落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>喜び

2006-05-18 15:30:30 | 講釈
2006年 復活節第6主日 (2006.5.21)
<講釈>喜び   ヨハネ15:9-17
1. 決別説教第2部(15:1~17:26)
ヨハネ福音書の15章から17章までは、一旦成立していたヨハネ福音書に何時の段階でか明確ではないが、著者自身かあるいはヨハネ集団に属する誰かによって挿入されたものであるとみなされる。14:31の「さぁ、立て。ここから出かけよう」という言葉と、18:1の「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キデロンの谷の向こうへ出て行かれた」という言葉との続き具合がスムーズであるからである。と、すると14章の決別説教こそ、オリジナルなものであり、15章~17章は14章における主イエスの決別説教を補うものという意味を持ち、ヨハネ集団の信仰を理解するためにはかなり重要な文章ということになる。そのような視点に立って、本日のテキストを読む。
2. 「わたしの愛にとどまりなさい」(9節)
本日のテキストは、9節から17節までである。ここでの主題は「わたしの愛にとどまりなさい」ということでまとめられる。主イエスとの「愛し、愛される関係」を維持すること。わたしたちと主イエスとの関係ということになると、話しが非常に複雑になるので、一応ここでは「主イエスと弟子たちとの関係」ということに限定して、考えよう。その関係は、結局最終的には、わたしたちと主イエスとの関係を語ることになるのは当然である。
「わたしの愛にとどまりなさい」という言葉は、明らかに13:1と13:34とを意識し、それを受け、その後の教会へと展開させる意味を持っている。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)。
弟子たちにとって、主イエスとの「愛し愛される関係」とは、共同生活をした時の思い出である。その期間は明確ではないが、一応3年間ということにしておこう。その時の楽しかった思い出が、「愛し愛される経験」である。ここに「とどまる」。この期間を、かけがえのない時として大切にする。その期間を台無しにしないようにその後の生き方を方向付ける。その時、主イエスが語った言葉、その時主イエスが笑った笑顔、その時わたし自身が口にした言葉、主イエスと共に喜んだこと、共に涙を流したこと、それら一つ一つの事を思い出し、大切にする。それが、主イエスの愛にとどまるということに他ならない。10節の「わたしの掟を守る」ということはそういう事態を語っている。ここで、主イエスの教えを「掟」にしてしまってはならない。主イエスの掟とは主イエスの生き方、生きるルールを意味する。その意味で、これは既に主イエスによって生きられた事実である。「わたしが父の掟を守り」とは既にそのように生きられたという意味で現在完了形が用いられている。それはまさに弟子たちの目の前で生きられた事実であり、弟子たちにとっては生々しい思い出である。そして、その思い出が生々しければ生々しいほど、弟子たちにとっては現在も続いている現実である。
そこで、はじめて11節の言葉が意味を持つ。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。主イエスと共に過ごしたあの時が喜びであった。あの時も喜びであったように、今も喜びである。あの夜、寝るべき宿もなく、共に野宿した。それも、喜びであった。ある時は、食べる物が全くなく、麦畑を歩きながら、そこに残っていた麦を摘んで食べたこともあった。それも、喜びであった。ある時は、ユダヤ人たちから追われ、山に隠れたこともあった。それも、喜びであった。ガリラヤ湖でゆったりと舟遊びをしていたとき、突然嵐に見舞われて、あわてふためいて、主イエスに笑われたこともあった。それも、喜びであった。信仰とはこの喜びである。過去を思い出して、そこに苦々しい思い出しかなければ、決して喜びはない。
ここで一つ非常に重要なことに触れておきたい。わたしたちは過去のことを思い出して、嬉しかったことばかりではない。出来たら消しゴムで消したい思い出ばかりである、といってもいいであろう。その思い出が現在のわたしを暗くする。しかし、その過去を「消そう」「隠そう」としてもそれを消す消しゴムはない。その後に、どんなに善行を重ねても決して消せない。ただ一つ、「いやな過去」を「感謝の過去」に変える道がある。それは、思い出したくない過去を、自分の思い出から消し去ること、隠すことではなく、それがあったからこそ現在の自分があるということを率直に認めて感謝することである。それは決して懺悔することではない。時には懺悔することも必要であろうが、懺悔そのものが重要なのではなく、感謝することが重要であり、決定的である。この感謝は人に対するというよりも、自分に対するものである。この感謝に基づいて「互いに愛する」という生活が生まれ、溢れるばかりの喜びに満たされる。
