暘州通信

日本の山車

38228 三韓と日本との交流

2008年07月06日 | 日本の山車
38228 三韓と日本との交流
馬韓(ばかん)にはじまる、百済(くだら)。弁韓 (べんかん)にはじまる任那(みまな)。辰韓 (しんかん)にはじまる新羅とともに三国が存在した朝鮮半島は民族もやや異なり、争乱が繰り返されて、平和に治まっていたわけではない。
神功皇后の三韓征伐はよく知られ、山車のうえに三韓征伐する神功皇后と竹内宿禰(たけのうちのすくね)が飾られる。京都祇園祭の船鉾、秋の高山祭で曳かれる金鳳臺など例は多い。神功皇后と竹内宿禰はもともと大陸から渡来した渡来系の人物であり、三韓征伐とはいうなれば憂国の講和使節であったと考えられる。
三韓はのちの百済、任那、新羅、北部の高麗(高句麗)の時代になっても互いに相剋罷むところはなかった。
朝鮮半島から日本に渡来した民衆はかなり多かったと考えるが、そのなかには乱を避け、あるいは亡命し、あるいは新天地を日本に求めて来日したことであろう。
朝鮮系の新羅神社、百済神社、高麗神社、任那神社はそのまま祖先の来歴を物語るのであるが、日本に到った彼等朝鮮半島からの渡来民族は日本においても相争ったであろうことは想像に難くない。
想像を逞しくすれば、日本が朝鮮国家になっていた可能性をも否定できない。
では、なぜ日本は朝鮮(広義の)にならなかったのか。
紀元前すでに日本は中国に属する「倭」であり、日本を侵略することは、中国に刃向かうことをよく承知していたからに他ならない。
北九州の「志賀島」から出土した金印「漢委奴国王」にあるとおり、「漢の倭に属する奴」にみられるように、古代日本は漢の属国として朝貢していた。
侵すべからざる国だったといえよう。
そして日本は六世紀ころにはほぼ天孫族の支配権が及んでいたと推定される。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2009-06-14 10:09:21
>日本が朝鮮国家になっていた可能性をも否定できない。

冗談で言ってるんですか????



韓人蘇馬に「漢廉斯邑君」の称号が与えられている。倭が「国王」なのに対し、韓は「邑君」というふうに2つもランクが低い。『魏志』によれば、卑弥呼にも金印紫綬が与えられ、大夫難升米と牛利には銀印青綬があたえられている。このあたりを見ると、古代の中国王朝は一貫して朝鮮半島よりも日本列島を重視していることがわかる。これは、や
はり人口多く、王権が巨大で、産品も豊富であったからなのだろう。『隋書』にも、「新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」とあり、倭国が百済や新羅に対し、優位な立場にあったことがわかる。

中国から見ても朝鮮は日本以下なのに朝鮮国家(笑)になるはず無いでしょwwww

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