顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

前小屋城…佐竹氏大宮三城のひとつ

2021年01月27日 | 歴史散歩

常陸大宮市の東に久慈川を望む比高約20mの大宮台地東端には、佐竹一族の大宮三城といわれる部垂城、宇留野城、前小屋城が2.3Kmの直線距離の間に築かれていました。それぞれ部垂(へたれ)氏、宇留野(うるの)氏、前小屋(まえごや)氏の居城ですが、前の2城は探訪済み、最後に残った前小屋城を訪ねてみました。

佐竹氏の城郭の特徴である連郭式平山城で、南北約300m、東西約200m、この地方の中世城郭としては堂々とした構えです。
最初の築城者は秀郷流藤原氏系の那珂氏の分流で、のちに佐竹家臣となる平沢丹後守通行と伝えられています。平沢氏の衰亡後、文明~長亨年間(1469~1488)頃に佐竹一族の小場氏5代義忠の弟、義広が築城して前小屋氏を名乗り小場家の家老的存在となりました。

その後、佐竹氏の内戦が続き、山入の乱の文亀2年(1502)には佐竹義篤が籠城している孫根城に参陣して小場義忠、前小屋義弘がともに討死、天文9年(1540)の部垂の乱では部垂城の部垂(宇留野)義元を訪れていた小場義実が佐竹宗家軍に攻められ討死、前小屋城も落城したと伝わります。
しかし、最終的には佐竹氏の重臣として仕え、秋田移封に従った小場氏とともに出羽の国大館城下に移ったため、前小屋城の歴史は閉じられました。
なお正徳5年(1715)、大館城代の小場義村の家臣である前小屋民部忠利、平山半左衛門春芳らが小場城跡等に調査に訪れた様子が「常陸御用日記」として残っているそうです。

大部分が農地になっていますが、Ⅲ郭とⅣ郭間の東側に二重土塁と堀が見えます。


Ⅱ郭とⅢ郭間の東側の土塁です。西側にも残っていますが藪が深くて写真ではよくわかりません。

本丸部分のⅠ郭には泉正観世音(種生院)があります。



案内板によると、三蔵法師と弘法太子所縁の三蔵山威徳寺種生院がありましたが火災で焼失、光圀公が本堂を建立して焼失をまぬかれていた像を安置したと書かれていますが、無住寺のようです。

本堂裏の3mほどの土塁には、驚いたことに佐竹氏の城址には珍しい木製の遊歩道がつくられています。

Ⅰ郭(写真左手)の西側にあるⅤ郭(写真右手)は、馬出し郭という説もあるようです。高い二重の土塁と深さ7m、幅10mくらいの薬研堀が陸続きの西側の堅固な構えを構成しています。

Ⅴ郭(馬出し郭)の先にも二重の土塁と堀がしっかり残っています。

Ⅴ郭の先を降りた窪地に五器井戸があり、現在でも水が滲み出しています。案内板ではダイダラボッチという巨人伝説が書かれていますが詳細は不明です。

北側と東側は切り立った崖で、斜面の中間に横堀と土塁が廻されていました。

中世の常陸国北部に約500年間勢力を持っていた佐竹氏の城館はすべて土の城で、茨城城郭研究会の「佐竹氏の城館」には119もの城館が載っています。
国境の城は岩城氏、白河氏、伊達氏、那須氏、小田氏、北条氏などとの攻防戦がありましたが、本拠の大田城周辺の城館になると、その堅固な守りは一族間の争いに備えたものになってしまったという歴史が残っていました。

大宮三城のうちの二つは、下記の拙ブログに掲載しました。
宇留野城址…佐竹系の連郭式城郭  2020年7月1日

外出自粛…庭先の春を探す

2021年01月23日 | 季節の花
わが地方も県独自の緊急事態宣言が出され、不要不急の外出自粛が要請されています。そう言われれば仙人の外出はほとんど不要不急…、狭庭の春を探してみました。

正月に撮った福寿草の蕾がやっと一輪、きらきら光る黄金色の花弁を見せてくれました。

庭で一面に金色の花を開くヒメリュウキンカ(姫立金花)はまだ数輪の開花です。

木陰で増えている山草のフユイチゴ(冬苺)は鳥に食べられて残っている一果をやっと見つけました。

クリスマスローズが葉の下でぞっくりと花芽を揃えて咲く準備をしていました。

隣地に借りている10坪程度の家庭菜園には、毎年10月初め頃に菜花を蒔くことにしています。正月に咲き出す菜の花が、料理の春の色付けに重宝します。
もう昆虫が受粉作業しています、ハナアブ(花虻)の仲間でしょうか。

