宇宙的な作品を作り上げるなら、まず身近にある宇宙の体現者に話をきくことだという話でした。
宮沢賢治は、花巻の自然の中で、林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりから話を聞き、それを作品として書いたのでした。
そのように、身近な自然から宇宙の真実を聞き取る人もいれば、莫大な予算をもとに大気圏を抜け、宇宙空間に入っていく人達もいます。
宇宙飛行士のエド・ギブスンはこう述べたそうです。
「これは特筆すべきことだと思うんだが、宇宙体験の結果、無神論者になったという人間は一人もいないんだよ」(「宇宙からの帰還」 立花隆 中公文庫 317頁)
元から無神論者で、宇宙体験の後も変わらず無神論者だという人はいるようです。しかし、確かにギブスンの言う通り、宇宙体験が要因で無神論者になった人間はいないようです。立花隆著の「宇宙からの帰還」では、様々な宇宙飛行士の体験談が出てまいりますが、私が読んで最も興味深かった点は、次のことです。
多くの宇宙飛行士が宇宙空間での体験がもとで、人間として変わってしまうわけですが、NASAは本来、宇宙飛行士を神秘家に変える養成機関ではありません。
NASAはあくまでも宇宙を科学的に研究し、その実験と開発の成果をアメリカの科学と軍事力に役立たせるための組織です。ところが、そうした科学と軍事の結晶であるNASAから送り出された「選ばれた戦士」達が、宇宙から帰還した後には、科学や軍事やアメリカの信奉者ではなくなってしまうのです。
もちろん、宇宙に行く前も彼等はアメリカ人であり、科学者であり、キリスト教徒であり、それは宇宙からの帰還後もまったく変わりません。
しかし、興味深いことに、宇宙からの帰還後、彼はアメリカ人であり、科学者であり、キリスト教徒であるという次元を生きることに興味がなくなり、違う次元のことに情熱を注ぐようになるのです。
アポロ14号に乗ったエド・ミッチェルは、自身の宇宙体験についてこう述べます。
以下引用
月探検の任務を無事に果し、予定通り宇宙船は地球に向かっているので、精神的余裕もできた。
落ち着いた気持で、窓からはるかかなたの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。地球は無限の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎるほど美しい斑点だった。
それを見ながら、いつも私の頭にあった幾つかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は物質の偶然の集合にすぎないのか。宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果として生成されたのか。我々はこれからどこにいこうとしているのか。すべては偶然の手の中にあるのか。それとも、何らかのマスタープランに従ってすべては動いているのか。こういった疑問だ。
いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考えつづけるのだが、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといったほうがよいだろう。
それは不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験だ。詩的に表現すれば神の顔にこの手でふれたという感じだ。
とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。
引用おわり
(「宇宙からの帰還」 立花隆 中公文庫 334-335頁)
ミッチェルはこの体験の後、地球に戻ってから、スピリチュアル・ワンネス(Spiritual Oneness)の探求者になります。
しかし、彼は宇宙空間に行ったことで人生がひっくり返るほどの体験をしたにもかかわらず、その体験のために、宇宙体験は必ずしも必要なものではないと言います。
それについては次回に。
宮沢賢治は、花巻の自然の中で、林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりから話を聞き、それを作品として書いたのでした。
そのように、身近な自然から宇宙の真実を聞き取る人もいれば、莫大な予算をもとに大気圏を抜け、宇宙空間に入っていく人達もいます。
宇宙飛行士のエド・ギブスンはこう述べたそうです。
「これは特筆すべきことだと思うんだが、宇宙体験の結果、無神論者になったという人間は一人もいないんだよ」(「宇宙からの帰還」 立花隆 中公文庫 317頁)
元から無神論者で、宇宙体験の後も変わらず無神論者だという人はいるようです。しかし、確かにギブスンの言う通り、宇宙体験が要因で無神論者になった人間はいないようです。立花隆著の「宇宙からの帰還」では、様々な宇宙飛行士の体験談が出てまいりますが、私が読んで最も興味深かった点は、次のことです。
多くの宇宙飛行士が宇宙空間での体験がもとで、人間として変わってしまうわけですが、NASAは本来、宇宙飛行士を神秘家に変える養成機関ではありません。
NASAはあくまでも宇宙を科学的に研究し、その実験と開発の成果をアメリカの科学と軍事力に役立たせるための組織です。ところが、そうした科学と軍事の結晶であるNASAから送り出された「選ばれた戦士」達が、宇宙から帰還した後には、科学や軍事やアメリカの信奉者ではなくなってしまうのです。
もちろん、宇宙に行く前も彼等はアメリカ人であり、科学者であり、キリスト教徒であり、それは宇宙からの帰還後もまったく変わりません。
しかし、興味深いことに、宇宙からの帰還後、彼はアメリカ人であり、科学者であり、キリスト教徒であるという次元を生きることに興味がなくなり、違う次元のことに情熱を注ぐようになるのです。
アポロ14号に乗ったエド・ミッチェルは、自身の宇宙体験についてこう述べます。
以下引用
月探検の任務を無事に果し、予定通り宇宙船は地球に向かっているので、精神的余裕もできた。
落ち着いた気持で、窓からはるかかなたの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。地球は無限の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎるほど美しい斑点だった。
それを見ながら、いつも私の頭にあった幾つかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は物質の偶然の集合にすぎないのか。宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果として生成されたのか。我々はこれからどこにいこうとしているのか。すべては偶然の手の中にあるのか。それとも、何らかのマスタープランに従ってすべては動いているのか。こういった疑問だ。
いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考えつづけるのだが、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといったほうがよいだろう。
それは不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験だ。詩的に表現すれば神の顔にこの手でふれたという感じだ。
とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。
引用おわり
(「宇宙からの帰還」 立花隆 中公文庫 334-335頁)
ミッチェルはこの体験の後、地球に戻ってから、スピリチュアル・ワンネス(Spiritual Oneness)の探求者になります。
しかし、彼は宇宙空間に行ったことで人生がひっくり返るほどの体験をしたにもかかわらず、その体験のために、宇宙体験は必ずしも必要なものではないと言います。
それについては次回に。