顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

大儀寺…芭蕉と仏頂禅師

2019年12月13日 | 俳句

鉾田市阿玉にある臨済宗妙心寺派の宝光山大儀寺は、松尾芭蕉と親交のあった仏頂禅師が貞享元年(1684)に中興開山した寺で、芭蕉が門人曽良と宗波を伴って訪れて月の句を詠んでいます。



「鹿島紀行」に記されているこの旅は、貞享4年(1687)、芭蕉が名月を見るため、門人曾良・宗波を伴い鹿島、潮来方面へでかけたもので、これは禅の師である仏頂禅師に会う旅でもありました。
仏頂禅師は、住職をしていた鹿島の根本寺が鹿島神宮との所領訴訟のため、末寺の江戸深川の臨川寺に滞在した折、すぐ近くに住む芭蕉が親しく禅の教えを受けました。
やがて勝訴して帰郷した仏頂禅師を根本寺に訪れますが、禅師はすでに大義寺に移っていたためここを訪れ一泊して月の句を詠みました。

本堂の扁額には、仏頂禅師・芭蕉庵桃青の月見寺と書かれています。

本堂の手前には仏頂禅師の石像があり、傍らには芭蕉の句碑、案内板には仏頂禅師の歌が載っています。
寺に寐てまこと顔なる月見哉  桃青
折り折りに変らぬ空の月かけも ちゞのなかめハ雲のまにまに  佛頂




門人二人の句碑もあると出ていましたが、見つかりませんでした。
雨にねて竹起かえる月見かな  曽良
月さびし堂の軒端の雨しずく  宗波


寺の裏の竹林の中には石に彫られた句碑が並んでいます。これは芭蕉が確立した俳句を愛する方々が自筆の句碑を建てたもので、なんと160基以上あるそうです。新しく建てられた句碑もあり、わかりやすい句が多く親しみを持てました。

なお、芭蕉は元禄2年(1689)には仏頂禅師が修行した、栃木県大田原市の雲巌寺を訪ねたことが「奥の細道」に出ています。
※拙ブログの「芭蕉ゆかりの名刹…雲巌寺(2018.9.17)」でも紹介させていただきました。

仏頂禅師は、芭蕉より2歳年上ですが芭蕉より21年も長生きし、正徳5年(1715)この雲厳寺で73歳の天寿を終えたといわれます。

豊田城…そびえる模擬天守

2019年12月09日 | 歴史散歩

先日、圏央道走行中に見えた白い天守閣は、やはり平成4年(1992)建設当時に何かと話題になった豊田城の模擬天守でした。現在は常総市地域交流センターという名前で、サブネームに豊田城としているようですが…

5層7階の巨大な天守は高さが48.5mでなんと姫路城クラス、しかし中世のこの地は確かに豊田氏という領主が支配していましたが、城は2Kmくらい南東の小貝川沿いにあり、川を防御の堀とした茅葺きの居館だったようです。

豊田氏の始祖は、平国香の子孫で源義家に従い前九年の役(1051~1062)で手柄を立てた赤須四郎政幹で、この地を賜り豊田を名乗り居を構えました。戦国時代は姻戚関係を結んだ小田氏とともに佐竹氏、多賀谷氏の南進を撃退してきましたが、天正3年(1575)豊田氏20代治親が多賀谷氏に内通した家臣に殺され約500年の歴史を閉じました。

豊田氏の老臣、飯見大膳が下妻城主、多賀谷政経の家臣、白井全洞の調略により、主君豊田治親を私宅の茶会に招き毒殺する様子が交流センターで展示されていました。

天守の周りには2層や3層の櫓が全部で5棟あるそうです。そもそもお城はなかったので、郭の四隅に建てられる櫓もある筈もなく、何のために?と思いますが、倉庫として使っていると聞きました。

さて実際の豊田城址はというと、小貝川の堤防にその石碑がたっています。小貝川と鬼怒川に挟まれ度重なる洪水の歴史を持つ地帯なので、実際は河川敷工事などで城の正確な位置や縄張りなどは消えてしまっているそうです。

堤防の先には関東平野を見下ろして筑波山、当時も今も変わらぬ姿で佇っていますが、見てきた歴史を語ってはくれません。

紅葉散る…

2019年12月07日 | 季節の花

今年はこの地方にも2度の台風禍がありました。風の強かった15号では偕楽園のシンボル、左近の桜が根こそぎ倒され、大雨の19号は那珂川、久慈川の流域で大規模な洪水をもたらしました。
自然の猛々しさを思い知らされている間に、紅葉も散りはじめ自然のやさしい顔を充分に味わえなかった気がする今年の秋でした。

