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京ことばと生活の知恵

暮らしの中の京ことばは、生活形態や街そのものが大きく変ったことで、多くが消えていったことは否めない。

ほめ方いろいろ

2007年06月04日 | Weblog
「きれいどすなぁ」「よろしおすなぁ」「さすがですなぁ」「ご立派どすなぁ」「お見事」「なんとも言えませんなぁ」

京のほめ言葉は、年代によっても違うが、それぞれ微妙にニュアンスが違う。

京都人の多くは、京風の気質を受け継いでいるというか、礼儀正しくもあり、たしなみも持っていて、物事に角をたてず、人間関係においても円満にいかす方法を知っている。

京都の人は、角の立つものいいはしません。

「あの人嫌い」とは言わず、「あの人、好きではおへん」と言います。

同じことでも角が立たず、嫌いさ加減が薄らいで、それでいて、自分の気持ちははっきりと主張しています。

こんな、巧みなものいいがあります。

「あの人は、あんまり好きやおへんけど、面倒見はよろしいですなぁ」

一旦は好きでないといいながら、ほめることで、悪口にならないように持っていく。

ほめるというのは、人間のコミュニケーションの中で、一番こころやさしくて、温かいものどす!



始末せなあかんえ!

2007年06月03日 | Weblog
「ケチと始末」について、ケチは払わねばならないお金も払いたくないというのがケチで、「気前が良い」の反対です。

京都の人が「始末する」というのは、片付けるという意味でもなく、ケチるということでもなく、無駄遣いをしないということです。

大阪の人がケチケチしてお金を貯めるとしたら(違っていたらごめんなさい)、
京都の人は始末しながら金を貯めるになります。

「始末せなあかんえ」とよく言われました。

京の家庭料理、おばんさいを紹介された料理研究家の大村しげさんの随想の中にも
「おついたちにはにしん昆布を炊いて、あずのご飯におなますです。

八のつく日はあらめとお揚げの炊いたん(煮たもの)で、十五日にはまたあずのご飯をたいていもぼう(小芋と棒だらの煮物)をおかずにしました。

きわの日(月末)はおからをいりますし・・・戦前まではこうであったと断っておられます。

またひねた水菜の漬物が残ると、次の日には、その残りとお揚げさんと豆腐を炊いた物をおかずにするといった、京の庶民のつつましい生活が伺えます。

おばんざいでは、ひとつの食材から何通りのお惣菜がつくれるか。それこそ、台所で女の才覚が伺えるところです。

一本の大根でも初日の新鮮な時は、にんじんと酢の物と大根おろし。二日目は田楽。三日目はおでん。

残った野菜はかす汁、お好み焼き、カレー。

「使えるものは使ってやる。

使える間は使うてやらな。

捨てるものはおへん。

なんでも置いといたら、いつか何かの役に立ちまっせ」と言っておられるように、捨てるのはいつでもすてられる。

捨てずに工夫して使ってやる。

始末するという考え方は、工夫を生むことになる。食材や物を捨てるような無駄は、京の女が最も避けてきたことで、「使い捨て」ではなく「使い切る」ことこそが京の始末の精神のように思います。

こんな話を耳にしたことがあります。

私は知りませんでしたけれど、京都には「にばんや」というのが有ったそうです。

露地の奥に、看板も無く、絹織物が盛んだった頃の貴重品である絹糸の残りや、余ったものをやりくりする所で、人件費よりも絹糸が高いと言われた時代のこと、たとえわずかなものでも捨てずに、利用されたそうです。

扱われる糸は、色も長さもまちまちですが、綴織(つづれおり)の帯を織る際に、少ししか使わない糸をわざわざ染めなくても、にばんやの色糸の中から探して使われたということです。

わずかな短い糸であっても捨てずに「もったいない、もったいない」と思う気持ちが、物を大事にすることに繋がるのだから、これは、ケチとは大違いです。

無駄遣いをせず、物を大切にするという「京の始末」は、見事に「にばんや」に生きていたのでしょう。

その「にばんや」も消えてなくなり、言葉すらも聞かなくなったということです。

一見(げん)さん

2007年06月01日 | Weblog
「京のぶぶ漬け」と「一見さんおことわり」に代表する言葉は、京都を語るときにはずせない言葉となっている。

意地悪京都人の定番みたいになっているが、受け取られる方の感じ方やニュアンスの取り違えで、京都人の陰険さに置き換えられてしまうことがあります。

一見さん=始めてのお客さんと言うことで、京都のお茶屋さんでは、昔は一見さんはお断りされたということを、聞いていました。

初めてのお客さんと分ると「おいでやす」とにこやかにむかえるものの、席が空いていても「すんまへんなぁ、予約が入っているのどっせ」

「また、この次にどうぞよろしゅう」と言われ、一見さんは諦めざるを得ないということです。

これは「いけず(いじわる)」ではなく、初めての方は、どんな目的で京都にこられたのか、どんな職業の方なのか、好みは、どんな話が喜ばれるのか等、ましてや、支払いは、どないしたらええのやろ・・・ということになります。