3. 「わたしがあなたがたを愛したように」(12節)
それらの、すべての喜びを、今、わたしたちはかけがえのない宝物として共有している。この喜びを共有している友がここにいる。この友がいる限り、わたしたちは何も恐れない。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。「主イエスがわたしたちを愛したように」、何か非常に難しそうである。そんなことはわたしたちのような凡人にはできそうもない命令のように感じる。それはそう感じる方の間違いである。主イエスと3年間一緒に生活した弟子たちにとっては、その愛し方は既に経験済みであるはずだ。主イエスが、普通に人間として考えられないような愛し方をしたとは思えない。むしろ、普通の愛し方であったであろう。わたしたちが日常的に愛し合っているような仕方で主イエスは弟子たちを愛したに違いない。そうでなければ、弟子たちも主イエスから愛されたことが分からない。愛についての難しさは、事実として、愛しているのかどうかということであって、愛に方式というようなものはない。
従って、ここで主イエスは弟子たちに不可能を要求しているのではない。ただ、主イエスとの楽しかった生活を続けるるようにという願いである。これが、主イエスの「掟」である。主イエスの掟とは、古い律法に変わる新しい律法ではない。
4. 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)
これは難しい。明らかに、この言葉は主イエスの十字架を意味している。「友のために自分の生命を捨てる」ことができるか。そう簡単に答えが出ない。主イエスは、そうのように生き、そのように死んだかも知れない。しかし、主イエスはそのように生きることをわたしたちに求めておられるのだろうか。そんなはずがない。それでは、あまりにも「恩着せがましい」。そんなことを要求されるならば、何もわたしのために死んでもらわなくてもいい。しかし、もしそういう人がいるなら、「これ以上に大きな愛はない」ということだけは、認めざるを得ない。
しかし、いや本当に「しかし」であるが、弟子たちは主イエスは弟子たちのために「死んだ」と信じたらしい。それが、事実どういうことを意味したのか、なぜ弟子たちはそういう風に主イエスの死を理解したのかは、分からない。非常に単純に、一つの反体制運動の結末として、他のすべての運動の賛同者の身を守るために、一人で犠牲になったことなのかも知れない。今となったら、事実は永遠の謎である。ただ、弟子たちはそういう風に主イエスの死を理解した。その理解が、その後のキリスト教の中心的な信念となった。「友のために自分の生命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ということが、キリスト者の最高の倫理となった。「できる、できない」の問題ではない。これが、人間の生き方として最高の生き方となった。それが「主イエスの友」という名誉ある称号である。
5. 「父から聞いたこと」(15節)
「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)。主イエスの言葉として設定されている。しかし、これは弟子たちの「悟り」であろう。弟子たちは、自信をもって、わたしたちは主イエスの言葉と生き方とを完全に受け止め、理解したと言えた。これが、弟子たちの「悟り」であった。「その日には、あなた方に分かる」(14:20)、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)。弟子たちはこれを経験した。だから、自信をもって「主イエスが父なる神から聞いたことをすべて」、受け止め、理解したと言うことができた。だから、理解しただけでなく、その委託を受けたと告白できた。だから、自分たちはこれを受け入れ、理解し、人々に伝えるために「選ばれた」と自覚できた。
6. 「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)
最後に、蛇足になるが、もう一度確認しておきたい。弟子たちが主イエスとの共同生活の中で経験したこと、しかも、主イエスの死後、主イエスからの委託として受け止め、理解したこととはいったい何なのか。さぞ深遠なメッセージであろう。それによって、教会が成立し、それを世界に伝えることが教会の重要課題とされたメッセージである。キリスト教会が2000年の歴史において語り続けてきたこと、大きな図書館をいっぱいにしてもまだ足らないほどの文献もすべて、この一点に係っているメッセージ、さぞ深遠なメッセージであろう。主イエス自身が、その一生をかけて人々に語ったメッセージ、それはただ一言「互いに愛し愛なさい」という言葉につきる。

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