落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 生きている者の神  ルカ20:27,34-38

2013-11-04 13:49:48 | 講釈
みなさま、
日本聖公会の主日日課表のC年(ルカ福音書の年)も残り少なくなってきました。個人的には次主日の礼拝奉仕が最後になります。従って私の気持ちではルカの年を締めくくるつもりで説教の準備をいたしました。

S13CT27(L)
2013年 聖霊降臨後第24主日(特定27) 2013.11.10
<講釈> 生きている者の神  ルカ20:27,34-38

1. 文脈と語義
ルカ福音書19:47~48で「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」と述べられ、20章ではイエスの殺害を計画している連中との問答が集められている。つまりこれらの問答自体が殺害計画の一環として行われている。
1~8節で「権威」という問題、9~19節では連中との議論から少し離れて民衆への譬え話が挿入され、20~26節で「皇帝への税金問題」、27~40節で「復活論」と続き、最後に「彼らはもはや何もあえて尋ねようとしなかった」という言葉で結ばれる。ルカはこれに続いて41~44節で、イエスの側からダビデについての問題提起を置いている。
そして最終的に45~47節で「律法学者たちに対する批判の言葉」を民衆に語る。
これらの問答についてはマタイもマルコも取り上げており、イエスにとっても重要な発言であったものと思われる。
資料的な流れとしては、最初にマルコが書き、それをマタイとルカがそれぞれ修正を加えた上、取り上げたのであろう。
この日に取り上げられているテキストは27~38の復活の議論の部分であるが、祈祷書の編者はなぜか28~33節を省略し、39~40節をカットしている。
35節の「次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々」という新共同訳は分かりにくい。「次の世」とは「この世」に対する言葉で、口語訳のように「かの世」の方が良い。ここでの「ふさわしい」という言葉は「かの世」と「復活するに」の両方にかかる語で、「かの世にふさわしく」また「復活するにふさわしい」人たちが復活するという意味で、すべての人が復活する訳ではないという意味である。選ばれた善人だけが復活して、「天使に等しい者」となる。それが「かの世」に住む「神の子」であり、もはや死ぬことがないという。この霊魂不滅の思想は当時のファリサイ派の人々の復活思想に似ている。ヨセフスによると、ファリサイ派では霊魂不滅を信じ、善人の霊魂のみが変容して甦り、悪人の霊魂には永遠の刑罰が待っていると信じていたと思われる(土岐健治『初期ユダヤ教の実像』160頁)。ついでに言い添えると、この思想は38節の「すべての人は、神によって生きているからです」という言葉と矛盾する。
39節「律法学者の中には、『先生、立派なお答えです』と言う者もいた」。ルカが福音書を書いている頃には、エルサレムの神殿の崩壊とともにサドカイ派はほぼ壊滅状態であり、その頃は律法学者とはファリサイ派の人々を意味していたので、ここでのイエスの解答、といよりもルカが付加した復活思想は彼らから評価されたという意味であろう。