また、一見さんの中に、店の雰囲気を壊していても気づかない人がいて、お店側も、そんなお客様を取ったことで、常連客を失いかねないということになりかねません。

目の前のお金より、何時もの常連さんを大切にしてきたことが、習慣化したようで、店を守ろうとする京おんなの、心意気からなのだそうです。

この世知辛い現在、必ずしもそうとは言えないまでも、人に迷惑を掛けない、不快感を与えないと言う無言のルールを守り、うまく生きて行くための知恵や手法が、京都風といわれるものとして、見事に生きているのだと思います。


ほっこりしたなぁ!

2007年05月31日 | Weblog
お友達に頼まれて、久しぶりにお買物に付き合う。

彼女とは、中学2年生からのお付き合いで、自分の親との付き合いより長い期間が経過している。

なにか、虫が好くというのか、お互い結婚や子育て中は行き来が疎になることはあっても、未だに続いている。

そして、頼りにされている。

人に物を贈る買物で、これはどうかな?、これでいいかな?と振り回されるのである。
その後は、お定まりコースのティータイム!

「せんど歩いたので、ほっこりしたなぁ」と二人で顔を見合わせて、笑いながら話に花が咲くのどす。

この「ほっこり」というのは、「暖かい様」という意味はありますが、疲れた・がっかりした・いやになったと言うのが本来であるそうで、

このことを知ったのは、以外に最近のことでした。

軽い疲れの後、ほっとして暖かい気分になった、後の様をいうのだとばかり思っていましたが、そうではなく、疲れたとかがっかりしたという、

良くない状態のことを指していたとは、知りませんでした。

長年京都に住んでいながらも、分らないことは、まだまだ多おす。



じじむさいなぁ!

2007年05月28日 | Weblog
長年京都に住んでいると、「じじむさい」ということばをよくつかいます。

長く履き慣れた皮製の白色のスニーカーが、足になじんで履きやすく、何時も履いているものだから、色が変ってきていた。

お友達と待ち合わせに、今回もそれを履いて行くと
「じじむさいなぁ!」その靴と言われてしまった。

新しい靴が買われへんか?と、靴屋さんに連れて行かれながら、大笑いする。

なんとなく、捨てがたかっただけのこと・・・

友達が、店員さんに、「その靴処分しておいてね!」あんたが言うことばですか?

垢抜けしない、汚らしい身なりをするとじじむさいと思う。

人から頂く物は、われ先に・・・、自分の持っているものは絶対に分け与えない、
施すという気持ちのない人とも、なかなか付き合いにくいもので、
「あの人、じじむさいなぁ」といった表現もします。

「じじむさい」は、「爺さんくさい」というよりも「田舎くさい」とあざける感じになる。

趣味が悪い・金使いがいじましい・物言いや振る舞いが粋でない・気がきかず
手ぎれいでない・体裁が悪い・格好が悪い等の様をひっくるめて「じじくさいなぁ」といい、嘆き、笑ってさげすみます。

「むさい」は心がきたない・卑しい・下品・きたならしという意味だそうですので、京ことばは、全体としては優しく、柔らかに聞こえますが、含んでいる意味は
「きつい」ことばが少なからず有ります。

しかし、こういったきついことばは、なかなか、面と向かっては言わしまへん。



へぇ、おおきに。

2007年05月26日 | Weblog
未だ若かった頃、今から思うと経験が浅かった勢もあったのだろう!

久しぶりに友達に会い、旧友との集いが有ったので、誘ってみた。

返事は、「へぇ、おおきに」だった。

後日の確認も取らず、勝手に出席と決めてしまった。

当日、時間が過ぎても来られなかった。

現在のように、誰もが携帯電話を持っている時代ではなかったもので・・。

他の幹事さんに、「その人、確かに行くて、言わはったん?」と聞かれ、

「へぇ、おおきに」言わはったし、時間と場所を言うときました。

「へぇ、おおきに、だけか?」と念をおされてしまう。

「それやったら、来やはらへんわ!体裁よく断られたんやわ」

「・・・・・?」

私は、(へぇ、おおきに、お誘いいただいてありがとう、参加します)

と解釈してしまいました。

後々、良い勉強にはなりましたが、今でも、この失敗は忘れられません。

京都には、この手の言い回しがよくありますが、

先のごとく、良いように解釈できるし、逆の場合は

「お誘いいただいてありがとう、興味がないので、遠慮させてもらいます」

と、言う意味が含まれていたのであろう。

いえ、参加しませんと即答すると、気が悪いとの気遣いからか?

