宇宙飛行士だったエド・ミッチェルは、立花隆のインタビューでこう語っております。
「どんな神秘体験にも引き金になるものがある。私の場合は、たまたまそれが宇宙から地球を見るという体験だったということだ。同じ体験を別の人は高い山に登って地上を見たときに得られるかもしれない。私が山の高さではなく、何万マイルもの高みに登らなければ、その体験が得られなかったのは、多分、私の精神がかぶっていた殻が固すぎたからだろう。」(「宇宙からの帰還」 立花隆 中公文庫 340頁)
これを読んだ時、ミッチェルが言う「精神がかぶっていた殻」という言い方が、非常に興味深いものとして私の心に残りました。
殻が固かったゆえに、人類は莫大な時間と労力と経費をかけて宇宙空間にまで飛び出して行ったのですが、そこで見つけたものは、ミッチェルの言うコスミック・センス(Cosmic Sense)だったわけです。
そして、それは宮沢賢治が岩手県の農村の片隅で既に見つけていたものです。
彼はアポロ14号に乗らなくても、花巻の自然の中で、いつでも宇宙体験をしていたのです。
池田晶子(1960-2007)は、こう言っております。
以下引用
宇宙飛行士と地上の人々が、興奮して何事かを語り合っている
感動したとか素晴らしいとか
宇宙を飛ぶとはどんな感じかとか叫びあっている
こいつら、いったい何を信じているのだ
・・・中略・・・
宇宙飛行士は宇宙を飛んでいるのではなく、自分を飛んでいるのである
彼は自分を飛んでいるのである
要するに、何事も生じてはいないのである
今さら何に驚くつもりなのか
引用おわり
(リマーク1997-2007 池田晶子 トランスビュー)
青い鳥を外に探しに行って、散々探し回ったあげくに、青い鳥が居たのは自分の家だったというこの精神の構造は、なぜ徹頭徹尾こうなのか。
私はこの円環構造を極めて興味深く感じるのですが、結局のところ、青い鳥を自分の家にしか見い出せないのは、古今東西、どこでも同じです。精神は自己でしかないからでしょう。
結局、宇宙に行こうがどこに行こうが、すべてが自分であるという、これが最大の謎であり、最大の興味なわけです。真理の探求とは、結局自分を探究しているわけです。
エド・ミッチェルは、宇宙空間に行って、やっとそれがわかったのは、「私の精神がかぶっていた殻が固すぎたからだろう」と言っております。
殻が固ければ莫大な予算を立てて宇宙にまで飛び出す必要がある反面、殻に執着していなければ花巻の月あかりで十分なわけです。
以前に、宮沢賢治はロマンチストではなくリアリストだと言いましたが、そのリアリズムは彼の生き方にもあらわれています。
結局、賢治のようなリアリストからすれば、莫大な予算と大きな設備は必要ありません。宇宙大の人生を生きるにあたって、大掛かりな装置は必要ないのです。
大袈裟な設備や一流の材料がなくても、冷蔵庫にある適当な材料で、超一流の料理を作ることができるわけです。
つまり、どれだけ素晴らしい材料や設備が揃っているかではなく、どれだけ自分の精神がかぶっている殻が固いか。
これが最大の問題なわけです。
固い殻に閉じこもっている自分。これが自分自身の最大の問題であり、かつ人類最大の問題でもあるわけです。
「どんな神秘体験にも引き金になるものがある。私の場合は、たまたまそれが宇宙から地球を見るという体験だったということだ。同じ体験を別の人は高い山に登って地上を見たときに得られるかもしれない。私が山の高さではなく、何万マイルもの高みに登らなければ、その体験が得られなかったのは、多分、私の精神がかぶっていた殻が固すぎたからだろう。」(「宇宙からの帰還」 立花隆 中公文庫 340頁)
これを読んだ時、ミッチェルが言う「精神がかぶっていた殻」という言い方が、非常に興味深いものとして私の心に残りました。
殻が固かったゆえに、人類は莫大な時間と労力と経費をかけて宇宙空間にまで飛び出して行ったのですが、そこで見つけたものは、ミッチェルの言うコスミック・センス(Cosmic Sense)だったわけです。
そして、それは宮沢賢治が岩手県の農村の片隅で既に見つけていたものです。
彼はアポロ14号に乗らなくても、花巻の自然の中で、いつでも宇宙体験をしていたのです。
池田晶子(1960-2007)は、こう言っております。
以下引用
宇宙飛行士と地上の人々が、興奮して何事かを語り合っている
感動したとか素晴らしいとか
宇宙を飛ぶとはどんな感じかとか叫びあっている
こいつら、いったい何を信じているのだ
・・・中略・・・
宇宙飛行士は宇宙を飛んでいるのではなく、自分を飛んでいるのである
彼は自分を飛んでいるのである
要するに、何事も生じてはいないのである
今さら何に驚くつもりなのか
引用おわり
(リマーク1997-2007 池田晶子 トランスビュー)
青い鳥を外に探しに行って、散々探し回ったあげくに、青い鳥が居たのは自分の家だったというこの精神の構造は、なぜ徹頭徹尾こうなのか。
私はこの円環構造を極めて興味深く感じるのですが、結局のところ、青い鳥を自分の家にしか見い出せないのは、古今東西、どこでも同じです。精神は自己でしかないからでしょう。
結局、宇宙に行こうがどこに行こうが、すべてが自分であるという、これが最大の謎であり、最大の興味なわけです。真理の探求とは、結局自分を探究しているわけです。
エド・ミッチェルは、宇宙空間に行って、やっとそれがわかったのは、「私の精神がかぶっていた殻が固すぎたからだろう」と言っております。
殻が固ければ莫大な予算を立てて宇宙にまで飛び出す必要がある反面、殻に執着していなければ花巻の月あかりで十分なわけです。
以前に、宮沢賢治はロマンチストではなくリアリストだと言いましたが、そのリアリズムは彼の生き方にもあらわれています。
結局、賢治のようなリアリストからすれば、莫大な予算と大きな設備は必要ありません。宇宙大の人生を生きるにあたって、大掛かりな装置は必要ないのです。
大袈裟な設備や一流の材料がなくても、冷蔵庫にある適当な材料で、超一流の料理を作ることができるわけです。
つまり、どれだけ素晴らしい材料や設備が揃っているかではなく、どれだけ自分の精神がかぶっている殻が固いか。
これが最大の問題なわけです。
固い殻に閉じこもっている自分。これが自分自身の最大の問題であり、かつ人類最大の問題でもあるわけです。