浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

日本メディアの歴史観

2012-01-10 10:04:39 | 資料

 明治時代からの歴史、特に「日本の昭和の歴史」を各テレビ局が放送する。

 全世界を敵に廻した「軍国主義日本」を強調し、そうなった責任は、東条英機、松岡洋右などの行った侵略の歴史だと言いたげに、敗れた経緯を生々しく、放映するのだ。

 NHKをはじめ、テレビ各局が「嘘の報道」を重ねていると言うのではない。確かに日本軍が、満州国を建国したはじめには、柳条湖事件があり、日支事変には、盧溝橋事件が在った。そして、仏印への進駐が在った。その後、真珠湾攻撃が在った。

 問題は、その事件の意図は、すべて日本軍の領土拡大の野心と、西欧各国の植民地支配の権力に取って代わらんとする、日本軍国主義の飽くなき野望と夢が、際限なく拡大されたと説明する、各マスコミのそれらしき解説である。

それ等の夢が崩れたのが敗戦であり、勝つと信じたドイツが敗れ、確かと信じた、日ソ中立条約でソ連に裏切られ、日独伊三国軍事同盟の破綻は、あわれな日本外交の野心の結果であったと説いている。結果が失敗となったのは、すべてが、誤っていた軍国主義日本であったと、自嘲しているようにも聞きとれる。

 これ等の報道は、日本を敵視して来た勝者の立場であれば、当然かもしれない。そして今日なお、日本を悪者扱いして、自国民を鼓舞する目的の、中国や、朝鮮半島の指導者の政治的意図だと考えれば、或いは止むを得ないかもしれない。

 述べねばならないことは、日本のNHKをはじめ、国内の各テレビ局が、日本人向けに、敵方であった立場の一方的な見方を、そのまま放映する意図を疑うのである。

これは六十年前の敗戦直後、占領軍が日本国を将来に向かって、再起不能とさせておくため、憎悪に充ちた復讐劇と言われる東京裁判に於いて、一方的に取り上げた歴史観による、昭和の各事変である。今日そのままを取り上げ放映する、日本のマスコミの、余りにも不勉強、無批判の報道ぶりが、日本人の魂を無残に打ち砕く将来を招きつつある。

 東京裁判当時は、勝者の敗者に対する宣伝と復讐だから、口惜しさが在っても日本人としては批判が出来ない。まして弁明さえ許されない、そして報道が規制されており、国民を盲目にせしめる時代でもあったから、我慢するより他はなかった。

 しかし、独立して半世紀以上を経て、なお敵方の一方的観点からの解釈は歴史を歪める。 日本は、昭和に起きた各事変や戦争については、条約や協定を無視したり、破った例はない、それは自負してよい。止むに止まれぬ処まで相手方に追い詰められ、或いは暴虐を重ねられた結果、多少のやり過ぎはあったとしても、自衛の為、生存の為に戦わざるを得なかった。よくここまで我慢をした、その上での争いや戦いであった、その立場が今日まで全くカットされ、考慮されていない、一方的な相手方の宣伝となっている。

◆満州事変とは

満州に於ける日本の正当な権利と投資(条約、協定によって約束された)を、相手側が一方的に強制接収しようとして、正面から挑戦して来たことが原因である。

 事変前に行った日本への陰湿極まる攻撃や、日本人の財産への侵奪行為、激しい排日と迫害は、軍事力では日本に勝てないので、民衆に暴動をそそのかし、暴力によって、日本の権益を奪い取ろうとした支那側の暴動が原因である。

 たしかに、日本人も同様の不平等条約に悩んだ歴史を持った。その不信を明治の日本は営々たる努力によって、関係諸国と国際ルールを忠実に守り、平和交渉によってそれを撤廃して来た。中国の歴史は、すべて「革命外交」を自負し、一度として条約や協定を遵守したことがなく、民衆の暴動によって、主権の回復を計って来た歴史である。

 日露戦争後、日本は、満州人の圧倒的な信頼を勝ち得ていた。中国人民は最初から、国家から見捨てられ、辛亥革命後から頭角を現した、馬賊であった張作霖の暴力に呻吟し、貧窮と恐怖におののいていたから、日本への期待とあこがれが充満していた。

それゆえ、満州人の間に「乃木信仰」が広がり「王道楽土」を待望する声が巷に満ちていた。このような事例は、日本人にさえ今日知らされていない。 

満鉄社員が地質調査で満州各地に入った際、農村の村長の家に祭壇があり、そこに「乃木大将の肖像画」が貼ってあった。村長は次のように言うには、 「乃木大将は、今は神様です。村々に軍医を派遣し、病人を救ってくれました。道路と排水路を作ることを教えてくれました。水田はその時に出来ました。

それよりも農民が一番悦んだのは、日本軍の軍紀が厳粛であったことです。兵隊は卵一つ、鶏一羽、無料で奪る者がありません、元より婦女子に手を出す者なんかありません、官吏も悪いことは出来ません、神兵だと村人は崇めました。日本軍のお陰で匪賊は寄りつきません、盗人も出ません、全く平和で安全な王道楽土でありました。この辺一帯の古老は皆こうしております。」

 日露戦争以後、四半世紀を経過した昭和初年の時点でなお、乃木信仰が続いていた。

このような空気の中で日本軍としては、民衆の待望に応えざるを得ないという義侠心があった。だからこそ満州国建国に踏み切った。その建国当時約二千万人の満州国の人口は、昭和八年から、昭和二十年迄の十三年間で、四千五百万人となった。毎年百万人以上の人々が、大陸各地から続々とイナゴの如く流れ込み、この地を求めて移住した。これは世界の歴史上類例がない。それでも侵略というのか。