誘いに対する謝意を、述べられただけだったのです~。

最近、「おおきに、ありがとう」ということばを、

よく耳にするし、自分でも、言っている。

「へぇ、おおきに」より、こちらの方が多く使われています。

謝意の駄目押しのような、念の入った言い方ですが、

決して、断りや否定にならないとは、限らない。



お早よう、お帰り。

2007年05月24日 | Weblog
確か、昭和の時代が終わる頃まで、言っていたように思う。

毎朝赤い自転車に乗って山科という所から、京都の中心地にある郵便局に出勤する父を「お早ようお帰り」と言って母と一緒に送り出していた。

何時の頃からか「いってらしゃい」に変ってしまった・・・

今のように核家族ではなく、子供も大体が5~6人で子沢山の家庭が多かった。

父親が家長として一家の中心的な存在だったため、仕事にしろ他の用事にしろ外出する時には、無事を祈る気持ちがこめられていたのでしょう、皆で「はようお帰り」と言って送り出した。

他の本で読んだことがあったが、地方から出てきた学生さんが、京都の下宿先のおかみさんに、毎朝、このことばで送り出してもらって、身にしみて嬉しかった。

そして、はじめての京ことばとして印象に残ったそうです。

しかし、このことばも、単なる習慣化された挨拶ことばに過ぎないところも、あったようです。

現在、帰りが遅い旦那さんに向かって、「おはよう、お帰り」というと、
なんだか嫌味っぽくて、素直に喜べない御仁も、おいやすことでしょう?



あほやなぁ。

2007年05月24日 | Weblog
鞄に入れた積りのお財布が見当たらない。

一緒だった友達に打ち明けると「あほやなぁ」。

買物の途中で日傘を忘れ、探しに行ったが既に無かった。

「あほやなぁ」と妹に言われる。

気の毒やなぁと言って、慰めてはくれない!

が、ほんまに、あほや!と思う。

あほう・阿呆・阿房・あほくさ・あほたれ・あほらし・

あほかいな・あほなことしんと・あほな奴っちゃ・

あほと違うか・あほらしゅうて・あほやがな・

あほは風邪ひかん等々、とぼけたような意がある。

関東の「ばか」にくらべ関西の「あほ」はやわらかく感じます。

こんなことがありました。

中学生の頃からの友達が、何時頃から覚えたのか

ぱち○こにはまってしまい、

旦那さんには内緒で、ゲームで勝てる方法を教える会社?というか

団体に所属し、契約金として20万か22万円を支払ったそうです。

暫くすると、その方法は使えなくなったので、

他の方法を教えるので、もう10万円振り込むように言われ、

やっと、詐欺まがいの会社だったことに気が付いたそうです。

どうしようと相談されたが、諦めるより仕方がないようです。

と答え、思わず言ってしまいました。あほやなぁ~!


おおきに、はばかりさん。

2007年05月22日 | Weblog
私が子供の頃、半世紀以上も昔のことになるが、

未だ、回覧板(今でもあるのかな?)を回していた頃、

母親に言いつけられ、回覧板を届けに行くと、

となりのおばあちゃんから「おおきに、はばかりさん」

い言って、よく紙にくるんだ飴をもらった。

懐かしい記憶である。

今は、マンション住まいで、回覧板なるものは見かけない。

玄関脇のメールボックスに、管理会社が発行する文書が

投函されている・・・。

(「はばかりさん」というのは「はばかりさま」で

相手にお世話になった時や、一寸したことを頼む時の

挨拶の言葉で、恐れ入ります・ご苦労様の意です。

決してお手洗い・便所の意の「はばかり」ではないので

念のため申し添えます)


ええ加減なこと、言わんといて!

2007年05月21日 | Weblog
社交ダンスをしている友達が、
ペアを組むまでは行かないまでも、
気の合ったパートナーとよく組んで踊っていた。

一向に踊りの相手をしてもらえない女性が
あの二人は出来ていると、噂を流して歩いていた。

ご主人公認で、ダンスを楽しんでいた友達も
余りの根も葉もない話に、堪忍袋の緒が切れて
噂を流した本人に向かって
「ええ加減なこと、言わんといて!」
と、切れて抗議をしていた。

京ことばは柔らかくて、角が立たないような言い回しが
特徴だとも言えます。

「ものは言いようで角が立つ」と言いますが、
その知恵を生かしきっているのが、京ことばと言えるでしょう。

そんな京ことばの中にも、相手の胸に
グサッと突き刺さることばがあります。

それが「いわんといて」「ほっといて」にあたります。

これらは売りことばに買いことばであって、
これを言わせる相手にも、問題があるようです。

本来、この類のことばを言わさないように、また、
言わなくて済むように出来ているのが、京ことばだと思っています。