落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 大祭司の祈り 一つにしてください  ヨハネ17:20~26

2010-05-10 14:29:32 | 講釈
2010年 復活節第7主日(昇天後主日) 2010.5.16
<講釈> 大祭司の祈り 一つにしてください  ヨハネ17:20~26

1. 昇天の意味
先週の木曜日は「昇天日」と呼ばれる祝日であった。従って本日の主日は「昇天後主日」とも呼ばれる。イエスが弟子たちが「見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」という記事は、使徒言行録1:9-11とルカ24:50-53(マルコ16:19)でだけ述べられている。ルカによれば、それは復活後40日目のことであったとされる(使徒1:13)。使徒言行録を記述したルカにとってイエスの復活の記述と使徒言行録における教会の歴史との関係は曖昧に出来ない。時間的にどういう関係にあるのかということは無視できない重要な課題であった。従ってルカは使徒言行録の冒頭で「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠を持って示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(1:3)という。つまり復活後の顕現は40日間であったとする。そして40日目に昇天され、50日目に聖霊の降臨があって教会の歴史が始まる。これらの時間配分と順序はルカ独自の神学に基づくもので、昇天というルカ独自の記述はその歴史観に基づく一種の「信仰」である。
2. 「高く上げられ」
むしろルカが昇天ということを語り始める以前には、たとえばパウロが引用している当時の教会の定式化された表現では、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2:7~8)。この部分はパウロの言葉というよりも当時の教会の讃美歌のようなものの歌詞であるとされている。ここで「高く上げ」という言葉が重要で復活イコール「高く上げ」という理解が一般化していたものと思われる。この背景には復活という出来事を神の業としてどう位置づけるのか、その聖書的根拠付けという作業が当然求められる。このことについて使徒言行録における2つの代表的な説教、ペテロの説教(2:14~36)とパウロの説教(13:16~41)において詩篇第16編が引用されているのは非常に重要である。またヘブライ書12:2では「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」と述べられている。
ルカによって「昇天」ということが言われる前に、初代の信徒たちは復活後のイエスは「天に上げられ、神の右の座に着かれた」という信仰を持っていた。この信仰の内容を物語化したのが「昇天物語」である。
3. 大祭司の祈り
本日の福音書は、「大祭司キリストの執りなしの祈り」と呼ばれる部分である。ここでイエスは教会のために祈っておられる。この祈りの中で「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」と祈っておられる。
この言葉は、先週の福音書の「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23) という言葉とあわせて読むと、非常に面白い。共に、それは「教会の時代」あるいは「聖霊の時代」における、信徒の立っている場所に関係する言葉である。
先週の言葉では、父なる神とイエスとが信徒の生きている側に住まいを作るということが述べられている。つまり、ここで強調されていることは今現在わたしたちが生きているまさにその場所に「神がいる」ということである。それに対して本日の言葉では、今現在信徒たちはイエスのおられるところ、つまり「神の右の座」、栄光に輝く場所にいる。
この2つの言葉は相互に矛盾することではなく、むしろ聖霊の時代に生きるキリスト者の生きる場所であり、信仰の立場を述べている。ここで重要なことは「場所」とか「座」という空間的な概念にとらわれてしまったら、何のことかよく分からなくなる。むしろ人格的な概念であろう。
「高潔な品性」という言葉がある。わたしなどにはほど遠い言葉である。それに対立する言葉は「下品」とか「低俗」ということである。高潔な品性は遜り(へりくだり)から生まれる。同じように、傲慢さは下品に至る。イエスの品性は徹底した遜りであった。だから神はイエスを高く引き上げられた。
むしろ重要なことは「主イエスは、わたしと共に、わたしのように低く生きてくださった」。だから、神はイエスを「高く引き上げた」。わたしたちもイエスが生きられたように、低く生きることによって、神はわたしたちを高く引き上げられる。
4. 今日のメッセージ
日本聖公会の祈祷書では、復活後第7主日、つまり昇天後主日の福音書は毎年、この大祭司イエスの祈りが3つに分けられて読まれる。一つの祈りを3年越しで祈るのはおかしい。この全文をゆっくり読んでもたかが3分である。。たった3分で読める祈りを3年もかけて読むのはおかしい。もちろん、この祈りを研究の材料として学ぶのには、細かく分析する必要があるでしょう。この祈り一つを研究するために、3年ぐらいかける必要もあるかも知れない。しかし、それとこれを礼拝で読むのとでは意味が異なる。従って、先ず全体を読みましょう。個人的に時間のあるときならば、3回ぐらい繰り返して読めば、得るものは少なくない。
今年は20節から26節までが黙想の対象とされている。この部分で注目すべき第1の点は、「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」という言葉で、明らかに、わたしたちはここに位置づけられています。大祭司イエスは、直接にわたしたちのためにも祈っておられる。わたしたちが一つになるようにと祈っておられる。言い換えると、イエスはわたしたちがバラバラになることをもう既に知っておられ、そうならないようにと祈っておられる。
の祈りの中心は一口言うと「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。これにつきる。この言葉をさらに短くまとめた言葉が11節の「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」という言葉である。
5. ヨハネの教会における深刻な問題
ヨハネがこれ程執拗に「一つになれ、一つになれ」と繰り返すのにはそれだけの理由があった。この福音書が書かれた直後、しばらくしてか、ヨハネの教会は2つに分かれる。あるいは、「教会から去る」人たちが出て来た。そのことについて、その頃書かれたヨハネ第1の手紙に少し触れている。
読んでみましょう。1ヨハネ2:18-25。
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
分裂の原因となった信仰あるいは神学の内容に立ち入らない。ともかく、ヨハネがこの福音書を書いている頃、もう既にその分裂の危機は迫っており、ヨハネは何とかしてそれを避けたいと努力をしているのである。教会が分裂状態にあるということの最大のマイナス面は宣教の不信ということに現れる。ヨハネはとくにその点をここでは問題にしている。「彼らの言葉によって、わたしを信じる人々のために」という祈りの言葉がそれを示している。

