原則として政治問題をあえて取り上げることはしていない。時事問題もそうだ。しかし戦争となれば話は別である。吾人が当該戦争を等閑視して沈黙するならば石が声を上げるだろう。わたしもウクライナのために何かしたい。わたしの記す記事は、ほとんど影響力はないが微力でも構わない。ウクライナの人々のためにペンを執って戦いたい。

戦うときは銃をとって一兵卒として戦うべきだ、という批判もあるだろう。わたしのいうペンでの戦いなどロシア軍に何の痛痒も感じさせることはできないのかも知れない。わたしの書く記事は、ひもじい思いで苦しんでいるウクライナの人々の腹を満たすに足りない。寒さで辛い思いをしている人々が暖をとる支えにもならない。亡くなった愛すべき人の傍らで涙を流して悲嘆にくれている人の心を慰めることもできないかも知れない。

それでも記さずにはいられない。ペンでの戦いなどレトリックに過ぎぬ、と一蹴されるかも知れない。平和実現から遠く離れている、と眉をひそめる向きもあるだろう。けれども、枯れ木も山の賑わいである。世界中の世論をもってロシア軍を、そしてプーチンを包囲して、この今世紀最大の愚行に少しでもブレーキをかけるべく努めようではないか。吾人は健やかであっても七十、八十までしか生きられない。百歳で生涯を終えたとしたら、それはもう大往生である。この人生のなかで、いかに栄耀栄華を誇ったとしても、それはこの世での話に過ぎない。来世には、この世で苦労して得た財産をいささかも持っていくことはできない。

ウラジーミル・プーチンよ、冷酷非情の暴君よ、あの世にプーチン宮殿を持っていくことはできぬ。豪華絢爛な住まいだろうが、とんでもない価格のクルーザーだろうが何だろうが事情は同じだ。お前は、お前の財産やお前の愛する家族を残して必ず現世を去るときが来る。我々は一歩一歩、確実に死に向かって歩みを進めている。最後の審判は必ずあるのだぞ。多くの人々の血を流したその責任は間違いなく追及される。神の法廷に立たされたそのときどう弁明するのか。神の怒りを思え!

それにしても非道い。無辜の一般市民を殺すことはないじゃないか。とりわけ報道によると、いたいけな子供たちがいる学校や病院を狙い撃ちにしている、という。何の罪もない少年少女たちが馬鹿なロシアの指導者が始めた戦争の犠牲になっている。これは断じて許せない。ある少女は弾が命中して片腕を切断することを余儀なくされた、という。けれども、こう述べるのは、はなはだ酷薄な態度かも知れぬが、あえて言う。彼女はまだいい。生きているのだから。幼くして命を落としている子供たちが少なくないのだ。


何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために


上に記した文は峠三吉の「仮繃帯所にて」という詩の一部である。もう少し彼の詩を引用したい。


ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)


この詩はロシアのウクライナ侵攻に憤った日本の詩人が最近、記したものではない。終戦間近のヒロシマで原爆が投下された直後の惨状を詩の形式にして世に訴えたものである。詩人はすでに鬼籍に入る。これでは同じではないか。今のウクライナは第二次世界大戦のときの日本の惨状と全く同じではないか。人類は懲りていない。いささかも懲りていない。歴史から全く学んでいない。教訓を引き出せていない。活かせていない。

そうだ、「歴史は繰り返す」のだ。なぜ歴史は繰り返すのか。なぜ悲劇は終わらないのか。なぜ多くの人々が平和を願うのにもかかわらず戦争が勃発するのか。読み手は真摯に考えなければならない。わたしなりの解答はある。それは、わたしの書いた他の記事を読めば分かる。この記事では、あえて述べるのは控える。読者はよく考えてみてほしい。

いとけない我が子が病院に搬送されるも助からず若い母親が泣き叫ぶ姿を捉えた映像を見た。現世における地獄だ。子供たちは曇りのない瞳で大人たちの醜い争いをじっと見つめている。その澄んだ瞳で大人が傷つけ合い、殺し合うさまを見つめている。恥を知るがいいのだ。少年よ、少女よ、今はじっと耐えるしかない。残念ながら今のわたしは、そう述べることしかできない。国外へ避難して生きながらえてほしい。そして、いつの日か祖国の復興に力を尽くしてほしい。おそらくは少なくない時間を要するだろう。けれども必ずその日は来る。そのために国内に留まって父や兄は命懸けで闘っている。もしかしたら母も銃後で休む間もなく懸命に働いているかも知れない。

原爆が落ちた後の悲惨な現場を目の当たりにしたときの件の詩人は当時はたして復興後の現在の日本を想像することができただろうか。ウクライナ国内では建物が滅茶苦茶に破壊され、道路はズタズタにされ、自動車は真っ黒に焦げ、周囲が瓦礫の山になっている。何よりも少なくない人々が亡くなっている。現場はウクライナの市民、ウクライナ兵、ロシア兵の亡骸が重なり死屍累々のはずだ。しかし、必ずやもともとの緑豊かな美しい街を取り戻す日が来る。人々が国内外から戻って来る日が来る。その日がいつになるのかは誰も分からない。ウクライナの復興は国内外の子供たちの双肩にかかっている。それが一縷の望みだ。

戦争は最大の不条理といわれる。今回のロシアによるウクライナ侵攻は突然の出来事だった。ウクライナの人々も驚いている。そして、世界の人たちは少なからずショックを受けた。人々は、なぜ文明が発達していて教育も普及しているはずの今世紀に戦争が起きるのか訝しく思っている。しかしながら聖書を読んでいるキリスト者は少しもうろたえない。なぜなら旧約聖書のなかの「伝道者の書」に以下のように記されているからだ。少し引用してみたい。


一つの時代は去り、次の時代が来る。
しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は沈み、
またもとの上る所に帰って行く。
風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。
しかし、その巡る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、
海は満ちることがない。
川は流れ込む所に、また流れる。
すべての事はものうい。
人は語ることさえできない。
目は見て飽きることもなく、
耳は聞いて満ち足りることもない。
昔あったものは、これからもあり、
昔起こったことは、これからも起こる。
日の下に新しいものは一つもない。


(旧約聖書「伝道者の書」1章4節から9節まで)

聖書は「昔起こったことは、これからも起こる」と不気味な指摘をしている。あたかも将来、起こる出来事を予言しているかのようだ。換言すれば「歴史は繰り返す」のだ。聖書は戦争を正当化しようとしているのだろうか。人々が互いに血を流し、殺し合うことを是認しようとしているのだろうか。決してそんなことはない。聖書は歴史的な事実を述べているに過ぎない。

ウクライナでの戦争は決して対岸の火事ではない。もしかしたら日本の今の時代は将来、戦前と呼ばれることになるかも知れない。実は今の日本は戦間期の束の間の平和を享受しているだけなのかも知れない。そうでないと誰が断言できようか。わたしはウクライナでの戦争に強い憤りを覚えているし、遠く離れた日本にいるとはいえ他人事とは思えない。そして平和を心より望んでいる。現在、副業で子供たちの勉強を見ているわたしは純真な男の子や女の子が銃声や爆撃に怯えて涙を流す光景を正視するに耐えられない。ひとりのキリスト者としてウクライナの平和のために神に心より祈りを捧げたい。最後に聖書の言葉を引用して擱筆する。


そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」


(新約聖書「ヨハネの黙示録」21章3節と4節)
   

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。