「匪賊横行の地が、五族協和安楽の地と化した、この事実は誰も否定できない。」とマーク・R・ピーティは述べている。

◆盧溝橋での一発は

 日本は義和団事件(一九〇〇年)の鎮圧後、出兵した連合軍と清国政府との間に結ばれた北清事変議定書に、英米仏など欧米諸国と共に、駐兵権と演習権を獲得した。よって中国大陸への駐留は「不法滞在」ではない。

 昭和十二年七月七日夜の演習も、定期点検を控え、陸軍の主敵であるソ連軍向けの演習課目であり、演習の予定は中国側に事前通報していた。中国は北京、天津地区第二十九軍計約六万人。日本軍は支那駐屯軍五千五百人と、周辺に駐屯する第三大隊の千四百人と、四キロ東に豊台兵営の五百人である。計七千四百の日本軍に対して、支那軍六万人である。

 盧溝橋の第一発は、七月七日夜、日本の第三大隊の清水中隊が銃撃された。これを松井特務機関長が、発砲者は第二一九団第三営と名指しして抗議したのに対し、相手方が堤防方向から実弾射撃を浴びせた夜の十時頃には、我が方は堤防には配兵していない。「撃ったとすれば、匪賊か西瓜小屋の番人か、国民党の特務かも」と、はぐらかした。

当時の第三営長、金振中(一九〇三~一九八五年)は、死の前年(一九八四年)、発砲者は支那の第二十九軍だと九九%確信している、と発言している。 

 昭和十一年。一九三六年、蒋介石軍の幹部だった張学良がソ連と結んで、父張作霖が日本軍の謀略で殺された怨みから、中共と協力して抗日の挙に出た。それが西安事件である。

(実は 張作霖はソ連スパイに暗殺されたのが真実である)

西安で蒋介石が張学良によって監禁され、自らの助命と引換えに「内戦停止」「一致抗日」という、コミンテルンの主張を呑まされた。以後蒋介石は、共産党との協力、並びに対日開戦を強いられ、クレムリンのロボットに成り果てた。

七月七日の事変勃発後、コミンテルンから、支那共産党に対し次の如く指示された。
一.あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突にみちびかねばならぬ
二.右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用し、局地解決や、日本への譲歩によ
って支那の解放運動を裏切ろうとする要人は抹殺してもよい
三.下層民衆階級に工作し、行動をおこさせ、国民政府をどうしても戦争をしなければならぬ破目に追いこまなくてはならぬ
四.党は対日ボイコットを全支に拡大せよ、日本を支援する第三国に対してはボイコットを持って威嚇せよ

大東亜戦争で日本が敗れ、中国共産党が中国大陸で勝利を収めた、その直後の大会で、中国共産党の劉少奇は、我々の仕掛けた作戦によって、戦争が拡大された、彼等の同士討ち(日本軍と蒋介石軍)の結果、我々共産党が天下を制することが出来た、我々の力だけでは日本軍や、国民党軍を討つことは出来なかった、と語っている。

 かつて日本社会党訪中団の佐々木更三委員長が、中国の毛沢東主席に、戦争で大陸を攻めたことを謝った折、日本軍のお陰で我々は、天下を握ることが出来たのだから、何も謝ることはないと、語った言葉は有名である。

これ等の話から、恐らく昭和十二年七月七日の盧溝橋の一発は、先に述べた如くであろう。或いは軍紀の乱れた蒋介石軍の中に、中共軍がもぐり込んで、あたかも蒋介石軍(第二十九軍)の発砲と見せかけた、とも解することが出来る。「政権は銃口から生まれる」とは毛沢東の言葉である。

(これも銃弾はソ連スパイによって発射された。この時期、あらゆる所でソ連コミンテルンの暗躍があった) 

 日本軍と蒋介石軍が、その都度和解しながら、発砲が止まらず、遂に戦争が拡大された。まさか中共軍が蒋介石軍と組んでいるとは、日本軍は気付かなかったのではなかろうか。

 蒋介石軍が日本と和解することを恐れたソ連のスターリンは、数千人のコミンテルン顧問団を中共軍に投入し、また共産党員を国民党員に入党せしめていた。

 現在、中国共産党の江沢民、胡錦濤の両氏が共に、日本の侵略と云う宣伝を、日本国民に信じ込ませようと企み、その上、共産政権の確立と、毛沢東主席の提唱による大躍進政策・文化大革命によって、七千万人とも八千万人ともいわれる犠牲者を自らつくりながら、これを日本軍の侵略による犠牲と、見えすいた嘘の宣伝を繰り返している。

 「アメリカの言論界に対して(中国政府が)嘘をつくこと、騙すこと、そして中国と合衆国は、共に日本に対抗していくのだと、アメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい。」この言葉は日中戦争当時の国民党政府の考えであった。と米国人の著名なジャーナリスト、セオドア・ホワイトは書いている。

 日本を貶める虚偽の宣伝、情報の歪曲は、現在に至るまで中国政府不変の政策である。残念なことは、日本の政界、マスコミの多くが、その嘘のお先棒を、担いでいることである。中国、韓国の首脳が歴史を学べと、繰り返すが、日本は嘘の歴史ではなく、真実の歴史を学ぶべきである。

 よくたとえそれが真実であっても、歴史家や評論家が調査も報告も他人任せで簡単に否定する。それを自分でよく調査し精査するのが仕事の筈ではないのだろうか。連合国側の資料は、戦勝国の正当性を主張するための資料であり、自分達に不利益をもたらす内容は決して含まれてはいないのである。

であるからこそ、敗戦国戦勝国の立場に立たない、客観的な真実・史実を調査する必要があろのだ。その総括が日本の本当の終戦であり、今ある言われ無き非難の解答になるはずである。

それこそがマスコミや戦争評論家、外交評論家と、何よりも政治家の仕事ではないのだろうか。