ゆるっと読書

気ままな読書感想文

【蹴りたい背中】あの頃、私も、「蹴りたかった」。

2005-01-28 00:40:11 | Weblog
「蹴りたい背中」
綿矢りさ・著
河出書房新社

教室の風景が、目の前に迫ってきた。

19歳の著者の現実は、本書に描かれている風景と、
どこかで重なり合っているに違いない。

たとえば、顕微鏡で観察するような実験の授業で、
先生が生徒にむかって「適当にグループをつくれ」
と言う。その言葉を受けて、生徒たちが、所属する
グループを思案する場面がある。

誰と同じグループになるかは、クラスの中で自分の
ポジション(ランク)を示す一種のゲームといえる
だろう。

ゲームに参加する生徒たちは、心の中で駆け引きする。
そんな駆け引きの一瞬が、主人公の視点から鮮やかに
描き出されている。

学校に通っていたあの頃。
自分は、友達や先生、異性と関係を、どんなふうに
感じていただろう?
心の中で、どんな駆け引きをしていただろう?
そんな記憶をたどりたくなった。

>負けたな。
>女性ファッション誌を授業中に一人で開くことので
>きる男子に比べたら、私のプリント
>の千切りなんか無難すぎる。(中略)
>この行為が見つかったら、彼はクラスのみんなに
>どれだけ気色悪がられるか分かっているんだろうか。

主人公は、ポジション・ゲームへ参加することに嫌悪感
を抱いている。

しかし、ゲームへの参加を、完全に無視しきれてもいない。

クラスメイトから距離を置き、一人でいることを選んだのだが、
気が重い毎日を過ごしている。そんな中、ゲームへ一切参加せ
ず、自分の趣味の世界の中を生きる男子「にの川」を発見する。

女性ファッション誌のモデルを追っかけている「にの川」を、
主人公は「蹴りたい」と思う。

クラスの中のポジションをみれば、おそらく「にの川」は最低
ランクに位置づけられるだろう。イジメの対象になるかもしれない。
そういう「にの川」を見下す気持ちも滲みでる。

一方で、クラスの中のポジション・ゲームに完全に無関心を決め
込み、自分自身の趣味の道を貫いている彼を羨ましく思う気持ち、
一種の嫉妬もある。

整理がつかない気持ちは、若さゆえに溢れる。
それが「蹴りたい」なのだろう。

10代から遠ざかりつつある今、私は、そんな心情に懐かしささえ
覚えた。

【希望格差社会】負け犬は、希望も持てない?

2005-01-15 22:53:27 | Weblog
「希望格差社会」
山田昌弘・著(筑摩書房)

最寄の駅に気になる人がいる。
駅の階段に住んでいる年配のオジサンだ。

オジサンは、駅の改札につづいている階段の一番下の段
を枕にして寝ている。

1月に入ってからは、かなり冷え込む日も多かったから
「どうするんだろう?」と気になっていたが、どこから
か薄手の布団を持ってきていた。

起きている時は、紙パックの日本酒「鬼ころし」をお供に
その日のスポーツ新聞を読んでいたりする。

オジサンが、どうして階段に住んでいるかは分からない。
しばらく姿が見えなかったのだが、その間は、社会福祉
関係の施設かどこかに保護されていたのかもしれない。

しかし、結局、オジサンは戻ってきて、今日も階段に座
っていた。

社会学者の山田昌弘氏の著書「希望格差社会」によると、
一度「負け組」に入ると努力をしても報われない社会に
なっている。

「勝ち組」と「負け組」の差はどんどん拡大する傾向にあり、
これは「経済的な格差」だけでなく、「負け組」は将来に
希望が持てないという「希望の格差」につながっているという。

本書の中では、「希望の格差」を作り出す社会の仕組みが、
教育や雇用の問題などを例にあげて解説されている。

どんなに豊かになっても、苦労や困難はある。
それを乗り越える力となるのが「希望」。「負け組」になると、
目の前に厳しい現実を抱えるだけでなく、希望も持てなくなる。

そんな社会の仕組みを解説されるほど、なんとも「お先真っ暗」
という気がしてきた。

駅の階段にいるオジサンのことを想う。
オジサンは、仕事もなく、住む家もない究極の「負け犬」なの
かもしれない。

あのオジサンは、これからの人生に希望を抱いているだろうか?
希望を抱くことも難しいだろうか?

