「よお! 御出家さん、あんたどこで修行してるんだね?」
「一休禅師のところです。」
「おお! あの淫乱坊主のとこか!」
町の人からこう言われるたびに、一休さんの弟子は困惑したかもしれません。
なぜ師匠は人々に笑われるようなことばかりするのだろう。なぜ悟りをひらいた禅僧として振る舞ってくれないのだろう。
あの人は本物なのだろうか。それともニセモノなのだろうか。自分はこの人についていっていいのだろうか。
弟子としては途中で旗を変えるのではなく、首尾一貫、師匠についていきたいと思いますが、心の疑念はどうしても消えません。
こうした心の疑念からすれば、師匠は矛盾しているように見えます。
悟った人が、あのように戒律を破って、人々から笑われる。
見ているこっちも恥ずかしくなる。
確かに、肉の目玉からすれば、恥ずかしくなることでしょう。しかし、「悟り」を肉の目から見ても、それは肉の色眼鏡で「悟り」を見ているに他なりません。
他方、「悟り」そのものの目から見れば、一休さんには何の矛盾もありません。
一休さんとって、「悟り」は仏教学における教説ではありません。
それはそのまま生きてやっていることです。だから、彼は仏教学における研究をする必要もなければ、高僧としての正しい振る舞いに閉じ込められる必要もない。
空気を吸う。花を見る。風に触れる。酒を飲む。女を抱く。
おお驚嘆すべき不思議よ、
わたしは酒を飲む!
わたしは女を抱く!
戒律の視点からすれば、聖職者が女を抱くことは恥ずべきことです。しかし、神秘そのものの視点からすれば、女に触れることは神秘です。
分別の目からすれば、神秘と煩悩は二見に分かれるものですが、神秘の目からすれば、神秘しかありません。
一休さんのまわりには、二見に住した人々からの毀誉褒貶(きよほうへん)の渦が常にありました。その渦は弟子の心の中でも渦巻き、その修行僧が真面目なら真面目なほど、深く悩んだことでしょう。
頼りたいけど信頼しきれない。そういう心理の中で悩んだはずです。
しかし、この台風の渦の中で、一休さんは台風の目として在り続けます。風はごうごうと響き、うなりをあげようとも、その中心の目は静寂の真只中におります。「色」はいかに動こうとも、「空」は動かない。
色即是空は彼にとって仏教理論ではなく、彼自身の人生でした。
今日も、アントニー・デ・メロの文章を引用して終わりにしましょう。
以下引用
<禅師>が<悟り>に達したとき、彼はそれをことほぐため、次のように書きました。
おお驚嘆すべき不思議よ、
わたしは木を切る!
わたしは井戸から水をくむ!
ほとんどの人にとって、井戸から水をくんだり、木を切ったりするような行為は少しも驚嘆すべきことではありません。
悟りの後でも何ひとつ変わりはしません。すべてがもとのままです。
あなたの心が驚きに満ちあふれているだけです。
木はもとのままの木、人々は以前そうであったのと同じ人々。そしてあなたも、もとのままです。まえと同様、気むずかしいときもあり、冷静なときもあるでしょう。賢いときも、愚かなときもあるでしょう。
ひとつだけ重大な違いがあります。
今やあなたは、これらすべてを違った目で眺めています。あなたは、これらすべてから以前より超然としています。あなたの心は驚きで満たされています。
引用おわり
(小鳥の歌 アントニー・デ・メロ 谷口正子訳 女子パウロ会 34-35頁)
「一休禅師のところです。」
「おお! あの淫乱坊主のとこか!」
町の人からこう言われるたびに、一休さんの弟子は困惑したかもしれません。
なぜ師匠は人々に笑われるようなことばかりするのだろう。なぜ悟りをひらいた禅僧として振る舞ってくれないのだろう。
あの人は本物なのだろうか。それともニセモノなのだろうか。自分はこの人についていっていいのだろうか。
弟子としては途中で旗を変えるのではなく、首尾一貫、師匠についていきたいと思いますが、心の疑念はどうしても消えません。
こうした心の疑念からすれば、師匠は矛盾しているように見えます。
悟った人が、あのように戒律を破って、人々から笑われる。
見ているこっちも恥ずかしくなる。
確かに、肉の目玉からすれば、恥ずかしくなることでしょう。しかし、「悟り」を肉の目から見ても、それは肉の色眼鏡で「悟り」を見ているに他なりません。
他方、「悟り」そのものの目から見れば、一休さんには何の矛盾もありません。
一休さんとって、「悟り」は仏教学における教説ではありません。
それはそのまま生きてやっていることです。だから、彼は仏教学における研究をする必要もなければ、高僧としての正しい振る舞いに閉じ込められる必要もない。
空気を吸う。花を見る。風に触れる。酒を飲む。女を抱く。
おお驚嘆すべき不思議よ、
わたしは酒を飲む!
わたしは女を抱く!
戒律の視点からすれば、聖職者が女を抱くことは恥ずべきことです。しかし、神秘そのものの視点からすれば、女に触れることは神秘です。
分別の目からすれば、神秘と煩悩は二見に分かれるものですが、神秘の目からすれば、神秘しかありません。
一休さんのまわりには、二見に住した人々からの毀誉褒貶(きよほうへん)の渦が常にありました。その渦は弟子の心の中でも渦巻き、その修行僧が真面目なら真面目なほど、深く悩んだことでしょう。
頼りたいけど信頼しきれない。そういう心理の中で悩んだはずです。
しかし、この台風の渦の中で、一休さんは台風の目として在り続けます。風はごうごうと響き、うなりをあげようとも、その中心の目は静寂の真只中におります。「色」はいかに動こうとも、「空」は動かない。
色即是空は彼にとって仏教理論ではなく、彼自身の人生でした。
今日も、アントニー・デ・メロの文章を引用して終わりにしましょう。
以下引用
<禅師>が<悟り>に達したとき、彼はそれをことほぐため、次のように書きました。
おお驚嘆すべき不思議よ、
わたしは木を切る!
わたしは井戸から水をくむ!
ほとんどの人にとって、井戸から水をくんだり、木を切ったりするような行為は少しも驚嘆すべきことではありません。
悟りの後でも何ひとつ変わりはしません。すべてがもとのままです。
あなたの心が驚きに満ちあふれているだけです。
木はもとのままの木、人々は以前そうであったのと同じ人々。そしてあなたも、もとのままです。まえと同様、気むずかしいときもあり、冷静なときもあるでしょう。賢いときも、愚かなときもあるでしょう。
ひとつだけ重大な違いがあります。
今やあなたは、これらすべてを違った目で眺めています。あなたは、これらすべてから以前より超然としています。あなたの心は驚きで満たされています。
引用おわり
(小鳥の歌 アントニー・デ・メロ 谷口正子訳 女子パウロ会 34-35頁)