2. 「言葉じりをとらえる」(20:20,26)
ここでの、一連の問答は、すべてイエスの言葉じりを捉えるための議論である。律法学者や民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀っていた(19:47)。最初の問答では高圧的に「我々に言いなさい」(20:2)と言って権威についての議論を吹っかけている。その態度に対してイエスも「わたしも言うまい」と権威を持って答えている。第2の議論「皇帝への税金」について、「正しい人を装う回し者を遣わし」、民衆の前でイエスの言葉じりをとらえようとしている。これも失敗している。
要するに、これら一連の問答は民衆の前でイエスに恥をかかせ、民衆の人気を落とすこと、イエスの言葉じりを捕らえて「総督の支配と権力に渡す」ということが目的であることが明記されている。
ところでこの「言葉じり」という言葉は面白い。英語では単純に「his words」である。ギリシャ語でもロゴス(言葉)の複数形である。つまり「言葉じり」の「じり」という語尾はない。ところが邦訳聖書では文語訳と新改訳、永井訳が単に「言葉」と訳しているだけで、他ほとんど全部「言葉じり」という言葉を使っている。ラゲ訳は「言質(ことばじち)」
この「言葉じり」という言葉の意味を調べると面白いことに気がつく。
広辞苑では「ことばの末の方、語尾」あるいは「他人のことばの言い損ないの部分」と解説している。
類語大辞典では「言葉の終わりの部分」。
デジタル大辞泉:相手のささいな言いそこないにつけ込んで、攻撃したり批判したりする失言の部分。
言葉質(ことば‐じち)人の言ったことを、のちの証拠として取っておくこと。また、その言葉。
文脈の上では確かに「言葉じり」という言葉はぴったり来るが、逆に言うとぴったりきすぎで、ある意味で語り手が語る中心的な意味よりも、周辺的、失言、言い損ない、誤解を取り上げて相手を批判するというニュアンスが強い。どうせ批判するなら正面から中心問題を理解した上で批判して欲しいという感じがする。英語やギリシャ語ではそういうニュアンスは全くない。つまりイエスの主張そのもの、思想そのものの持つ意味が取り上げられている。

3. 初期ユダヤ教における復活思想(土岐健治『初期ユダヤ教の実像』より)
ここでいう「初期ユダヤ教」とは紀元前6世紀のバビロン捕囚からはじまり祖国復帰、神殿建設を経て新約聖書の時代を含む期間をカバーする。初期ユダヤ教は多様性に富み多くの要素が絡み合っている。
その中で「黙示思想・黙示文学」はかなり重要な要素である。黙示=啓示。現代風にいうと「神からの啓示と信じられたファンタジー文学」。
バビロン捕囚から祖国に帰還したユダヤ人の住むパレスチナ地方は紀元前3世紀のほぼ100年間エジプトの支配下にあり、彼らは当時最高の自然科学的な知識を摂取することが出来た。「古代イスラエルのいらいの、特に預言者以来の宗教的・信仰的な伝統の上に最先端の自然科学的知識を中心とする知識が結ぼついたところに黙示文学が生まれた。黙示文学の根底には「世」に対する根源的な悲観主義がある。堕落天使の支配する世界。神によってこの世が完全に滅ぼされた後、根源的に断絶した形で、神の支配する善の世界が到来する。こういう考えはイエスを始めパウロや新約聖書の思想の根底にある。
黙示文学とほぼ同じ時代に平行して知恵文学も見られる。
黙示文学とその終末思想が初期ユダヤ教とキリスト教とを結ぶ大きな筋道であることは事実であるが、それだけに限定することは出来ない。
「バビロン捕囚以後のユダヤ教は、古代メソポタミアの宗教、特にイランの宗教であるゾロアスター教の影響を受けながら形成され、特に宗教思想及びこれと関連した復活思想については、イラン宗教の影響が極めて大きいことが専門家によって指摘されています」(156頁)。「また、少し時代が下がってヘレニズム・ローマ時代になりますと、今度はギリシャ思想的な霊魂不滅思想の影響を強く受けることになります」(157頁)。
新約聖書においては「復活」という言葉が肉体のよみがえりを意味しているのか、霊魂不滅をさすのか必ずしも明確ではない。ぱうろは、主の再臨に際して信徒の肉体が生来の形のままでよみがえる(死者の場合)とも、天上へと挙げられる(生者の場合)とも考えてはおらず、霊魂が肉体を離れて天上へ浮遊すると考えていたわけでもないように見受けられる。「パウロの考え方は、『変容』というキーワードによってまとめ得るように思われる(1コリント15:40~48, 2コリント3:18)。

