高杉晋作

2018-01-30 06:00:11 | 日記
幕末の長州 高杉晋作 

奇兵隊をつくりました

若くして 病気に倒れました

「おもしきこともなき世をおもしろく」

好きな歴史上の人物です

そんな高杉に長州藩が




高杉晋作の斬首、長州藩が検討…岩国で文書発見

長州藩家老の「手控」。切腹の部の5人目に「高杉和助」の名がある(岩国市立博物館「岩国徴古館」所蔵)

幕末の長州藩が1864年(元治元年)7月の禁門の変に敗れた後、

奇兵隊の創設者・高杉晋作(1839~67年)の切腹や斬首を検討していたことを示す文書が

山口県岩国市の市立博物館「岩国徴古館(ちょうこかん)」が所蔵する長州藩岩国支藩の藩政史料から見つかった。



禁門の変後、第1次長州征討軍参謀の西郷隆盛は、長州藩に急進派藩士の処分を求めた。

当時、同藩では幕府に恭順する保守派が藩政を掌握。

岩国領主・吉川経幹(きっかわつねまさ)は幕府との調停役を務めていた。



晋作に関する文書は2点あり、一つ目は長州藩家老・志道安房(しじあわ)が64年11月9日

征討軍の前線基地があった広島に向かう途中、岩国領に立ち寄った際の「手控(てびかえ)」。

藩の処分案が記され、晋作は「高杉和助」の名で「切腹之部」にあった。

二つ目は、晋作ら急進派7人の名が書かれた「斬首状写(うつし)」

「姦吏(かんり)と徒党を結び、上を欺き、下を惑わし、君恩を忘れ、度々亡命すること不義不忠の至り」

と晋作の罪状を挙げ、「斬首被仰付(おおせつけられ)候事(そうろうこと)」としている。


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