雄一郎の半生

こんな人生もあるのですね。ノンフィクションの半生記
全ては、書けませんが。。。

進学を拒否

2020年12月18日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

中学生生活も、いよいよ終盤になり進路を

決めなくてはならなくなっていました。

私は、数学が不得意な割には、

理系が好きで、中学に入ってからは

当時のコンピューターに関心があり

自宅でキットを組み立てたり、

今で言う、ジャンク部品などを

集めては、インターフォン等を作って

遊んでいました。なので、高校は

県内でも有数の工業高校へ入りたいと

学力も無いのに思っていました。

もちろん、担任の先生は、入学は

無理と分かっていますから、面談の時に

わざと読めない漢字を、指して

「じゃあ、この字は何と読む」とか、

意地悪な質問をします。

その漢字は、「臨む」でした。

当時は、もちろん読めません。担任は

「この漢字も読めないようだと無理だね」

と、諭します。そんなことは分かっていました。

自分の実力では、進学できないことは。

では、なぜ、三者面談などで希望したかと言うと

県立で、通学にも近く、学費が安かったからです。

当時は、母は、旅館業を始めたばかりで

家には、一銭のお金もないと思っていたので、

家には負担を掛けたくなかったのです。

私立ならどこでも入学はできたのでしょうが

学費が高く、自分としては希望の分野もなく

乗り気ではありませんでした。

実は、学費よりも勉強したくは無かったのです。

もう机に向かうのが嫌でたまりませんでした。

これが正直一番の理由でした。

母は、希望校に入れなくても私立に行けと、

行ってきましたが、県立に入れないなら

進学はしない。と言って困らせました。

母たちも、仕方なくそれでは、当時の

職業訓練校に行けと、言い出しました。

入試がないのが分かり、私は行ってみるか。

と、思い始め、そこには電子科という科が

あるというのです。それで、入校することに

しました。しかし、この訓練校は、1年制で

しかも、16歳から高齢の人まで一緒に

学ぶ訓練校だったのです。

そして、後にここで知り合った友達との

再会から、私は今までの抑えられた

抑うつの反動が出るのでした。

 

次回につづく