4. 復活についての問答
さて本日のテキストは神殿境内での一連の議論における「復活」についての問答が取り上げられている。このテーマについてだけは質問者は「復活があることを否定するサドカイ派の人々」(27節)である。おそらく日頃の言動から見てイエスはファリサイ派に近いと見られていたのであろう。サドカイ派の人々とファリサイ派の人々とは犬猿の仲であり、特に復活については常に対立している。ここで取り上げられているテーマは両派の間で繰り返し議論されて来た問題で、どこまでいっても平行線のままで解決のつかない難問題だと思われる。
7人兄弟の長男が結婚し、間もなく死ぬ。そういう場合にモーセの律法に従えば次男が長男の妻と結婚しなければならない。そのようにして7人とも死んだ。その後、女性の方も死んだ。ここまではモーセの律法に従っており何も問題はない。さて問題は復活があるとして、この女性は誰の妻となるのか。これは明らかに当時のファリサイ派の人々の復活論を前提にしている。彼らにとって復活とは「この世」の延長線上で考えられていたようである。復活ということを信じる以上、この問題にも答えが必要であるというのがサドカイ派の人々の問いである。おそらく、今までのサドカイ派とファリサイ派との論争ではファリサイ派の人々はこの問題に対して答えられなかった難問なのであろう。だから両派ともイエスの答えに非常に興味を持ったに違いない。イエスは何と答えるのか。

5. イエスの答え
マルコ福音書がこの問題を取り上げている。マルコではこの問いに対してイエスは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マルコ12:24~25)。実にあっさりしているし、的を得た答えである。ここでイエスは「聖書を知らないから」という。それでその聖書のどこに書いてあるのかと探しても出てこない。つまりイエスの答えもハッタリというか挑戦的である。そう言われれば、律法学者やサドカイ派の人々は一生懸命聖書の言葉を探すであろうが、そんなことが聖書に書いてある筈がない。つまりこれは「聖書を知らない」ということは、聖書に書いていないことをいろいろ議論しても仕方がないという意味であろう。「死んだ後のことなんか、知るものか。どうせそこらにあるような神話で出て来る天使のようななるんじゃない」というのがイエスの答えである。マタイもほぼマルコの言葉をそのまま引用している。

6. 教会の答え
それで後の教会の人々は、そういう答えでは満足できなかったのか、「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(マルコ12:26~27)という言葉を書き添える。これも現代人としては何のことかよく分からない理屈である。いかにもユダヤ人ぽい屁理屈である。聖書の言葉を屁理屈などというと、どこかの敬虔なキリスト者からけしからんと言って叱られそうである。24節~25節のイエスの言葉と26節~27節の言葉とを比較してみればそのレベルの差がはっきりするであろう。実は、ルカはマルコの記事をほとんどそのまま書き写しながら、それでもまだ足りないと思って、余計な言葉を書き加え問題をさらに紛らわしくしている。それが35節の前半と36節である。35節の前半では復活するのは「(それに)ふさわしい者だけ」ということ、36節の天使についての説明である。マルコ福音書ではただ「天使のようになる」というのを「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」などと、いかにもキリスト教の説教者らしい説明をくわえる。これではイエスの「どうせそこらの天使のようになるんじゃない」という答えを台無しにしてしまうではない。

7. 生きている者の神
マルコやルカが思わず口にしたというか、筆を滑らせたというか、その積もりで言ったとは思えないが、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉は名言である。この言葉は二通りに解釈できる。
一つはここでの文脈に従って、神が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)と自己紹介されたのであるから、アブラハムも、イサクも、ヤコブも生きている。つまり、すべての死者も神の前では生きているという意味に解釈することも出来る。
また、もう一つの解釈は神は今生きている者の神で、死者のための神ではない。ひょっとすると、こちらの方の解釈は評判が悪いかもしれない。しかし、長い人生において現実的にそういう極限に立たされるときがある。今、現実に目の前で生きている子供を救うのか、既に死んだ子供の遺骨を大切にするのか。そういう場面に立たされた時、神は生きている子供の神なのか、死んだ子供の神なのか。
こういう言葉は、学問的に厳密な解釈というより、現実の生活の中でそれぞれの信仰者がこの聖句をどう受け止めているのか、自由に発想するのが相応しい。

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