オジサンは、今日、階段に座っていた。

雨が降っていたので、布団はきちんとたたんで、大きなビニール袋
に収納していた。
湿ってしまったのか、手袋を階段の手すりに干していた。

オジサンが、希望を抱いているかどうかは分からない。
しかし、私には、少なくとも悲観はしていないようにみえる。

むしろ、「希望格差社会」の中で生き抜いていくための、たくましさ
を感じるのである。



【在日】日本は、一番好きな国であると同時に嫌いな国でもある

2005-01-11 21:35:24 | Weblog
「在日」著者:姜尚中(講談社)

芸能人の誰それさん、実は「在日」らしいよ。
だけど、「在日」だったとしても「だから何なの?」って感じだよね。
同世代の友人達の多くは、「在日」について、特にこだわるところがない。

そんな友達も、初めて「在日」の人と出会った時には、「食卓には毎回キムチが並ぶのか?」程度の質問はするかもしれない。しかし、それ以上は、気が合えば互いに友達になるだろうし、仕事を一緒にすることもあるだろう。 私が育った地域では、大人たちが「在日」について差別的な発言をするような場面で出くわすことがなかった。「差別問題がある」と聞いたことがあったかもしれないが、「それって戦争の頃の話でしょ」みたいな、とても遠い印象を持っていた。

しかし、北朝鮮による拉致事件に関連して報道が盛り上がった時、同時に「在日」バッシングが起きた。拉致事件には関係のない「在日」のスポーツ選手や有名人のサイトが攻撃されたり、朝鮮学校の生徒が制服を切り付けられたりした。 これまで、「在日」について特に何も考えてこなかったが、一連のバッシングには異様な感じを受けた。日本人の中には、「在日」に対して特殊な感情を持つ人が、少なからずいるということを再認識させられ、そのバッシングの陰湿さに不快感を覚えた。

姜尚中・著の「在日」(講談社)を手に取った。正直にいうと、「在日」について知りたいという気持ちではなく、著者が母に対する思いを綴ったプロローグに興味を惹かれたからだった。

「在日」には、複雑な感情がある。「在日」のある若い世代は、「世界中で一番好きな国、日本。世界中で一番嫌いなのが朝鮮半島。同時に、世界中で一番好きな国、朝鮮半島。
世界中で一番嫌いな国、日本」その両方が自分の中にあるという。

それは極端に矛盾した言い方であるが、わたしにもそれと似たような感情がある。つまり、日本というのは一番好きな国であると同時に一番嫌いな国でもある。
朝鮮半島も一番嫌いな国だけれど、一番愛すべき国である。
そういう状態がなぜこんなに長く続くのか。 わたしには、「故郷」と「祖国」が自然に一致するアイデンティティが欠落しているからである。

読み進んでいた私の手は、思わず止まった。 本書の中には、著者の父や母、おじさんなど、在日1世の境遇や暮らしについて記されているが、最も惹きつけられたのは、著者が「在日」が抱える心情について記した部分だ。 「在日」問題というと、歴史的な経緯や差別のことに頭を奪われていた。「在日」として生きることの心情については、ほとんど想像が及んでいなかった。

「在日」を生きるということは、こういう複雑な気持ちを持たなくてはならないことなのか・・・。 日本人として生まれ、日本で育った私には、それでもやはり想像の域を出ない部分がある。「在日」と一口に言っても、様々な人がいて、その心情もまた多様なのかもしれない。ただ、これまでとは違う角度から、「在日」について考えられる気がしている。