落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 教会の権威 マタイ 18:15-20

2008-09-01 20:08:11 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第17主日(特定18) 2008.9.7
<講釈> 教会の権威 マタイ 18:15-20

1. マタイ福音書における五大説教
もう何回か触れたことであるが、マタイ福音書にはイエスの教えをまとめた5つの大きな説教がある。というよりも、それら五大説教と呼ばれるものを中心に、その前後に奇跡や論争を出来事を配置するという構成になっている。
第1説教「山上の説教」(5:1~7:29)
第2説教「派遣説教」(10:5~11:1)
第3説教「譬えによる説教」(13:1~53)
第4説教「教会についての説教」(18:1~19:1)
第5説教「終末についての説教」(24:3~26:1)
これらの説教の最後には「これらの言葉を語り終えると」(7:28、19:1)「指図を与え終わると」(11:1)、「これらのたとえを語り終えると」(13:53)、「これらの言葉をすべて語り終えると」(26:1)という同じような言葉で締めくくり、それらが一つの説教であったことを示す。
もちろん、イエスが実際このように語ったというよりも、マタイがイエスの言葉や伝承を編集して構成したのは当然であり、従ってイエスの「言葉や譬え」がイエスのが語ったときの意味あいや意図は、マタイの編集目的に従って変形されている。例えば、本日のテキストに選ばれている言葉(18:15~17)が置かれている状況はイエスの時代とは異なり、マタイの時代をそのままに反映している。
2. 資料分析と語義
上に述べたように、マタイ福音書第18章は、教会の指導者に対して教会運営についての指針を与えるという意図で編集されている。その際に、教会という共同体について最も基本的な課題が本日のテキストの18節に記されている。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。この言葉については、マタイ福音書においてマタイが「教会」という言葉を2回使っているが、2回ともこの言葉と結びつけられている(16:19)。教会とはそういう権限を委ねられている共同体である、ということが前提とされて、教会運営の指針が述べられる。その際に、最も重要な点は、「つなぐか、切るか」という点である。その典型的な例が、99匹の羊の譬えで、ルカはこれを「見失った羊」(ルカ15:4)とするのに対して、マタイは「迷い出た羊」(マタイ18:12)とする点に明らかに示されている。以上のことを前提として、15節から17節の法的規定が述べられている。
19節から20節は、教会という組織の正常な在り方が述べられている。ここで、「心を一つにして」という言葉は、後に交響楽(シンフォニー)の語となった言葉で「声を揃えて言う」という意味である。また、「わたしの名によって」と訳されている言葉は正確には「わたしの名に向かって(エイス ツー)」という意味である。
3. 教会とは何か
上に述べたように、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という言葉は、地上にある教会というもの本質を示していると言えよう。教会に所属しているということが、天の国に繋がっているということの徴であり、保証である。しかも、教会には「繋いだり、切ったり」する権限がある。ということは、どのような理由があるにせよ、教会から離れるということは、「永遠の火」(マタイ18:8)あるいは「火の地獄」(マタイ18:9)へ投げ込まれることを意味する。従って、何とかして教会に繋ぎ止めておくことが、牧会上の(教会運営上の)重要な課題となる。99匹の「迷い出た羊」の譬え話はそれを語っているし、教会に引き戻すことができたら「兄弟を得た」(18:15)ことになる。あるいは、21節以下の譬え話にのように「7回どころか7の70倍まで赦せ」ということになる。この教会の権限はそれ程重要なものである。つまり、マタイによると、教会にはそれだけの権限があるからこそ、その権限の行使については厳しい制限がなされる。むしろ、この権限は「伝家の宝刀」として、決して抜いてはならない権限である。ヨハネ福音書にもこれと類似した言葉がある。復活の主が弟子たち現れ、世界宣教へと弟子たちを派遣する時にも「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦され、だれでもあなたがたが赦さなければ、赦されないままで残る」(ヨハネ20:23) という言葉である。ここでも、この言葉は地上における教会の権限として述べられている。
