顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

令和元年、年の暮れ

2019年12月30日 | 日記

暮の大洗港には北海道フェリーが2隻停泊中です。これからは帰省、レジャーの繁忙期、一方マリーナ停泊中のボートはほとんど休眠しているようです。

海岸沿いは温かいのでクローバー(白詰草)やアカツメクサ(赤詰草)の葉がまだ青々としてとても年末とは思えません。江戸時代のオランダからガラス器を日本へ運んでくるクッション材に、乾燥させたものを詰めたのが、命名の由来といわれています。

台風19号はこの近くの那珂川、久慈川に大きな氾濫被害をもたらしました。しばらくはこの大洗サンビーチにも漂流物がうち上がりましたが、やっといつもの海に戻りつつあります。

ここはサーフィンの名所、SUP(Stand Up Paddleboard)も見かけられるようになってきました。ボードの上に立ち1本のパドルで漕ぎながら沖に向かい、いい波に乗って戻ってきます。

フランスギクが何故か一輪咲いていました。似ているマーガレットに比べて、こちらは耐寒性があるので道端などにどんどん増えています。

タンポポ(蒲公英)の綿毛は、ヘリコプターのように遠くまで飛ぶことができるような構造になっていますが、このセイヨウタンポポはより軽く遠くまで飛び、花期も長いため在来種を圧倒しています。

この時期草むらを歩くと衣類に付く「引っ付き虫」の代表2種、不気味なインベーダーのような風貌です。
変わった名前のオオオナモミ(大雄生揉、葈耳、巻耳)、一説にはこの葉を揉んで付けると虫刺されに効くところから、オナモミの名が付けられたとも言われますが…。

コセンダングサ(小栴檀草)は、葉の形が樹木のセンダンに似ているので付いた名前です。

暖かい年の暮れです。庭のスナップエンドウもこんなに伸びてしまい、霜除けの笹を蹴散らして元気です。

年の瀬や旅人さむき灯をともす  飯田蛇笏
にはとりのうなづき歩き年暮るる  森澄雄
年の瀬のうららかなれば何もせず  細見綾子


今年も拙いブログをご覧いただきありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。

嶋崎城(潮来市)…戦国期城郭の遺構がしっかり残っています!

2019年12月25日 | 歴史散歩
平国香の子孫、常陸平氏大掾庶流の行方氏の祖、行方宗幹の次男高幹が鎌倉初期に嶋崎に分封されて嶋崎氏を称したのが始まりとされます。その子孫が小高、麻生、玉造に分封されてこの4家はこの地方の最大勢力となり行方四頭と称されました。しかし戦国末期には嶋崎氏が他氏を制圧し4万5千石を領して、鹿島・行方両郡に割拠する国人領主(南方三十三館)で筆頭の地位を得るまでになりました。やがて勢力を伸ばしてきた佐竹氏に臣従するようになり、1590年の小田原の役では佐竹氏に従い参戦し、秀吉に拝謁し「大太刀一振り」「馬一頭」を献上しています。
にもかかわらず、秀吉から常陸一国を佐竹氏が所領安堵されると、翌1591年に佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田氏等を新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した島崎城主義幹父子ら16名を酒宴中に惨殺し、直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃し、城主不在となった城をすべて攻め落としたという、いわゆる「南方三十三館の仕置」が行われました。島崎城も佐竹氏の軍勢に攻められ、城主なき城は間もなく落城したといわれます。
佐竹氏にとっては、農耕に適した温暖で潮来など近隣の津(港)を掌握する豊かなこの地は魅力的で、すぐに領地支配の堀之内大台城を築きますが、12年後には秋田転封に伴い棄却され、この一帯は水戸藩領となりました。
江戸時代の水戸藩はここに陣屋を置かず、地域の行政を任せた「八人頭の庄屋」の家系は、この島崎家の重臣達の子孫でした。
応永年間(1394~1428)に築城されたとされる連郭式平山城は、比高約15m(海抜45m)の舌状台地が南に張り出した要害の地にあります。
大手口には城址の石碑が建っていて手前には水堀跡の案内板がありました。
登っていくと左手には、階段状に腰曲輪、帯曲輪が並びます。
大手門付近では正面に2曲輪の切岸が立ちはだかります。

右に直角に曲がると水の手曲輪があります。奥に見える右手が西2曲輪、左が1曲輪(本丸)で、右手奥に大井戸が残っています。
2曲輪から西側に遠く霞ケ浦方面が望めます。曲輪の高さと急峻な崖に堅固な城の守りを実感できました。
本丸にあたる1曲輪には札神社が建っています。13代嶋崎長国が鹿島神宮の御札を
身に着けて戦ったら無傷で勝利したので、その御札を祀ったといわれています。
曲輪間には深い空堀が切られ、曲輪の周りには土塁が廻されています。
2曲輪の北側には深さ15mもある二重堀があり、先端には八幡台という案内板がありました。
最大規模の3曲輪と2曲輪間の堀底道の両岸は深い切岸が続きます。
遺構がしっかりと残る数少ない中世の城跡で、当時を偲びながら巡っていると、近所の人に呼び止められて、資料4枚の入ったファイルいただきました。その方もメンバーの城跡を守る会が草刈りや案内板の整備をしており、駐車場もいま工事中とのことでした。
嶋崎城から約1.5km北西にある二本松寺は天長年間(824)の開山で、潮来市茂木地区にありましたが、初代嶋崎高幹が鬼門除けとするため現在地に移転し祈願寺とし、出城として境内も城郭化したとされます。
この天台宗羽黒山覚城院二本松寺は、嶋崎氏滅亡後も佐竹氏、水戸徳川氏の崇敬を受け、水戸光圀公が訪れたとき、「二本松寺の紅梅を咲けるを」と題して詠んだ「ふたもとの 松のみとりの 色映えて 紅にほふ 軒のむめが香」の歌碑が二本松の根元に建っています。