偕楽園公園のもみじ谷は数本の樹が紅葉を残しているだけで、ほとんど落ち葉となって地面に敷かれています。

茨城県庁前の落葉樹もほとんど散ってしまいました。もと材木育種センター跡地に建てられ、既存の樹木も取り入れながら敷地内に植栽されました。地上25階、116m…のっぽビルはなぜか寒そうです。

茨城県護国神社の石段の左にあるこの坂はしあわせ坂という名前とか、上ったところに、ペリリュー島玉砕の水戸第2連隊の慰霊碑が建っています。

大規模団地の中の百合ヶ丘公園も、もうすっかり初冬の粧いになっていました。

10日前に撮った偕楽園の好文亭奥御殿です。維新後の明治2年~6年、偕楽園を造った斉昭公の正室貞芳院がここを仮住まいとしました。

同じ日の偕楽園東門に向かうスロープです。観光バス駐車場からのお客様はここを通って偕楽園に入ります。

番外編で紅葉4題…ドウダンツツジ(灯台躑躅)はいろんな色が混じってにぎやかです。

錦のように鮮やかな…名前の通り、真っ赤なニシキギ(錦木)が秋空に映えます。

ブルーベリーも見事に紅葉し、毎年目を楽しませてくれます。

庭のカクレミノ(隠れ蓑)は、常緑樹ですがなぜかいつもの年より紅葉して落ちています。多分虫か病気で枯朽の前兆でしょうか、落ち葉を並べて撮ってみました。
いよいよ冬の訪れ、今年は暖冬の予報で嬉しいのですが、地球温暖化の影響では?と考えると心配にもなります。

落ち葉踏むこころに草鞋はきながら  松本 雨生
冬木ま直ぐおのが落葉の中に立つ  大野 岬歩
いささかも寒林ひしめきを見せず  川田 朴子

袋田の滝…台風禍を乗り越えて

2019年12月04日 | 日記

久しぶりに立ち寄った袋田の滝、滝川沿いにはまだ紅葉が残っていました(11月29日)。
台風19号ではこの滝川が氾濫し土産店などに床上浸水の被害があったということです。

岩をくり抜いた約200mのトンネルの入り口で入場料を払い滝の正面に向かいます。台風19号では観瀑台から水が押し寄せ、このトンネルは泥だらけになってしまったそうです。

さて日本三名瀑のひとつ袋田の滝、高さ120m・幅73mの大きさは何度見ても圧巻です。滝の流れが大岩壁を四段に落下することから、別名「四度の滝」とも呼ばれます。
台風15号のときの増水が滝を落ちる様子がYou Tubeで見られます。それにしてもよく撮ったなぁ…

平成27年10月には、恋人の聖地に選定(NPO法人地域活性化支援センター)され、それらしき若いカップルの姿も多くなりました。

今年はこの地方も大きな台風が2つ、水郡線の久慈川にかかる橋梁も流され、滝の最寄り駅の袋田駅はいまだに不通ですが、バスの代替輸送などで紅葉シーズンの客足も少しずつ戻ってきているということです。
地元なので普段は買わないお土産を1つ、復興に協力させていただきました。

湯遊ランドはなわ

2019年12月01日 | 温泉

福島県東南部の塙町にある湯岐温泉は、500年もの歴史を持ち江戸時代には、水戸藩の学者藤田東湖も湯治で長滞在したと伝わる、知る人ぞ知る秘湯です。

その一角にある「湯遊ランドはなわ」は公営の宿泊施設で、日帰り入浴、キャンプ場の施設も併設しています。

ここは標高540mの山の上なので、周りには手付かずの自然が残り四季の変化を満喫できます。早朝敷地内の小高い山に登ってみると11月なのに厚い霜柱が下りていました。

温泉は東日本大震災後、平成24年新たに掘削された新しい源泉で、PH9.69のアルカリ性単純泉の温泉成分に炭酸水素イオン、若干の鉄分も含まれ、肌がすべすべになると評判の湯です。

四方を山に囲まれた立地から、特に露天風呂は周りの自然を独り占めしているようで、熱すぎない湯加減がちょうどよく長湯をしてしまいます。

源泉は温度25.7度、昇温のため循環させて男女内風呂、露天風呂に供給しているそうです。

最近はグラウンドゴルフ愛好家のためにコースも整備され、この日も高齢者で賑わっていました。

隣接のダリア園は広さ7000㎡、老人会や婦人会など地元の方々の手入れによって8月から10月にいろんな種類のダリアが咲き揃います。

幕府直轄領だった江戸時代の塙町、その植田村の名主を務めていたという家の古民家が移築されています。建築年代その他不明ですが、凝った造りに当時の上層農民の暮らしが偲ばれます。

交通の便も悪い山の中の低額で泊まれる宿で、公営施設のため万全なサービスも期待できませんが、自然と温泉以外何もないのがかえって魅力なのかもしれません。