ウラジーミル・プーチンの経歴(58歳・KGB出身)
1952年 レニングラード(サンクトペテルブルク)に生まれる。
1975年 KGBに勤務。KGBレニングラード局第1課(人事課)に配属。
日本で活動。
1984年 KGB赤旗大学に入校。
1985年 東ドイツに派遣。ドレスデンのソ独友好会館館長(ソ連人学生を監督)。
1990年 国際問題担当レニングラード大学学長補佐官。
1991年12月 サンクトペテルブルグ市対外関係委員会議長。
1992年 中佐の階級で予備役編入。サンクトペテルブルク市副市長。
1994年3月 サンクトペテルブルク市第一副市長。
1996年6月 ロシア連邦大統領府総務局次長に就任。
1997年3月 ロシア連邦大統領府監督総局長。
1998年5月 ロシア連邦大統領府第一副長官。
1998年7月 ロシア連邦保安庁(FSB)長官。
1999年3月 ロシア連邦保安庁(FSB)長官とロシア連邦安全保障会議書記を兼任。
1999年8月9日 エリツィン大統領により第一副首相に指名。
1999年8月9日 同日、ステパーシン首相退陣で首相代行。
1999年8月16日 首相に就任。
1999年12月31日 引退を宣言したエリツィンにより大統領代行に指名。
2000年3月26日 大統領に当選。
2004年2月末-3月初 内閣を総辞職。ミハイル・フラトコフを新首相に指名。
2004年3月14日 大統領に再選。
2005年12月 ヨーロッパ柔道連盟名誉会長に就任。
2007年9月12日 内閣を総辞職。ヴィクトル・ズブコフを新首相に指名。
2007年12月10日 ロシア大統領選挙で後継者としてメドヴェージェフ第1副首相を指名。
2008年3月の大統領選でメドベージェフ第1副首相が当選.首相就任を表明。
ロシア最大のガス会社、ガスプロム会長はメドベージェフ大統領。
プーチンは年齢が若いとはいえ、ロシア男性の平均寿命は60歳を下回り社会問題にもなっている。
プーチンは、実は長い間、対日工作を行うスパイであり、東京に住んでいた。だからプーチンは日本語がペラペラであり、寿司が大好物である。
東京に、スパイとして潜伏していた当時のプーチンは柔道を習い、山下に近づいた。そして親友となり酒飲み友達となった。もちろん目的は、山下経由で日本の政界へのパイプを作るスパイ工作であった。
しかし結局、そのパイプはプーチン自身が大統領になってしまったために、スパイ工作ではなく、日本とロシアの貿易交渉に使われる事になった。
日本のオリンピック・メダリストの山下泰裕を、日本の首相であった森喜朗は強くバックアップした。
プーチンは原油・天然ガスを日本に売り込みたいと考え、その貿易交渉を日ロ議員連盟の代表である森と共に、2008年1月、まとめ上げた。なぜかプーチンの「親友」山下が、その貿易交渉には同伴していた。
2005年5月6日付けのル・モンド紙に「私はスターリンをヒトラーと同等に扱うようなやり方に賛成できない。確かに、スターリンが暴君であったことは否定できないし、犯罪者であるとする人間も多い。だが、彼はナチなどではない」という当時ロシア連邦大統領であるウラジミル・プーチンの発言が記載された。
スターリンによるソ連統治時代に北カフカス民族の強制移住、大粛清、強制収容所と農業集団化によって2000万~5000万人が虐殺されたという歴史的事実があるにも関わらず、プーチンがスターリンによる専制的な"自称社会主義国家"の建設に対して一定の評価を示したことは、彼の専制的な独裁政権が現在ロシアで行われていることを示すものである。
日本外交のなかでも、ロシア外交にはとりわけ暗い影がつきまとう。日露関係自体が他のいかなる国との外交と比べても、多くの問題を含んでいる。
日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に攻め込んだ旧ソ連軍、日本人女性への蛮行、60万人とも70万人ともいわれる軍人ら日本人男性の強制抑留とおびただしい犠牲、北方四島の不法占拠。これらすべてについて、非も認めず開き直ってきたのがロシアである。
