落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降誕日説教 語る神  ヘブル1:1~12

2013-12-26 11:55:01 | 説教
S14CC(S) 2013.12.25
降誕日説教 語る神  ヘブル1:1~12

1. 今日は降誕日
降誕日の主礼拝の使徒書は毎年ヘブライ書1:1~12である。降誕日にこのテキストが読まれるのは1節の言葉によるのであろう。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。クリスマスとは神の決定的な「語り」なのだ。神は旧約聖書の時代においては多くの預言者たちを通し、いろいろな仕方で、繰り返し繰り返し語られた。この一言で旧約聖書の意味がまとめられている。しかし神のその言葉を人間はそのつどそのつど正しく聞いてきたであろうか。旧約聖書物語は神が語る歴史であり、人間がそれを正しく聞かなかった歴史でもある。時には無視し、時には誤解し、時には神は沈黙していると嘆く。それが人間側の対応で、そのため神はこの終わりの時代においては御子イエス・キリストによって決定的に語られたと言う。しかしそれでもなお、人間は神の言葉を聞くことに失敗を重ねている。しかし幸いなことにイエス・キリストによる神の語りはまだ終わっていない。今も語り続けておられる。その任務を担っているのが教会であり、そこで神の語りかけを聞いている私たちである。

2. 神の語りを語る人生
私は「神の語り」を考えるために、遠藤周作さんの『沈黙』という小説を「神の語り」という視点で読み直した。この小説は日本でキリスト教が激しく迫害を受けた時代にヨーロッパから日本伝道のために派遣された神父たちの苦難の物語である。踏み絵という人間の心を突き刺すような迫害の仕方を考案したのは一旦はキリスト教に帰依したが、棄教した役人である。キリスト者がキリストに対して抱いている気持ちを逆手に取って棄教を迫る手段として踏み絵という方法が行われた。この小説の最後の言葉はこうである。
踏み絵を踏んで転んだ神父ロドリゴ、あだ名を「転びのパウロ」と呼ばれる元神父が自分自身に向かって語る。「私はこの国で今でも最後のキリシタン司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」。

3. 献身から隠退まで
今日は私にとって人生における公の立場での最後の礼拝奉仕で、今日の説教が最後の説教になる。私自身の人生を振り返って「私の今日までの人生があの人について語っていた」と言えるのだろうか考える。

大学入試に失敗して1年間浪人生活を送っている中で、牧師ヘの道に進むことを決意いたしました。いろいろ選択する道はありましたが結局、東京聖書学院に入学することになり、1957年、20歳の春です。そこでの3年間は朝から晩まで聖書だけ、朝6時からの早天祈祷会でも聖書の話し、学科はほとんど聖書だけ、宿題も聖書、夜の祈祷会も聖書の話し、教授陣の話しも聖書の話しだけ、学生同士の議論も聖書の解釈をめぐっての議論、そのようないわば「聖書漬け」の毎日を過ごすうちに、聖書って面白ということを経験いたしました。聖書の何が面白かったのか。実は聖書の中にはいろいろ「謎」があります。「謎」というか、むしろ矛盾、分からないところ、もっと一般的にいうと「引っ掛かるところ」があります。それをいろいろ調べて解明するということが非常に面白いことでした。要するに推理小説的な面白さと言ったらいいと思います。しかも、その面白さを分かち合う学友がいたということが幸いでした。全寮制なので、ほとんど毎晩にように時間を忘れて議論をする。結局、今からそれを思うとその時の経験が私の一生を貫くものとなりました。
私が初めて教会の礼拝で説教をしたのも、そこでの学生時代で、今から考えると何を話していたのか思い出せませんが、説教による会衆との響き合いを知ったのもその時です。だいたい私の説教のパターンは、先ず聖書の中の「引っ掛かるところ」を語り、それに対する答えを語るというもので、疑問を共有しないと独り相撲になってしまいます。幸か不幸か、聖書は疑問だらけで、謎に溢れています。そして学べば学ぶほど、次から次へと疑問は広がり、謎は深まります。多くの人は聖書は難しい、分からないと言って聖書から離れますが、実は逆で聖書は疑問だらけで、分からないところが面白いのです。
私が牧師として初めて教会に派遣されたのは1960年の春で、それから数えて今年は53年目です。考えてみると53年間も説教し続けてきたことになります。その私の頭の中には未だ多くの疑問が渦を巻いています。

