住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

世界で語られる仏教-Damien Keown氏の「Buddhism」に学ぶ②

2012年07月11日 07時31分48秒 | 仏教書探訪
多くの国々のプロの学者たちが西洋に仏教を伝えるのに重要な役割を演じた。1845年、フランス人のヨーゲン・ビュルヌフが「インド仏教史序論」を出版して、この7年後に法華経の翻訳をなした。ドイツでの仏教への興味は、1881年にヘルマン・オルデンベルグが「ブッダその生涯、彼の教説、彼の共同体」と題する本の出版によって活気づけられた。その世紀末にはアメリカ人のヘンリー・クラーク・ウォーレンが今日では一般的になったパーリ聖典から重要な名句集(1896)を翻訳し出版した。そしてこの頃、1893年シカゴで、最初の万国宗教大会が開かれた。

それは、世界の様々な信仰を持つ代表者が共に分かれて共通の課題について探求することを目的としていた。仏教側の代表には、スピーチや一般のミーティングで偉大な共感を与えたスリランカのアナガリカ・ダルマパーラ(1864-1933)がいた。彼は、その後10年の間に二度渡米して、マハー・ボーディ・ソサエティのアメリカ支部を創設した。それは最初の国際的な仏教徒の協会でありカルカッタを本部にしていた。そしてそのアメリカ支部は西洋での最初の仏教徒組織となった。

世紀が変わり間もなくすると、それまでメインだった南アジアの仏教から、チベット、中国を通った大乗仏教を含む研究が注目されるようになっていく。ベルギーの大学者、ルイス・デ・ラ・ヴァリー・プーシン、エティエンネ・ラモットらは、この分野で巨大な貢献をなした。さらには、彼の講義や影響力溢れる書籍によって禅仏教を西洋に知らしめた日本の仏教者、鈴木大拙(1870-1966)にも言及されねばならないだろう。

哲学、文化、そして芸術

仏教が西洋文化に浸透する第二は、哲学と文化、そして芸術によってである。ドイツの哲学者、アーサー・ショーペンハウエル(1788-1860)は、仏教に関心をもった最初のメジャーな西洋人哲学者だった。当時まだ信頼できる資料がなかったことで、ショーペンハウエルは不十分な仏教知識ではあったが、自らのいささか悲観的な哲学を確認していく作業の中で仏教を捉えていった。世界の宗教の中で仏教は、彼によって最も合理的倫理的に発展したものとみなされ、彼の文章の中に頻繁に言及されることで、仏教は19世紀の後半には西洋の知識人たちの注目を集めることになった。

英国では、エドウィン・アーノルド卿(1832-1904)が、1879年に有名なポエム「アジアの光」を出版した。その詩は、ブッダの生涯と教えをメロドラマ風に記述したもので、大西洋の両岸でビクトリア時代に、つまり19世紀の中産階級にとても人気を博した。アーノルドはイエスとブッダを分け隔て無く共通するものとしてとらえたキリスト教徒だった。彼は1885年にブッダが悟りを開いたブッダガヤの地を訪れて、荒れ果てた状態を復興するための基金を募るキャンペーンを行った。

そしてこの頃、つまりビクトリア時代の人々の間に超自然な神秘に興味が高まった。そこで1875年には、ヘンリー・オルコット大佐(1832-1907)とマダム・ブラヴァッキーが、すべての宗教の中心にあると信じられた密教的な真理の庫を開けることに捧げられた神智学協会を創設した。注目されるべきは、主に東洋の宗教にその焦点が当てられていたことであり、特に仏教は研究やサロンや客間の話題の人気ある題材となっていった。

ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセは、彼の書き物において仏教に言及し、とりわけ1922年に書いた「シッダールタ」は、沢山の言語に翻訳された。戦後にジャック・ケルアックの小説「ダルマ・バムス」「オン・ザ・ロード(路上)」はビート世代に人気を博し、その後に来るカウンター・カルチャー(反体制文化)にインスピレーションを与えることになった。折衷主義者で哲学者のアラン・ワッツは、一般読者層を引きつける禅の本を沢山書いたが、それよりもさらにたった一つの仕事によって、それは禅よりも西洋哲学に多く言及しているのだが、「禅とオートバイのメンテナンスの芸術」を書いたM・ペルシッグが、少なくともその題名によって、仏教の中で禅が西洋で広く知られことを確かなものにした。

そして、映画も、西洋文化の中に仏教徒の考えを吹き込むのに役立った。ヘッセの小説「シッダールタ」が1970年代に大学のキャンパスでとても人気ある映画として上映され、さらに近年では、ベルトルッチの構想による「リトル・ブッダ」が、インドとアメリカでの場面が登場し、仏教が西側の文化の一部となりつつある際限を提示している。その話は、ブッダの生涯の物語をシアトルのアメリカ人の両親のもとに再生したチベットのラマを探す話に織り交ぜたものである。他には最近では、スコセッシの「クンドゥン」(この括弧内は訳者による補足・チベットの最高指導者ダライ・ラマ14世の、インド亡命に至るまでの前半生を描いた伝記映画。1997)。

ジャン・ジャック・アノーの「セブンイヤーズインチベット」(訳者による補足・Wikipediaより、1939年秋、登山家ハインリッヒ・ハラーは世界最高峰ヒマラヤ山脈への登山に向かった。時悪く、第二次世界大戦のためにインドでイギリス軍の捕虜となってしまった彼は脱獄し、チベットへと行き着く。チベットの首都ラサで生活をしていたハラーは、当時14歳で好奇心旺盛なダライ・ラマ14世と出会い、親しく交流する。ラサでの日々がハラーの荒んだ心に変化をもたらした。しかし、その生活も中国共産党の中国人民解放軍によるチベット国への軍事侵略によって終わりを告げることとなるのだった。1997)が挙げられよう。


つづく


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