11月半ばに蒔いたスナップエンドウは、霜よけの笹の葉が気に入ってくれたような顔をしています。

玉ねぎは10月末に苗植えしましたが、まだまだ小さいまま、あと4~5か月くらいで丸々と大きくなります。

物置の陰のサクラソウにしっかり花芽が付いているのを見つけました。原種のサクラソウらしいのですが繁殖力が強く庭中に顔を出しています。

色気のない写真ばかりなので、寒さで元気ありませんがピンクの椿(侘助)です。30年前くらいに購入しましたが、生育環境が気に入ってもらえずほとんど成長していません。

コロナの感染拡大が続いています。せめて春の兆しに希望の光を重ねてみましたが…。

春に魁けて咲く…梅の花

2021年01月17日 | 水戸の観光
春にさきがけて芳香を漂わせながら咲く梅は、古来より文人墨客に好まれてきました。万葉集では萩に次いで多く119首も詠まれており、雪といっしょに詠まれた歌が多くあります。
水戸藩9代藩主徳川斉昭公も藩校弘道館と一対の教育施設として偕楽園を創設し、一説では1万本といわれる梅の木を植えました。

公の七言絶句「弘道館中梅花に題す」の一節に「雪裏占春天下魁(雪裏春を占む天下の魁=雪の残る中で春を独り占めして天下のさきがけのようだ)」と詠まれています。

立春までまだ18日、コロナに負けずに天下に魁けて開き始めた偕楽園公園の早咲き梅です。

冬至の頃に咲くから「冬至梅」、新暦では12月21日頃、旧暦なら11月25日頃ですが、命名の頃は多分旧暦だったでしょうか。偕楽園では12月半ばころに数輪の開花を見られる年が多いです。

「八重冬至」です。八重咲の梅は一般的に結実しないものが多い気がします。

「八重寒紅」は早咲きで一番多く見られる品種で、図鑑では不結実とはっきり出ています。

「一重寒紅」、梅はやはり一重の方が好きという人が結構います。雌蕊が退化しているのが写真でよく分かります。

「虎の尾」は水戸の六名木、名前の由来は蕊の曲がり具合が虎の尾に似ているとかいろんな説があります。

「水心鏡」は江戸時代から続く古い品種で、咲き始めが黄白色で、咲き進むと白くなる野梅系の名花です。

早咲きの梅は、結実品種でも受粉作業を手伝う昆虫の活動がまだ活発でないうちに咲くので、あまり実を結びません。幕末の水戸藩の志士たちが、先駆け過ぎて結実せずに散ってしまい、明治新政府での要職に就いたものはほとんどいなかったことに似ている気がしてなりません。

松岡城(龍子山城)…水戸藩附家老の居城

2021年01月13日 | 歴史散歩

高萩市の松岡城は、築城者や年代には諸説あるようですが、室町時代初期の15世紀初めに、この地の領主だった大塚氏が龍子山に城を築いたといわれています。当時は山城で山麓の二の丸部分に居館があったと思われます。
その後岩城氏、佐竹氏の勢力下におかれた時期を経て、慶長7年(1602)、4万石で入封した戸沢政盛が城郭を整備して三の丸(現在の松岡小学校)に平城を築き、名を松岡城としました。

元和8年(1622)戸沢氏が出羽新庄藩に転封されると、水戸藩の所領となり、正保3年(1646)には水戸藩の附家老中山信政に松岡城が与えられます。中山氏は一時常陸太田に移りますが、享和3年(1803)第6代水戸藩主、徳川治保の弟で中山家を継いだ信敬は再び松岡城に戻り、城郭や城下町を整備しました。明治元年(1868)には永年の願いであった水戸藩から独立して松岡藩2万石としての立藩が認められました。

徳川家康は11男頼房を初代水戸藩主に据えたとき、自分の家臣中山氏を家老として附けました。筆頭家老となった中山氏は、水戸城三の丸に広大な屋敷があり、江戸にも上屋敷と抱え屋敷を持って政務を行っていたので、居城の松岡城は留守居役に任せていたのかもしれません。

