雄一郎の半生

こんな人生もあるのですね。ノンフィクションの半生記
全ては、書けませんが。。。

一年も早く過ぎ

2020年12月29日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

 

楽しいときは、早く過ぎるものです。

わずか、1年間の訓練校の生活も

終わりに近づき、就職先を選ばなくては

ならなくなってきました。

本人の意向も含め先生達が聞き取って

決めていました。私は、卒業生が以前

就職している電気工事店に就職が

決まりました。ここの場所は、

自宅から訓練校のちょうど中程の

距離で、通学していたバスの停留所の

近くでした。

実際、就職してみると力仕事が多く

勿論、初めからは配電盤の配線工事など

させてもらえず、穴掘りや、コンクリートの

ハツリ、パイプのねじ切りの仕事が

毎日の日課でした。3ヶ月ほどして

いやけが、刺しててきた頃の帰り道、

私は、バイクで通勤していましたので

家に向かっていると、後ろから私を

追いかけてくるバイクがありました。

そして、私の名前を呼びます。

なんだぁと、思いバイクを止めると、

訓練校のI君でした。

久しぶりだなぁ、とかで、近くの町の

喫茶店で話をする事になり、

家とは反対方向に引き返しました。

そして、喫茶店は、初めてなので

何を注文したら良いか分らずに、

ミルクティーを注文したら、

I君が笑いました。なんで、

ミルクテイーなんだよ。と

自分は、初めてでしたから

タジタジとしてました。

この後パチンコをしようと言う

ことになり、これも初めての体験

でしたが、友達とワイワイしながら

はじくパチンコは、玉が出なくても

楽しいひとときでした。

その後もI君と話し込み、深夜に

帰宅しました。もちろん、翌日は

起きられません。で、無断欠勤と

なり、家には仕事に行くと言って、

パチンコをしていました。

当然、自宅にも、会社にもバレて

この日から、今までの鬱憤を

晴らすかのような、毎日と

なっていくのでした。

 

次回につづく


訓練校の同期生

2020年12月25日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

訓練校に入ってからは、色々な人が

おり、今までの張り合いの無い

毎日が激変した。

訓練校では同期生の中にO君という

生徒が私の前の机に座って

いましたが、その生徒が、

かなりの変わり者で、まず、

手相が通常では考えられないほど

17歳にしては、しわしわなのです。

こんな手相は、老人の力仕事を長年

していたような手相でした。

そして、毎日のように早弁をして

いましたが、その食べ方は、

弁当の新聞紙を目の高さまで

持ち上げて、新聞紙の中に

頭を突っ込んで廻りを手で

覆って食べています。

こんな生徒ですので次第に、

目下の私たちからもバカにされて

かまわれています。休憩時間になると

みんなで、小突き回したり、

服を引っ張ったりされていました。

(いつも、だらしない服装でした)

怒った格好と、その言い回しが面白く

何時も、右手の親指で前歯をこする

癖もあって、みんながそのしぐさを

マネをして笑っていました。

しかし、本人はケンカの強いやつが、

教室に入ってくると途端に、

屈服しそのやつのの言いなりに

なります。土下座しろ。と

言われれば、直ぐにでも

土下座をし、ビンタをハラレても、

出っ歯を向きだしたまま、

直立して下を向いています。

こんなしぐさが、また、みんなの

笑いをさそって、また、

かまわれていました。

 

先生までが、「バイクで来るなと

言っているのに止めないと、

バイクの燃料タンクに砂糖を入れ

ちゃうぞ」とか言って、かまっていました。

そんなO君の父親は、ある有名校の

講師をしている。とか、

母親もどこかの高校の先生だ。

とかのうわさもあり、謎の部分も

多い同期生で、今でも印象に残る

生徒でした。

 

私は、その年の秋に自動2輪免許を

やっとの思いで、教習所にまで通って

取り、冬には250㏄のバイクに

乗っていましたが、

後に、このバイクで通勤の帰りに

あの、悪友I君とすれ違うのです。

そして、喫茶店へ。

 

次回につづく


この一年の間は・・・

2020年12月22日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

16才の年に訓練校に入りました。

そして、通学の為に、15年生まれ

育った村を離れて、母の経営する、

ホテルに住み込みをして、ここから

バスで訓練校に通うことになった

のです。

訓練校は、いろんな人たちが一緒

に技術を身に付けに集まって

いました。しかし、私も含め

落ちこぼれも多く集まっています。

この一年の間には、今まで話には

聞いても実際には見てないこと

なども、目の当たりにしました。

 

