落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第16主日(特定18)説教 弟子をふるい落とす  ルカ14:25~33

2013-09-03 16:33:31 | 説教
みなさま、
めっきり秋めいてまいりました。皆さまお変わりありませんか。次主日の説教をお送りします。
実は、9月の私の礼拝当番は第1主日と第2主日ではなく、第1主日と第4主日(9月22日)でした。それに気が付いたのが先週の金曜日でもう既に説教は出来上がっていました。従って、この説教は説教壇から話される予定のないものです。考えてみますと、説教は説教壇から語られるだけではなく、「書かれた説教」もあり得るので、お送りすることにいたしました。

S13T18(S)  2013.9.8
聖霊降臨後第16主日(特定18)説教 弟子をふるい落とす  ルカ14:25~33

1. 文脈
イエスがエルサレムに向かって旅をしているという噂は、人々に大きな期待を与えたようである。それで多くの人々がイエスの集団に加わりエルサレムに近づくにつれ、旅の一行はどんどん増えていったものと思われる。最初からの弟子たちはその光景を見てとても喜んだであろう。エルサレムに乗り込む人数は多ければ多いほどいいに違いない。人数の多さがイエスの運動を支えるエネルギーである。弟子たちは「もっと増えろ、もっと増えろ」と心の中で叫んでいたに違いない。
いよいよ、エルサレムに近づいた頃、イエスは「従って来る」群衆に向かって(振り向いて)、「弟子であることの覚悟」を語られる。「わたしに従ってきたい者は父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分自身の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない」。折角の弟子志望者たちを追い返すようなことをイエスは口にしたのである。弟子たちは驚いたに違いない。これでは、誰もついて来れないではないか。これが本日のテキストの場面である。

2. イエスは弟子(=同行者)を減らす
ここにこれからエルサレムで起こる、いや起こそうとしている出来事についてのイエスと弟子たちとの考えの違いが明瞭になる。弟子たちはそのためには一人でも多くの人が必要だと考えた。しかしイエスはエルサレムに乗り込むのに大勢は要らないと考えた。しかし弟子たちもイエスも一緒にエルサレムに行くためには意志が強固で目的を達成するために身を捨てる覚悟が必要であるという点については共通していた。
さて、ここで私たちは面白い立場に立っている。エルサレムの出来事をイエスも弟子たちも「これから起こること」として考えている。それに対して私たちは、そしてこの福音書を書いたルカも含めて「もう既に起こったこと」として見ている。私たちは未来のことについては予想はできても予知することはできない。計画をすることはできても、その通りになるとは限らない。イエスはイエスなりにエルサレムで怒るであろうことは予想し、計画もしているだろうが、そのことは弟子たちには分からない。弟子たちもいろいろ予想はしているが確実なことは言えない。これから起こることについては分からないのは当然であるが、私たちはエルサレムで何が起こったのかということを知っている。そして、その一連の出来事において弟子たちがなすべきことは何もなかったということも知っている。
一応その当時、弟子たちが起こると期待していた内容を説明しておく。イエスが復活したというその日、つまりエルサレムでの出来事が終わった直後の弟子たちの気持ちがルカ福音書に記録されている。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(ルカ24:21)。これは当時の弟子たちの率直な気持ちを表している。要するに期待していたことは起こらず、イエスはほとんど何も抵抗をせず、あっさりと捕縛され、裁判にかけられ、処刑されてしまった。弟子たちはそれを近くで、何も手出しをする機会もなく、ただ見ているだけであった。だから彼らは落ち込んでいる。何のために私たちはそれなりの覚悟をしてイエスに従ってきたのか。これがエルサレムでの出来事の前と後の弟子たちの気持ちであろう。
さて話を戻すと、あの時エルサレムで起こった一連の出来事について、私たちは「過去のこと」として見ている。では、エルサレムを目前にしてイエスが「わたしに従ってきたい者は父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分自身の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない」と言われたのはどういう意味だったのであろうか。明らかにこの言葉は弟子たちが心配したように、折角エルサレム近くまで着いてきた多くの弟子の志願者たちをふるい落とすことになったであろう。エルサレムでの弟子たちの行動を見ていると、彼らは何の役割も果たしていない。それなのに、何故イエスはこんなに厳しい条件を出されたのであろうか。これが本日の課題である。

3.イエスの弟子たちの役割とは何か
話は全然異なるが、「戦場のカメラマン」という職業がある。基本的には彼らは戦場に出かけるが、戦うわけではない。あるいは救助活動をするわけでもない。しかし彼らにとって戦場は兵士たちと同じように危険な場所である。敵と味方が激しく交戦するまさにその場に近づき、そこでひたすら写真を撮るということが彼らの使命である。弾丸が飛び交う戦場だけではなく、彼らが休憩する場所、彼らが眠る場所、彼らが食事をする情景、それらが全て戦場カメラマンにとって見るべきものである。そして彼らが撮った1枚の写真が戦争という出来事を世界の人々に伝えられる。遠くの方からリモコン操作によって撮れば済むというわけでもない。彼らは兵士たちと共に生き、共に憩い、共に戦っている。そして彼らが撮った写真が真実を世界の人々に語る。その積み重ねが歴史である。まさに彼らは歴史の一つの瞬間の証人である。
全てのものを犠牲にしてイエスに従った少数の弟子たちに課した任務は、イエスと共に剣を持って戦い、敵を倒すことではなかった。また、イエスと共に捕縛され、裁判にかかり、十字架で処刑されることでもなかった。彼らの重大な任務は、エルサレムで起こった一連の出来事を見て、感じて、全世界の人々に伝える「歴史の証人」である。それは家族の生活に責任を持つ者、臆病者には勤まらない任務である。
もし、証人がいなかったら、エルサレムで起こった出来事はエルサレムに住んでいる人たちの間のうわさ話で終わったであろう。過去の出来事が「歴史」として後代に残るのは、証人がいて、証人がそのことを公に証言するからである。証人は必ずしも多くいる必要はない。ごく少数でも、出来事をしっかりと、冷静に見ること、そしてそこで見たことを確信を持って語ることができればいい。そのためには現場から決して逃げない。離れない。眼を閉じない。それは並大抵のことではない。それなりの覚悟と度胸が必要である。イエスの弟子たちがそれに相応しい人たちであったのかということについては疑問がない訳ではない。しかし、結果敵に見るならば彼らはその任務をしっかり果たした。
弟子たちは、イエスが群衆に向かって「わたしに従ってきたい者は父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分自身の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない」と言われたとき、その言葉の意味することを理解出来なかった。イエスが十字架上で亡くなったときも未だ理解出来なかった。イエスが復活したという噂を聞いたときにも、理解出来なかった。しかしあの時以来、何故という疑問があたも離れず、自分たちに問いかけ続けた。イエスが独り苦しんでいるときに何もできない自分たちを思い反省はするが、この「何故』に対する答えは得られなかった。このままイエスの名が歴史の藻屑となって消えていくのかということを考えたときに、初めて「はっ」と気付いた。自分たちはイエスという人物の生きたこと、語ったこと、そして死んだことの目撃者なのだということに気付いたのである。
使徒言行録の最初のところで、使徒たちの任務として、次のように語られている。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。これが弟子たちの自己理解であり、任務を自覚した言葉である。
教会の最初期の頃、ペトロは公の場である神殿でこんな説教をしている。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(使徒3:13-15)。

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