城の水堀の役目をした関根川に架かる関根橋の手前に、駐車場とトイレが完備されています。ここから城址までの石畳の両側には武家屋敷風の古い家並みが続きます。

群奉行を務めた高橋家の門と塀が残っています。幕末には多くの志士たちと交流があり、明治時代には東郷平八郎とも親交があったといわれています。





大手橋を渡った先、江戸時代には城の主郭で居館があった一画は松岡小学校になっています。



小学校の脇の石畳の道路もかっては水堀のあったところですが、左側のアプローチ公園内に水堀は復元されています。小学校の土塁と塀も城のイメージで造られています。奥に見える山が竜子山(標高約57m、比高約40m)です。

丹生(たんしょう)神社は中山家の氏神様で,中山氏の遠い祖先が紀州丹生川流域に丹生都比女命(にうつひめのみこと)を祀ったのが起源です。毎年、元旦と4月中旬に行われている「棒ささら」がよく知られています。
武蔵七党といわれた中山家の本拠地の飯能市にも同じ丹生神社があるそうです。

三の丸と二の丸間には水堀が残っています。

古井戸跡から見た平坦な二の丸跡です、龍子山城時代にはここに御殿があったとされます。

幅の広い腰郭のような階段状の郭が山中にたくさん複雑に配置されています。

本丸への虎口、左右は高い土塁になっています。

細長い本丸跡地、戦国時代以降には使われなかったともいわれています。

本丸の北側は急峻な崖になっています。弓矢の材料になる矢竹(矢篠)が群生していました。

江戸時代には城の主郭で居館のあった敷地は松岡小学校になっており、現存している土蔵は、昭和20年代まで奉安殿として使用されていたそうです。

藩校跡には就将館(郷土資料館)があり、城のジオラマ、高萩四英傑の坐像、歴代領主の肖像画などを展示しています。入館無料、但し学校が休みの土日祭日のみ開館です。

平城の部分の遺構はほとんどが最近復元されたもので、この近辺では珍しいほど城のイメージが強調されていますが、山城部分は藪の中に遺構がしっかり残っており、戦国時代の城郭を充分満喫できる城跡でした。

春~ょ来い…雪中四友

2021年01月09日 | 季節の花
コロナ禍とともに大寒波も全国に、九州にまで訪れています。天気図を見ると我が地方には雪雲がかからず申し訳ない気持ちですが、それでも今朝の気温はマイナス5度、日中も6度というそれなりの厳寒期に入っています。
「冬来たりなば春遠からじ」…春の話題を探してみました。

「雪中四友」(せっちゅうしゆう)という言葉があるのを初めて知りました。
中国の古典「月令広義」から出た言葉で、雪がまだ残る早春に咲く植物の「梅、蝋梅、水仙、山茶花」が文人画に好んで描かれたので選ばれたといわれています。因みに「歳寒三友(さいかんさんゆう)」というのもあり、歳寒とは冬のことで、これは「松、竹、梅」だそうです。

偕楽園の表門の蠟梅がいつもの時期にいつものように咲き出しました。

花弁がすべて黄色の素心蝋梅が多く見かけられますが、これは花の中心が赤紫色の原種の蠟梅で和蝋梅ともいうそうです。

偕楽園見晴らし広場の紅梅、園内でこの時期一番見かける早咲き梅の八重寒紅です。

偕楽園は比高約20mの洪積層台地上にあり、南側は斜面になっているので暖かく、梅の開花も早い気がします。すでに五分咲の白梅は、多分冬至梅でしょうか。

この寒さでいつもの場所に見つけられなかった水仙を、ご近所の庭先で発見しました。古くからわが国で親しまれてきたニホンスイセン(日本水仙)です。

偕楽園で見つけた山茶花は、建造物の陰で霜にあたらずきれいでした。

番外編です。偕楽園表門のジュウガツサクラ(十月桜)はこの極寒の中まだ咲いていました。江戸時代に生まれた園芸品種で、10月に開花し冬の間も小さな花を咲き続け、4月に少し大きめの花を多めに咲かせて花期を終わるという頑張り屋です。

また緊急事態宣言が一部地方に出され、我が地方都市も感染者の最高記録を更新しています。社会活動より感染対策が主にならざるを得ませんが、経済の停滞で影響を受けた人たちへの手厚い援助も、国民全員への一律給付などという人気取り政策でなく、叡智を集めた効果的な方法で施行していただきたいと思います。
ああ「春~ょ来い」の気持ちでいっぱいですが、非生産者の我が身はせめて迷惑かけないように、人との接触を避け隠遁生活をさらに強めていくしかありません。この自粛生活で、我ら世代の心身の高齢化が全国的に進む気がして心配ですが。