サンチョパンサの憂鬱

サンチョパンサの食卓(3)

宗教に偏見など全くない事をお断りした上で述べたいと思う。
宗教に傾注し敬虔な信者となる人には二通りタイプがある。

一つは……『人生の何故?』をとことん突き詰め追求した挙げ句に、生きる事に理屈も理論もマニュアルもこれといった正解はない。
『考えることじゃなくただ受け容れひたすら感じ取ることなのだ』……という結論を得て入信する……自分では分からないという境地に人智を尽くして到達出来た人である。

もう一つのタイプは『自分で考えることを諦めた人』である。
こういうタイプは『論語知らずの論語読み』となる人である。

この二タイプは結果的には『そういうもんた!』という同じ教えの結論を得るけれど……そこに至るプロセスには決定的な違いがある…。

『人を愛しなさい!』という教えに対して前者は盲信・盲従する。後者は自分の無知・無力を知っているからその教えに最善を尽くすのである。

なんて長い前段!書いてて嫌になりそう……。

何やら尤もらしく数字を並べ文意文脈のない評論が添えられているグルメサイトを盲信し群がる人の多さで『安心する危うさ』を感じないか?

そんな軽佻浮薄な人間は……薄っぺらく仕入れた薄っぺらい評価・評論を鵜呑みにする。
『……らしい!』……と。
気が付けば……食の分野に限らず、政治・経済・文化あらゆるゾーンにそんな軽佻浮薄な判断で軽挙妄動する人種が闊歩している。

『自分で感じ自分で考える』という習慣を大人が率先垂範して手放して来たこの国の風は妙に生暖かく怪しくて騒がしくて寂しく脆弱だ。

長く一人の性倒錯者に忖度し、報じるべきニュースに蓋をし続けたマスコミ。
裏カネ問題で主役をやりながら未練タラタラ、利権を手放せない多数派自民党。

十年後に領収書を公開?……殆ど意味をなさない『改正法?』……選挙を考え、抵抗した振りの野党もその性根は見事にシンクロしている。

自分の為に自分が味わい食する食事。
それをチョイスする基準が『皆も行って食べてる』となる恐ろしく子供染みた無思考、無感覚振りである。

そのプロセスに自分で考え決めた事って何?がありますか?

思い上がり?って思われても良いからこの際、言っちゃおうっと……。
この国にはほんの一握りの人達を除いてプロフェッショナルというものが居なくなった。

アマチュアの客にアマチュアのお店。それを紹介するアマチュアのマスコミ・情報誌とやら。

学校教育の世界も政治の世界にも同じ流れが定着してる。
アマチュアの教師、アマチュアの教育委員会、そしてロボットと化してしまった少年少女達。
彼等もアマチュアの子供達なのである。

老若男女の殆どが引き攣った作り笑いを浮かべながら『皆の動向ばかり』を探り合ってる。

でもね?最近いい兆候もあるのです。
ここ一、二年年齢性別関係なく『お一人様』が本当に増えた。
彼等には『空気感』までをコストパフォーマンスの効果としてカウント出来る力がある。
彼等はサーブの距離感までを評価してくれる。

だから希望はある。
どんな状況の中にも夢は描けるのである。
自分の夢の無さを自分以外のせいにする人は多いけれど……。

先ずは人を語る前に、日々自分は自分に最高の接遇をしているか?
その自己疑問の中で一杯のビールを飲み干そう。

人の命一つさえ守れず粗略にしか扱えぬ教育委員会の人間は『家庭サービスが大変!』なぁ~んてなこと言ってる奴が多いんだろうなぁ。

自分がバグってしまってる事くらい自分で見付けなさいな。
そんな人種は『自分へのメンテナンスサービス』を長年忘れてしまっているのである。

僕は、こんな連中と食事を共にすることなんて考えられない。
ま、だからこそ今お一人様のお客様が増えているんだと思う……これ希望ある健全な兆候だと思いませんか。

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