二月の立春、その前の夜、豆に鬼が追われる節分のことを、京都では少し前ま
で「お年越し」と呼び慣わしてきました。
近頃のお若い方には、殆ど通じません。なんぎなことどすけど、節分と言い直
してやっと通じるのどす。
昔、中国の暦の上では、一年を二十四等分してその節目(ふしめ)の日を
時節の分かれ目=節分と考え、色々な行事を執り行い、お祝い事を催して
きました。
特にその中で、冬至から数えて四十五日目にあたる立春を一年の始まりの日、
「立春正月」(りっしゅんしょうがつ)と定め、その前夜を「年越し」と呼ん
で逝く年の厄を祓い、来る年のさいわいを祈りました。
このお年越しの夜、祓われる「厄」は、実際には疫病であったり災厄であった
り、冬の寒気そのものであったりするのですが、次第に「人に災いをもたらす、
日ごろは隠れている異能のものたち」と考えられ、実体を伴い始めました。
これが節分につきもの「鬼」の由来で、「隠」(おに)とも書きあらわされて、
災厄の象徴として、節分の厄払いの格好の「悪役」に据えつけられていきまし
た。
また鬼は、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)によると、北東の方向=鬼門
(きもん)に住んでいると考えられていたことから、魔物や災いから都を守る
べく、京都の北東にあたる比叡山には地主神を祀る日吉大社(ひよしたいしゃ)
と、鎮護国家を祈願して壮大な延暦寺(えんりゃくじ)が創建されました。
また東北を十二支であらわすと、丑寅(うしとら)の方向にあたることから、
鬼にはその両方の特徴である、牛のような角と虎のような牙、そして腰には
虎の皮のふんどしという、私たちにも馴染みの深いあの鬼独特のイメージが、
次第に形作られていったようどす。
そしてその強面(こわもて)の鬼たちが投げつけられ、追われていくのが
「煎り豆」。
豆は「魔目」や「魔滅」に通じるとされ、豆をまく慣習は室町時代にはじまっ
たといわれています。
この煎り豆、きれいに洗い上げて水気をきった大豆を、焙烙(ほうらく)と呼
ばれる素焼きの浅い炒り器で、少しずつほろほろと薄皮が割れ、香ばしく焦げ
目がつくまで煎り上げます。
少し冷ましてから、小半(こなから=二合五尺)の枡(ます)に山のように盛
り上げて、神棚にお供えします。
夕方、下げさせてもらったお豆さんを、翌日の立春からはじまる新しい年の分
も含めて、自分の歳の数よりひとつ多くを、一握りでつかめると験(げん=縁
起)が良いといわれていましたっけ。
その後は、一番のお楽しみの豆まき。「福は内、鬼は外」と唱えながら、豆を
まき終わった戸口や窓をすぐにピシャリと閉めていくのどす。
これは一度追い出した鬼が、家の中へ戻ってくるのを防ぐためなのだそうで、
いつもならお行儀が悪いと叱られるほどの大きな音を立てながら、ガラス戸や
障子を思いっきり締め切っていくことの爽快さを、母は後年、さも楽しそうに
話してくれました。
お友達のお家の大店(おおだな)では、「福は内、オニは内」というそうどす。
オニとは大荷のことらしく、お商売人は大荷が入らんことには繁盛しないと
いうことから、「福は内、大荷は内」というんやそうどす。
私も真似をして「オニは内」といって、お友達に笑われたことがありました。