牧師としての聖書
牧師としての聖書の読み方には一般信徒とは異なる問題があります。それは毎週説教をしなければならないということです。説教をするために聖書を読む。これは非常に特殊なことで、普通には聖書を読んでいて、何か引っ掛かることがあれば、それを調べるということですが、牧師として読む場合には引っ掛かることがあろうが、なかろうが、とにかく毎週日曜日には説教をしなければならない。そのためには先ず聖書のどこからテキストを選び、そこからポイントを引き出さねばならない。聖公会の場合は、主日説教にはその日とテキストが定められているのでその点では非常に楽である。しかし聖公会等伝統的な教会以外ではテキストが決まっていない。そこでどうしても一つの文書を選び、それの講解説教というのが多くなる。つまり聖書研究的になる。ホーリネス教会の場合、日曜日に礼拝と伝道集会、週の途中で祈祷会と週に最低でも3回の説教をこなさなければならない。それこそ説教に追いまくられる。その一つ一つの説教に引っ掛かるポイントを発見し、それを解明するということは難しい。しかし、それをこなさなければ自分でも満足できる説教ができない。つまり、そのテキストからメッセージを読み取るという作業がなされる。そのためには神学的素養が養われていないとできることではない。そのために私は牧会をしながら、さらに8年かけて2つの神学校で学びました。そういうことが許されたということは非常に感謝なことでした。
この学びの結果、私自身の聖書や神学に対する理解が大きく変わりました。どちらが先かはっきりしませんが、聖書に対する疑問が変わり、当然それに対する答えも変わって来ます。