松村克己著「ヨハネ福音書註解」(再話)  第17章<1~26>
第17章
愛する者を世に残して、しかも戦いと苦難の世に残して去り行くイエスの告別の言葉は、中途から祈りに変わる。この告別の祈りは同時に神への奉献の祈りでもある。自分自身を神の前に聖別し、同時に弟子たちをそのようなものとして、彼らを神に委ねる崇高な愛に支えられた祈りである。この祈りは4つの部分に分けられる。
(1) 自分自身のための祈り(1~5)
(2) 弟子たちのための執り成しの祈り(6~19)
(3) 将来の弟子たちのための祈り(20~23)
(4) 彼に属するすべての人たちの祈り(24~26)
第2の部分はさらに3つ祈りが含まれる。弟子たちとは何者であったのか(6-13)、現在どんな状態にあるのか(14-16)、彼らには何が必要なのか(17-19)である。この章の中に展開されている思想そのものはすでに14章の中に含まれており、特に新しいものはない。イエスと神との交わり、弟子たちとの交わりを語り示すことがその目的であるが、この祈りおいて重要なことは、祈りがサクラメントであるという真理を示している点である。
<1~19>は省略
<20~23>
イエスの祈りは「彼ら」つまり今ともにいる弟子たちのためだけではなく、「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも」続けられる。「彼らの言葉」とは遣わされし弟子たちの証、宣教の言葉である。その祈り、願う内容は「すべての人を一つにしてください」ということである。教会の拡大と発展とは一致を傷つけるところがある。その一つの原理、理想を支えているものは父との一つなる深き交わりである。そして彼らは一つとなることによって、父なる神との交わりに与り、その愛と生命とに生きることが出来る。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」という祈りはそのことを示している。「わたしたち」とは言うまでもなく父なる神と子なるイエスとの交わりを指す。その交わりの中に居て一つとなるために。彼らがこのことを実現するならば、「世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。しかし、このことが実現しないならば、キリストの栄光は地に墜ち、神の栄光も傷つけられる。教会の不一致は世の最大の躓きである。一致はキリストが神から遣わされた者であることを示す無言で、しかも最強の宣教である。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」。この「栄光」は父との交わり、愛の充満を示している。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と、執拗に一つの戒めが繰り返される。「互いに愛し合いなさい」(15:17)という主題は、ここではさらに展開され、編曲されて「みな一つとなるために」となって繰り返される。それはキリスト者の完全であり、「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい」(マタイ5:48)と命じられた愛の完全を意味する。「彼らが完全に一つになるため」「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」と言われている。信徒の一致の基礎はその中にキリストが、キリストにおいて神が働かれることにほかならない。それによって、世はキリストが神から遣わされたこと、キリストを信じる人々を神がいかに愛しておられるのかということを知る。
<24~26>
イエスの祈りは新しくされる。しかし、新しい言葉も新しい思想も現われてはいない。すでに語られたことが新しい文脈と組み合わされているだけである。「わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」という祈りは12:26には弟子たちへの命令として語られているし、「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」は22節の「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」の祈りの変形であり、変奏曲である。「わたしのいる所」とは、イエスが父なる神と共に永遠より永遠の亙って持つ交わりの場所であり、彼の弟子たちはこの交わりに与っている(1ヨハネ1:3)。「わたしの栄光」もまた同じ事柄をさし、父との交わり、その愛につながっている子の姿である。これを「見る」というのはイエスと共にあり、同じ場所に立って彼の愛に与ることを言う。 信徒の地上での生の目標はイエスのこの栄光をその全き姿において見ることである。そしてそのことは復活の彼と出会うことによって実現する。(2コリント4:6)。これが神の義である。「正しい父よ」との呼びかけが出てくる理由である。「世はあなたを知りません」。従って神の義を知らず、子の栄光を見ることが出来ない。「わたしはあなたを知っており」「この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています」が故に、わたしの栄光を見る筈である。「わたしは御名を彼らに知らせました」。「また、これからも知らせます」は、再会を期して、復活の時を望んでである。彼らが神を知るのは「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり」、その愛にあって「わたしも彼らの内にいる」からである。彼らがさらによくこれを知るようになれば、この交わりはさらに深くされ、完全なものになる。


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