かえるのへそまげた

めざせ社労士、ときどき言語聴覚士、最終的に百姓。

しかしとはいえ

2013-09-10 21:21:07 | Weblog
てんしょく。
2つの漢字、「天職」と「転職」では、だいぶ意味が違う。

自分にとって今の仕事が天職だと思っているし、一生を掛けてすべき仕事であると思っています。

しかし。
とはいえ。

これからの10年間も言語聴覚士であり続ける必要はあるのか。
天職といえども、転職しても良いのかも、とも考える。

しかし。
とはいえ。

転職するとして、どんな職業が出来るのだろうか。
まっさきに浮かぶのは、塾講師。

しかし。
とはいえ。

パソコンは使える。ホームページも作れる。
コミュニケーションスキルも並以上に身についた。

しかし。
とはいえ。

自分自身が公務員であることで、副業が出来ない。
副業で稼げるのではないか。そう思ったりもする。

しかし。
とはいえ。


しかし。
とはいえ。
なのである。

東京オリンピックが決まったとテレビが言っていることを聞いて考えたこと

2013-09-08 10:43:11 | Weblog
2020年に東京オリンピックの開催が決まったと聞いて、

これでまた原発が動き始めることになるんだな、
(マスコミの影響とかではなく、国民がそれを望んだ結果)

と、なんだか醒めてしまいました。


経済効果が3兆円とテレビは言っていましたが、経済効果を生むためには、資本が必要であり、資本とは、ヒト・モノ・カネであり、それらを動かすのもまた人間でありますが、近代経済以降、人間は、人工のエネルギーというものを手に入れてしまっています。

原子力にかぎったことを言いたいのではありません。
石炭や石油は、気が遠くなるような長い期間に堆積された、いわば「時間の堆積物」を利用しているのであります。

魔物。

難しいのは、自分を含め、エネルギー革命によって生じた豊かさを現に享受してしまっていること。


<原発事故>は、われわれにとって幸せとはなにか、(いわきにいると、不幸せとはなにか、ということも見えてしまう)ということを考える良い教訓を与えてくれたはず、であるのに。

また、この国(この国に住むわれわれ)は忘れます、たぶん。


もっとも、開催が決まった瞬間から、そんなことを憂いているのはどうかと思いますが。
なんだか、世の中が浮かれているが、腹立たしい。へそまがってんのか。

読書録 「永遠の0(ゼロ)」

2013-09-01 21:11:57 | STとは関係がない本
永遠の0 (講談社文庫)
百田尚樹
講談社



太平洋戦争が舞台の小説ですが、どのような内容であるかはAmazonのサイトで確認してくださいm(_ _)m(手抜きの極み!)

読んだ後、なにを感じたかということを書きます。
失語症とはなんだろう、ということを考えました。
(断っておきますが、小説中には失語症は全く出てきません)

小説の中身というよりも、もっぱら個人的な体験が、そう感じさせたんだろうと思います。


私は、自分が中学生の時に、祖父が失語症になっています。
祖父は大正の最後の年の生まれだったので、終戦の年にちょうど20歳、ということになります。

祖父には、幼稚園のときから小学生の高学年まで、つまり失語症になる前まで、毎年の夏休みに、電車で2人旅をしていました。典型的な祖父と小学生の(かわいい)孫の旅行なので、昨今の社会情勢の話などをすることもなく、旅行中はおそらく、ずっと外の景色を眺めたり、電車のルートや時刻表の話をしていたのではないかと思われます。

自分が中学生のとき、私の祖父は脳の左側の脳梗塞を発症し、失語症になってしまいます。
私もそれなりにショックを受けたようで、中学から高校にかけては、人と話がうまくできない時期が続きました。(しゃべるって、どういうことだ・・・?)という思考が常に頭の中でグルグルと巡るようになってしまい、つまり、自然にしゃべるということが、出来なくなってしまいました。
確かに一時期、そういう時期がありました。

祖父も昨年亡くなり、ついに生きている間にはいちども言語訓練を受ける機会はありませんでしたが、デイサービスで塗り絵やカラオケに打ち込んでいる様子をみる限り、決して、不幸な晩年ではなかったように見えました。
もちろん、この経験は現在、言語聴覚士として、失語症の方やそのご家族の方と接するときのいしずえになっていると思われます。。

ここで取り上げたいのは、失語症になってしまったことによって、86歳まで生きた祖父から、祖父の若かりし頃の話を、ついぞ聴く機会はなかったなぁ・・・、ということです。

「語れなかった」ことの意味。


この小説「永遠の0(ゼロ)」は、主人公である26歳の孫が、自分の祖父について、太平洋戦争という時代をどのように生きて、どのように死んだのかを調べていくストーリーでした。

自分の人生を「語れなかった」(聞く側にしてみれば「聞けなかった」)という意味では、死んでしまうことも失語症になることも、その側面だけみれば共通するところがあるかもしれません。
でも、両者で決定的に違っているのは、心臓が動き、体が動き、なにより右半球が活動しているということ、だと思います。

若い頃の祖父の話を聞いてみたかったな・・・
そう思わせてくれた小説でした。