4. 人生の曲がり角
その間のことは、長くなり、専門的なことになりますので省略します。要するにそれまでの私の聖書観はいわゆる「逐語霊感説」という立場で、聖書の一言一句全て「誤りなき神の言葉」という立場でしたが、それではどうしても解決できな課題に直面したのでした。その課題を克服するためには、聖書は長い時間をかけて人間が書いたものであり、そこには資料の変遷や編集というプロセスがあるということです。教会の説教は保守的な立場で、大学での勉強はリベラルな立場というギャップの中で8年間をすごし、その間に徐々に変化し、もう我慢ができなくなり、私は私の信じるままに、信じられることを語り、信じられないことは信じられないという立場に立つことを決心したのでした。ともかく1968年3月に関西学院大学大学院の修士課程を卒業したのを期にホーリネス教会の牧師を辞任することに致しました。
実はその時さらに博士課程に進みたいと思い主任教授に相談したところ、大学での研究よりもさらに面白い研究の道があるということで薦められたのが日本クリスチャン・アカデミーという団体でした。幸か不幸か私の指導教授がそこの運営委員長をしておられたので、その推薦を受けてそこに就職したのです。この団体はドイツのプロテスタント教会と関係が深く、社会のいろいろな領域の人々と関わりながら神学を勉強するにはもってこいのところでした。
つまり聖書をただ教会内だけで読むのではなく、広く一般社会における様々な問題との関わりの中で読むことを学びました。例えば労働問題、教育の問題、医療の問題、さらにはレジャーの問題等を取り上げながら、聖書と人間との関係を掘り下げることができました。それは私にとっては非常に大きな経験で、そこから今までにはない聖書との関わりができたのです。例えばキリスト者ではない普通の日本人が教会や聖書についてどういう風に考えているのか。結局、アカデミーでの仕事は11年間続きます。その間に聖公会という教会とも出会い、転会するということもありました。
アカデミーでの仕事も10年を過ぎた頃、私の中にもう一度教会という場で仕事がしたいという願いが持ち上がって来ました。。その思いの根底には教会の礼拝において説教をする生活に戻りたい。私の本当の仕事は説教であるという思いだったと思います。それで日本聖公会京都教区主教に願い出て1979年4月に四日市聖アンデレ教会に伝道師として派遣されることになりました。
そのときの説教の原稿は今でも私の手元に残っています。その主日は復活前主日(4月8日)で、福音書はマタイの27:1-54、使徒書はフィリピ2:5-11で、私はフィリピ書の方から説教をいたしました。ここは有名な箇所で、神の子キリストが神と等しくあることに固守すべきこととは思わず、人間の姿にり、人間お世界で生き、しかも人間の間でも最も身分の低い奴隷になられたというテキストでした。その説教で強調したことは、全てのキリスト者は自分が置かれた場所で「派遣された者」として生きるということを語りました。この時の思いは、今でも変わりません。
四日市聖アンデレ教会には聖アンデレセンターという施設が付属していました。これはいわば文化センターで、各種器楽、ダンス、お茶、お花、着付け、英会話教室があり、それを経営するという仕事があり、かなり多忙でした。要するにこういう教室を経営してそこに出入りする青年たちと交流するということが目的でしたから、単なる貸し会場では教会が経営する意味がありません。そこでいろいろなプログラムが組まれました。その一つが「飲み屋」という交流の場であったり、朝食を伴う英会話教室だったりでした。
そういう中で、私自身は週に1日京都の平安女学院短大でキリスト教概論の非常勤講師もいたしました。その時の学生の一人は、その後、大阪教区の司祭と結婚していまも大阪で働いています。
5年間三重県の四日市で牧会し、次に派遣されたところは京都教区の主教座聖堂のある聖アグネス教会でした。教会の大きさや集まっている人の知的レベルということで私の説教の内容は変えませんが、ここはさすがに京都市内でも中心地にあり、毎週毎週の説教が戦いでした。その意味は、毎日曜日、新しい人が礼拝に出席し、その人たちがどういう人なのか分かりませんので、独りよがりの不用意な説教はできません。それでここにいる時に、説教の原稿をしっかり書くことを身につけました。幸いその頃からボチボチ、ワープロも普及してきましたし、その点では随分助かりました。また、牧師館がウイリアムス神学館と隣り合わせておりましたのでも教えたり、同じ敷地内にある教務所の主事をしたりで、多忙ではありましたが充実したときでした。しかし教区の中心部にいるといろいろと人間関係が複雑で、私の方から地方の教会への転勤を申し出て、奈良の田舎、西大和に移りました。ここは信徒の数こそ20数人ということでしたが、大きな幼稚園があり、園児数も200人ほどということで、牧師というより園長という職務の方に重量がかかっていました。ここでは毎週1回か2回、園児たちへお話をしなければなりません。しかも聖書からです。幼稚園児に聖書のお話をするということは非常に難しいことです。相手が子供だからといって聖書のメッセージを歪めたり誤摩化したりできません。また一寸でも手を抜くと、園児たちは静かにしていません。園児たちは園長先生のお話を楽しみにして待ってくれるようになりました。そのうち、聖書以外からも話しをしたくなり、日本昔話やイソップ物語、ラ・フォンテーヌやペローの童話などを各保育室を回って話しをするようにもなりました。結局、西大和の教会で18年間牧会をして2007年3月、定年を迎え退職いたしました。退職後は、みなさまもご存知の通り、九州教区で協力司祭として礼拝奉仕をさせて頂きました。

5. 振り返って
今、私は自分の歩んで来た道を振り返って楽しい人生だったと思います。牧師を振り出しに、大学院を出てからはアカデミーで、短大の非常勤講師、聖公会に転会してからは文化センターの館長、聖アグネス教会では神学校の教師や教区事務所の主事、教区の特別財産の管理、幼稚園の園長等、形としてはいろいろなことを経験させて頂きましたが、それらは全て教会との関わりの中、いわばキリスト教会というサークルの中での仕事であり、その間常に聖書が傍らにありました。しかし今振り返ってみて、私はどれだけ聖書の言葉を読み、そこからどれだけ神の言葉を聞いたか。そこで聞いた神の言葉をどれだけ語れたのか。むしろ、聖書を隠れ蓑にして私の言葉を語って来たのではないか。聖書に神の言葉を語らせるということは、私という人間を媒介にして、しかし私の言葉ではなく、「神が語る」ということである。そのことがどれだけ出来たのか、じくじたる思いである。小説『沈黙』の中で「転びのパウロ」と呼ばれたロドリゴ神父が「私の今日までの人生があの人について語っていた」と言う。私はどうだったのか。

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