4. 教会での懲戒
本日のテキストでは、教会から追放するための「手続」が述べられている。先ず第1の手続は、問題を持つ信徒の所へ1人だけで行き、忠告する。それがうまく行かなかった(つまり、「聞き入れなければ」)場合には、第2のステップとして、「ほかに1人か2人」を伴って忠告する。「それでも聞き入れなければ」、第3のステップとして、教会に報告する。ここで問題は公になる。おそらく、ここで「審判廷」が開かれることになるのであろう。それでも駄目な場合に、教会から追放する。
5. 破門ということ
中世までの教会においてはこの機能は非常に重視されてきた。その決定的な懲罰が「破門」である。これは英語ではexcommunicateという。それは文字通り「コミュニケイションの外」という意味で、教会の交わりの外に放り出すということであり、当時の人々は本当に「付き合い」から引き離された。キリスト教会が社会全体を支配している社会では、現実的に「生きる」ことが不可能になることを意味した。その点では、日本での「村八分」のほうがまだ「優しさ」が二分残っている。
ついでに、教会史の恥部の属することであるが、中世期の教会においていわゆる「魔女狩り」とか「魔女裁判」が盛んに行われたが、これはここで語られている教会の権能の問題とは次元を異にする民衆の集団的ヒステリー事件であり、教会がこれに加担したのはとんでもない誤りであった。
しかし、マルチンルターがカトリック教会から「破門」されるといういわゆる宗教改革の時代を経て、プロテスタント教会が成立した後は、破門という懲罰は実質的に無意味化された。日本の社会のようにキリスト者が少数者の場合、まして多くの教派が並列し、一つの教会と縁が切れても簡単に外の教会に移って立派に信仰生活を全うできるような状況の中では「教会追放」というような懲罰は無意味になっている。従って、聖公会の法憲法規では信徒の「教籍剥奪」という懲戒はない。
しかしだからといって、教会のもつ永遠的意味は無くなってしまったのだろうか。決してそうではない。むしろ、それはわたしたち自身の生き方の問題として残っているし、残さねばならない事柄である。少なくとも、初代教会は社会から見ると全くの少数者であり、しかも迫害されている教会ではあったが、彼らは教会というものをそういうものとして理解していた。わたしたち、教会というものをそうゆうものとして受けとめているのだろうか。
6. 正常な教会の在り方
さて、15節から18節までで述べられていることは、教会という組織が持つ本質的な権限の問題であるが、教会はただそのために存在しているのではない。むしろ、そこで語られていることは教会の隠れた本質であって、決して表に出してはならないものである。むしろ、教会における日常的な働きは19節と20節に語られている。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。ここでは2つのことが述べられている。一つは祈りについて、もう一つはイエスの臨在についてである。
第1の祈りについては、ここでいう祈りとは個人的な密室の祈りではない。共同の祈りというか、教会という存在が、神への祈りの機関であるということの宣言である。ここでいう「二人」とは祈りの機関としての最小単位ということで、あっちで二人、こっちで二人というように分裂した二人ではなく、重要なポイントは「心を一つにして」ということで、いわば教会は神と地上とを繋ぐ、地上での発信所、わかりやすい例をあげるなら、外国における領事館のようなものである。神によって、地上に置かれた領事館、それが教会である。従って、教会の祈りは「教会のための祈り」というよりも、世界の願いを神に伝える祈りである。神はその祈りを聞く。それだけの責任と権限とを持って祈る。それが教会の祈りである。
第2の「臨在」という言葉は、難しい言葉であるが、例えば日本聖公会法規の中で、教区常置委員会についての規定に「主教の臨席」という条項がある(第124条)。特別な事情がある場合を除き、教区常置委員会は主教が臨席しなくては成立しない。「臨在」とはここでいう「臨席」と同じ意味で、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉は、主イエス・キリストが臨在しているところ、集まり、集団が教会である。先ほどの例をもう一度引用すると、教会とは地上における天の国の領事館であり、そこは地上から見ると「治外法権」で神の支配する場所である。

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