嶋崎城跡を守る会の皆さんの整備のおかげで中世の城郭を充分に楽しむことができました。感謝とともに今後の活動にエールをおくりたいと思います。

弘道館北柵御門の復元

2019年12月20日 | 水戸の観光
江戸時代末期、9代水戸藩主徳川斉昭公が水戸城三の丸に建設した藩校弘道館は日本最大規模を誇り、医学館、天文台を持つ総合大学でした。幕末の藩内抗争と水戸大空襲により殆どが消失しましたが、弘道館正庁、至善堂、正門など施設の一部が現存し、国の特別史跡に指定されています。

さて、弘道館の当時の面積は105,000㎡(32,000坪)あり、その敷地北側にあった北柵御門と土塁、通路の一部がこのほど復元整備されました。
弘道館教授であった津田信存の「弘道館雑志」には、「南北二門ハ教職吏員ヲ除クノ外 出入ヲ得ズ」とあり、南北2つの柵門には番所が置かれて教員、役人以外の通行を厳しく取り締まり、学生は正門右手の通用門からだけ出入りしたそうです。



弘道館全図や残っている絵図などの資料と発掘調査をもとに専門部会を重ねて工事を実施した新しい北柵門、当時の重厚な藩校のイメージが浮かび上がります。
もとは12の重臣屋敷があった水戸城三の丸は、大手門の正面に位置した重要な位置なので、北柵門の入り口も、城郭特有の食違い土塁という構造になっています。

門は柱脚を地中に埋め込む掘立式で、柱をつなぐ貫が上下2本ある釘貫門という構造であると当時の絵図から推測されました。なお本柱は地中に1.3m埋め込み、下部は太くなっていますが、桧の一本木で、両脇の石積みは長崎の諫早石を使用しているということです。

土塁の高さについては資料で確認されないので、現在残る土塁の高さ約2mでの段階的整備です。(写真は北柵門に繋がる土塁と堀です。)

発掘調査で分かった当時の通路の幅は1.5m、土敷き、石敷きの特定ができなかったので、段階的整備として柔らかい材質の素材を敷いたということです。

まだまだ馴染んではいませんが、やがて背景にある1930年建設の茨城県庁旧庁舎の煉瓦色と合うようになることでしょう。

文武両道を建学精神に掲げた弘道館には学問の神様を祀る孔子廟、武道の武甕槌命を祀る鹿島神社がありますが、その前の生け垣にお茶の花が一輪咲いていました。

偕楽園で梅の剪定見学会

2019年12月17日 | 水戸の観光
来春きれいな花が見られるように、造園の名工の皆さんによる剪定作業の見学会が14日に行われました。

偕楽園では年2回、実の終わった夏と11月から1月の冬季に行い、一般に冬季の剪定は、徒長枝と樹形を乱す枝の切り戻し、込み枝の間引きを行い、樹形を整えることに重点を置くそうです。

一般的な庭の剪定は、見た目が重要になりますが、老木の多い偕楽園は樹勢の回復や生育環境の維持を考えなくてはならないので、説明の中で、通常はいらない枝も来年の開花のために残しておくというような説明もありました。

枝の剪定箇所は、葉芽の向きや花芽を考えながら、成長した時のイメージを思い浮かべて…と細かい作業の説明です。

当日は、「着物の着付け体験イベント」も行われていました。ちょうど二季桜も満開です。

いつもの早咲き梅チャボトウジ(矮性冬至)に蕾を1つ発見、萼が異常に大きく、まだ普通の咲き方ではないようです。

吐玉泉下で池浚いが行われていました。住人の魚たちは上の水路に仮住まいしていて、まもなくきれいになった住処に戻れるそうです。

その他、環境に優しい防除や樹下の草刈り、施肥など、偕楽園の独自の管理方法の説明もありました。
なお、「切る」という言葉は造園業界では忌み言葉としてあまり使わないそうで、「はずす」という言葉で作業の指示をしているのが印象に残りました。

水府そば 大和屋

2019年12月16日 | 食べログ

茨城県庁の東側通りに面した大和屋は、店主の祖父が東京駒込にそば店を開業してから100年、妻の郷里、水戸に開業してから40年になるという店です。

頼んだ天ぷらそばは、なんと900円、しかも海老・鱚・南瓜・茄子・獅子唐の天ぷらには、好みに合わせられるように天つゆと塩の2鉢が付いている心遣いです。
地元水府の常陸秋蕎麦は好みの細切りで、香りはイマイチの気がしましたがのど越しはよく、クセのないそばつゆによく合いました。

昼時は混むようですが店内は席数も多く、夕刻からはそばの他に酒肴・季節料理の店として、新鮮な旬の素材を使った手作りの料理を提供するそうです。