電子科には男子が30人ほどで

教官は男性2人が担当しています。

当時19歳の同期生が、

ある日の朝、顔色が蒼く、

ろれつが回らない状態で

教室に入ってきました。

学生服の前ボタンをはずして、

何かを上着の中に入れている

様でした。

授業中にもその学生服から、

ビニールをちょろちょろ出して、

口をくつけています。

当時、シンナー遊びが流行り

だした頃でこの同期生は、

シンナーを吸っていたのです。

もちろん、教官も分かって

いたのでしょう。休憩時間に

職員室に呼ばれて、本人が

帰ってくると、

いきなり、「俺はもう辞める」と

言い出し、この日を境に教室に

現れませんでした。

 

パチンコの好きな生徒もいました。

休み時間になると、どこの

パチンコ店は今玉を

だしている。ことの、明日は

開店だ。とかいう話ばかりで、

あまり、儲かったとかいう

話はなかったでした。

 

私のいた電子科の下の階には、

旋盤などの技術を養成する科が

あり、その科からよく、遊びに

来ていたI君がいました。

ケンカが強く、一つ上の生徒

からケンカを売られたときに、

牛乳瓶を割り向かったとか、

私より背が高く、ほっそりとして

いますが、面白い生徒で同じ年

でした。そしてこのI君との出合いが、

私のこの後の人生を

大きく左右したのです。

 

次回につづく


進学を拒否

2020年12月18日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

中学生生活も、いよいよ終盤になり進路を

決めなくてはならなくなっていました。

私は、数学が不得意な割には、

理系が好きで、中学に入ってからは

当時のコンピューターに関心があり

自宅でキットを組み立てたり、

今で言う、ジャンク部品などを

集めては、インターフォン等を作って

遊んでいました。なので、高校は

県内でも有数の工業高校へ入りたいと

学力も無いのに思っていました。

もちろん、担任の先生は、入学は

無理と分かっていますから、面談の時に

わざと読めない漢字を、指して

「じゃあ、この字は何と読む」とか、

意地悪な質問をします。

その漢字は、「臨む」でした。

当時は、もちろん読めません。担任は

「この漢字も読めないようだと無理だね」

と、諭します。そんなことは分かっていました。

自分の実力では、進学できないことは。

では、なぜ、三者面談などで希望したかと言うと

県立で、通学にも近く、学費が安かったからです。

当時は、母は、旅館業を始めたばかりで

家には、一銭のお金もないと思っていたので、

家には負担を掛けたくなかったのです。

私立ならどこでも入学はできたのでしょうが

学費が高く、自分としては希望の分野もなく

乗り気ではありませんでした。

実は、学費よりも勉強したくは無かったのです。

もう机に向かうのが嫌でたまりませんでした。

これが正直一番の理由でした。

母は、希望校に入れなくても私立に行けと、

行ってきましたが、県立に入れないなら

進学はしない。と言って困らせました。

母たちも、仕方なくそれでは、当時の

職業訓練校に行けと、言い出しました。

入試がないのが分かり、私は行ってみるか。

と、思い始め、そこには電子科という科が

あるというのです。それで、入校することに

しました。しかし、この訓練校は、1年制で

しかも、16歳から高齢の人まで一緒に

学ぶ訓練校だったのです。

そして、後にここで知り合った友達との

再会から、私は今までの抑えられた

抑うつの反動が出るのでした。

 

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中学生になってから母の仕事が・・・

2020年12月15日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

中学生になり私は、これまで

では一番楽しい生活をしていた。

部活も2年までは、陸上部で

汗を流し、文化部は科学部に入り、

先輩達と楽しい実験や会話に心が

弾んでいた。

しかし、勉強は相変わらず苦手、

中学になると1クラスが増えて

4クラスとなり学年の人数は

田舎の学校だが160人ほど。

その中で、私の平均順位は、

良くて上から40から50番台、

悪いと100番台を行ったり

来たりの成績だった。

この頃は、日本の経済も成長期で

何でも消費、消費に日本中が沸いて

いるようだった。

こんな時に、後に母に聞いた話では

旅館を始めるきっかけは、

ある道路の側道で夜な夜な、

車の窓に新聞紙を貼ったり、窓を

曇らせたりして、アベックがデート

をしていた場所が、あちこちに

あったという。これを見た母と母の男が

この近くに、今で言うラブホ。当時は

旅荘とか、モーテルとかいう旅館を

建てたらお客が入るだろう。と、

いうことで、母の叔父などから資金を

捻出して、細々とラブホを始めたらしい。

これが意外に当たったのだった。

そして、私の人生にもこの後、この旅館

を建てた立地が影響して来るのです。

 

次回につづく