ロシアがどれほど信頼出来る国かについて冷徹な分析を忘れてはならない。日露関係緊密化を主張する人びとには、1945年8月の敗戦に至るまでの日ソ交渉、ソ連に終戦の仲介を頼った日本への回答が8月9日の対日参戦だったことを、忘れないでほしい。
1994年にロイヤル・ダッチ・シェルと三井物産、三菱商事の三者が合同でサハリン・エナジー・インベストメントを設立し、ロシア政府と生産物分与協定(PSA)を締結して、サハリン2(北東部沿岸に存在する石油および天然ガス鉱区)鉱区における総費用2兆円のプロジェクトが開始した。
2008年中の本格稼働を目指し、最終的には日量18万バレルの原油生産、天然ガス産出量はLNG換算で年間960万トンを見込んでいた。これは日本の総輸入量のそれぞれ4%、18%に相当する。エネルギー資源のほとんどを海外輸入に頼る日本にとって、まさにサハリン2鉱区は唾涎のプロジェクトであった。しかし、順調に見えたサハリン2に転機がおとずれる。
2006年9月、ロシア政府は環境アセスメントの不備を指摘し、突然開発の中止命令がなされた。その後、「サハリン2」の経営権を半ば強制的に“横取り”した事件が起こった。ガスプロムのプロジェクトへの参画が決定されたのだ。
ロシアガスプロムがサハリンエナジーの株式の50%+1株を取得し、英蘭シェルが55%から27.5%-1株に、三井物産25%から12.5%、三菱商事20%から10%に減少となった。この事件によりロシアとの北方領土交渉は現在事実上、凍結状態にある。
プーチン大統領は、ロシアのエネルギー高騰を追い風にした資源ナショナリズムを背景にして、旧ソ連のウクライナやベラルーシに天然ガスの供給停止措置に踏み切るなど、そのエネルギーを武器に影響力拡大と国益追求を掲げている。サハリン2鉱区問題を取り上げ、、産経新聞は現在の対露外交は完全に思考停止状態にあるとまで言っている。日本はロシアという国を知らないまま、ビジネス・外交を行い、その国益は大きく損なわれているのだという事実をまず直視しなければいけない。
竹内明氏の『ドキュメント 秘匿捜査』(講談社)は、日本でうごめくロシア人スパイたち、彼らに取り込まれ情報提供する日本人たちの姿に焦点を当てる。
氏はテレビ局勤務の記者である。「諜報戦への国民の関心を喚起したい」との思いから、8年間、100人近くへの取材を重ねた。ノンフィクションとして完成させた同書だが、日本の情報機関で働く男たち、および彼らの監視対象となった人びとの多くが仮名で登場する。実名で登場するのはロシア人スパイたちとごく少数の日本人である。
ロシア人スパイで、東京から米国に亡命した人物にレフチェンコという人物がいた。有楽町の外国特派員協会のメンバーで、彼の亡命は、記者クラブの記者仲間でも大きな話題となった。スミルノフの名前はその「レフチェンコ証言」に登場する。彼は「レフチェンコの前任者として、政治家や新聞社幹部ら11人のエージェントを運営して、対日工作にあたっていた」のだ。
その大物スパイのスミルノフが98年9月、2度目の東京赴任を果たした。表向きは外交官だが、実質はSVRの東京「駐在部長」だったという。
警視庁外事一課は彼を「強制追尾」の対象とした。背後にピッタリと張り付く手法で、摘発された元KGB機関員のプレオブラジェンスキーが、回顧録で「ソ連のスパイなら誰でも夢にまでうなされる」と書いたほどの効果があったと、竹内氏は書いている。
だが、強制追尾は、突然、国会議員からの電話が発端で、中止された。竹内氏はこう書いている。
「オモテ班員(強制追尾をする警視庁外事一課の班員)はすぐにピンと来た。その国会議員の名も、そしてスミルノフと国会議員を仲介しているある人物のことも」
さらに、氏はこう記した。「電話の主は鈴木宗男だった」と。