落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第16主日(特定17)説教 わたしの前に出るな

2008-08-27 07:48:46 | 説教
2008年 聖霊降臨後第16主日(特定17) 2008.8.31
わたしの前に出るな マタイ 16:21-27

1. 「サタン、引き下がれ」
ここで、使徒ペトロはイエスから「サタン」という非常に激しい言葉で叱られている。「どやされている」と言った方がいいであろう。イエスが、「サタン」とどなるというのは、よっぽどのことである。律法学者やパリサイ人たちにも、こんな言葉を発したことはない。彼らには「偽善者」という言葉を投げかける。イエスが「サタン」と語ったのは、誘惑物語で文字どおり悪魔に対してだけである。ペトロはそんなに悪いことを言ったのだろうか。
2. 使徒ペトロの言ったこと
実は、この出来事は先週の福音書からの続きである。そして、先週と今週の福音書の部分は、マタイ福音書の一つのクライマックスを示す。先週の部分では、「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」という質問に始まり、ペトロの「あなたはキリスト、生ける神の子です」という応答に対して、イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」という言葉で終わる。この時、ペトロに「天国の鍵」が与えられた。
ところが、その直後にペトロはイエスから「サタン」とどなられたのである。イエスにとって、「キリスト、神の子」であるということと、「エルサレムで苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」ということとは、「必然」(「必ず」(16:21))の関係である。イエスは、ご自分を「キリスト、神の子」と告白した弟子たちに対して、この必然を語られた。ところが、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言う。
イエスの生涯についての、わたしの最大の謎は、この必然ということである。イエスはそれを「必然」として受け止め、それに全面的に従ったという。正直に言って、わたしは未だにこれが謎である。特定の誰かの身代わりになって死ぬということは理解できるが、自分自身が十字架にかかり死ぬことが人類の救済になるということは理解できない。それがわからないから、ペトロがイエスに対して、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言った言葉の方がよくわかる。
3. 「神のことを思わず、人間のことを思っている。」
イエスがここで使徒ペトロを叱っておられる理由は、「神のことを思わず、人間のことを思っている」という点である。しかも、そのことは「サタンの誘惑」にも匹敵する程のことだ、という。
考えてみると、わたしたちはいつも「人間のことを思って」生きているし、「人間味がある」ということが美徳とされている。しかし、その人間味あるペトロの言葉は、イエスにとって誘惑となる。その意味では、この人間味は悪魔のささやきでもある。
むかし、吉田松陰が少年の頃、本を読んでいるとき、蝿が頬にとまった。少年は思わずその痒さに頬を掻いたところ、それをみた松陰の父親は息子をむごいほど殴ったという。そして、父親の言うことは、「聖賢の書を読むは公である。その読書中に痒いからといって掻くのは、私情である。この小さな私情を許せば、大人になってからどの様な私利私欲をもつかわからない」。明治を生み出した武士の精神には、こういう厳しさがあったという(「坂の上の雲」第4巻、154頁)。これが昭和の時代になって、歪められ「滅私奉公」というスローガンになった。
ペトロがイエスに対して「あなたはキリスト、神の子です」と告白したとき、イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこの事を現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われた。信仰告白は「私情」ではない。しかし、イエスに対する愛は、そしてまた「教会に対する愛」も私情化する。
4. 悪魔に対する言葉とペトロに対する言葉の比較
「退け、サタン」(マタイ4:10)、「サタン、引き下がれ」(マタイ16:23)。どう違うのだろう。2つを比較すると、悪魔に対して「ヒュウパゲー サタナ」、ペトロに対して「ヒュウパゲー オピソー メ サタナ」で同じ「ヒュウパゲー」(行け、離れよ、下がれ)という言葉が用いられているが、ただペトロに対しては「オピソー メ」という言葉が真ん中に入っている。この言葉は「わたしの後ろに」という意味であり、この言葉が挿入されることによって、ヒュウパゲーという言葉の意味が変わる。つまり、これを命じる者と命ぜられる者との位置関係が変わる。悪魔とイエスとは面と面と向かい合っているのであり、そこでは「わたしから離れよ」という意味になり、ペトロに対しては、「わたしの後ろに下がれ」、つまり「わたしの前に出るな」という意味になる。ここに、ペトロの救いがある。イエスからその信仰告白が認められ、「天国の鍵」を与えられるという大変な名誉を受けたとき、使徒ペトロは調子に乗りすぎた。つい、イエスより前に出てしまった。イエスの道を邪魔するようになってしまった。この時のペトロは自ら「イエスの保護者」になった気分なのかも知れない。それが人間味あふれるペトロであり、それが神の必然を妨げる「人間に関すること」である。イエスは、ペトロに「わたしの前に出るな」と諌められた。

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