どんな天才であろうとも、個人の頭脳には限界があります。
小さな自分一人の力だけで、永遠の芸術作品を作り上げることは不可能です。
ゲーテ(1749-1832)は葡萄(ぶどう)の蔓(つる)と話して詩作の構想を練ったと言われていますが、宮沢賢治の場合は、虹や月あかりと話して構想を練っていたのです。
そのことが如実にあらわれている作品があります。
「マリヴロンと少女」という作品です。
話の筋としてはこうです。
音楽を勉強している少女ギルダは、楽譜をもって城跡の近くの草の上にため息をしながら座っていました。ギルダは、お父さんの仕事の都合で、アフリカに引っ越すことになっていました。
彼女がため息をしながら座っていたその時、市庁ホールでコンサートを予定しているアルト歌手のマリヴロンが人々からのがれてやってきました。
憧れのマリヴロンと二人きりで話せるチャンスに恵まれたギルダは、なんとかしてこの偉大な芸術家に尊敬の念を伝えたくなり、躊躇しながらもマリヴロンに話しかけることにしました。
以下引用です。
少女:私はもう死んでもいいのでございます。
マリヴロン:どうしてそんなことを仰っしゃるのです。あなたはまだまだお若いではありませんか。
少女:いいえ。私の命なんか、なんでもないのでございます。あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます。
マリヴロン:あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、立派なおしごとをあちらへ行ってなさるでしょう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです。
少女:いいえ、ちがいます。ちがいます。先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派になさるお方でございます。
マリヴロンは思わず微笑いました。
マリヴロン:ええ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよそうでしょう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向うの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。
少女:けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います。わたくしはたれにも知られず巨きな森のなかで朽ちてしまうのです。
マリヴロン:それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。
少女:私を教えて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。
マリヴロン:いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすすむ人人は、いつでもいっしょにいるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。
引用おわり
(新編銀河鉄道の夜 宮沢賢治 新潮文庫)
宮沢賢治はマリヴロンの口を借りて、「時間のうしろ」と言いますが、過ぎ行く時間の背後にある無時間の時間をどう表現するか、それが音楽家や詩人や哲学者の本当の意図なのです。
そのために、彼らは鳥に学ぶのです。なぜなら、自然は常にその存在のうしろに「あと」を持っており、人間はそれに気づかない限り、永遠の作品を作ることは不可能だからです。
動物や植物は、本能によって、その「今という永遠」を生きることができます。
人間は、その高度な知性によって過去現在未来の時間軸を手に入れますが、反面、永遠性を忘れてしまいます。しかし、その失われた「今」を思い出すこともできるのです。
それが、マリヴロンの言う「あらゆる人々のいちばん高い芸術」の源泉です。
「向うの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。」
宮沢賢治の人生は、「それを見る」人生でした。
我々が宮沢賢治の作品に触れる時、我々も賢治の目を通して「それを見ている」のだと思います。
彼の作品が何年経っても色褪せない古典として残り続けるのは、我々に「それの見方」を教え続けているからだと思います。
小さな自分一人の力だけで、永遠の芸術作品を作り上げることは不可能です。
ゲーテ(1749-1832)は葡萄(ぶどう)の蔓(つる)と話して詩作の構想を練ったと言われていますが、宮沢賢治の場合は、虹や月あかりと話して構想を練っていたのです。
そのことが如実にあらわれている作品があります。
「マリヴロンと少女」という作品です。
話の筋としてはこうです。
音楽を勉強している少女ギルダは、楽譜をもって城跡の近くの草の上にため息をしながら座っていました。ギルダは、お父さんの仕事の都合で、アフリカに引っ越すことになっていました。
彼女がため息をしながら座っていたその時、市庁ホールでコンサートを予定しているアルト歌手のマリヴロンが人々からのがれてやってきました。
憧れのマリヴロンと二人きりで話せるチャンスに恵まれたギルダは、なんとかしてこの偉大な芸術家に尊敬の念を伝えたくなり、躊躇しながらもマリヴロンに話しかけることにしました。
以下引用です。
少女:私はもう死んでもいいのでございます。
マリヴロン:どうしてそんなことを仰っしゃるのです。あなたはまだまだお若いではありませんか。
少女:いいえ。私の命なんか、なんでもないのでございます。あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます。
マリヴロン:あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、立派なおしごとをあちらへ行ってなさるでしょう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです。
少女:いいえ、ちがいます。ちがいます。先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派になさるお方でございます。
マリヴロンは思わず微笑いました。
マリヴロン:ええ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよそうでしょう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向うの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。
少女:けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います。わたくしはたれにも知られず巨きな森のなかで朽ちてしまうのです。
マリヴロン:それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。
少女:私を教えて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。
マリヴロン:いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすすむ人人は、いつでもいっしょにいるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。
引用おわり
(新編銀河鉄道の夜 宮沢賢治 新潮文庫)
宮沢賢治はマリヴロンの口を借りて、「時間のうしろ」と言いますが、過ぎ行く時間の背後にある無時間の時間をどう表現するか、それが音楽家や詩人や哲学者の本当の意図なのです。
そのために、彼らは鳥に学ぶのです。なぜなら、自然は常にその存在のうしろに「あと」を持っており、人間はそれに気づかない限り、永遠の作品を作ることは不可能だからです。
動物や植物は、本能によって、その「今という永遠」を生きることができます。
人間は、その高度な知性によって過去現在未来の時間軸を手に入れますが、反面、永遠性を忘れてしまいます。しかし、その失われた「今」を思い出すこともできるのです。
それが、マリヴロンの言う「あらゆる人々のいちばん高い芸術」の源泉です。
「向うの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。」
宮沢賢治の人生は、「それを見る」人生でした。
我々が宮沢賢治の作品に触れる時、我々も賢治の目を通して「それを見ている」のだと思います。
彼の作品が何年経っても色褪せない古典として残り続けるのは、我々に「それの見方」を教え続けているからだと思います。